2009年11月
無明長夜の 灯炬なり 智眼くらしと かなしむな    「正像末和讃」


「無明」とは、いわば「心の引きこもり状態」ではないでしょうか。
私たちは常に自分を正当化し、誤りを他に向けて、批判的に対応する
習慣がついています。ですから、他人の言葉や意見に素直に耳を傾けることは
できません。人間同士であっても、このような状態なのですから、まして仏さまの
言葉を受け入れることは、きわめて困難です。このように自分の「カラ」に
じこもった、無自覚で放漫な状況を「無明」といわれたのです。
 私たちは、このような自己中心的な反面、「だれも私のことを理解してくれない」
と嘆きます。だったら、そういう自分自身は、どれほど他人のことを理解しようと
努力しているのか、と云いたくもなります。自分が他を理解しようとしないことは
同時に他人なり、他が自分に寄せてくれている好意や、善意を感受する事の
出来ない鈍い感性をあらわしています。寂しさ、虚しさ、孤独感。
これが「無明」の実感でしょう。
 このような「無明」の閉鎖的状況を開いてくださるのが、仏さまの言葉、
教えなのです。それを光に譬えて「灯炬」といわれたのです。深い闇を
照らして、ものの真実を明らかにする。それは自覚しようとしなかった
自分の姿を知らしめ、同時に自分が本当に目指すべき方向と、生き方を
教える言葉だったのです。
人身受けがたし、今すでに受く。
仏法聞き難し、今すでに聞く。
この身今生にむかって度せずんば、
さらにいずれの生にむかってかこの身を度せん。
大衆もろともに至心に三宝に帰依したてまつるべし。
今朝、目がさめたことに不思議さを感じ、驚きをもって一日を始められた
でしょうか。いつもと同じ一日が始まっただけで。そこに何の感動もなく、
当然の一日が始まったのではありませんか。自分が今日生きていること。
家族とともにあること。自らの五感のすべてをはたらかせて、あらためて
考えてみてはいかがでしょう。そこには無限のめぐみが感ぜられるはずです。
無限の善意が感ぜられるはずです。そして、その無限のめぐみ・善意のひとつ
でも欠けていれば、今の私はあり得ません。実に、不思議というべきでは
ないでしょうか。
 自分の生かされてあること、そしてさまざまな人々の善意や、
もののめぐみを感受することの出来ない、鈍感な感性の状況を「不幸」といいます
ですから、感受性が変われば、私を取り巻く世界が変わります。当然としか感ぜ
られなかったことが、めぐまれたものと感ぜられたとき、その人に智慧の眼が開かれた
といえましょう。「智眼」をひらくもの、それが仏さまの言葉です。