2010年1月
往生というは 浄土に 生きるというなり      尊号真像銘文


 浄土は阿弥陀仏土のことです。私たちの言葉では、浄土はすぐには
納得しにくい世界です。そのために、私たちの世界を立派な浄土にする、
また心を清らかにして、心の中に浄土をつくるという見解もでそうです。
 この世界を良くすることは大切なことです。環境にしても、資源にしても
少しでもいい方向に行くように努力することは、忘れてはならないことです。
だからといって、よりよい世の中をつくったとしても、自然に煩悩が滅して、
さとりにいたることは難しそうです。

 心を清らかにすることは、仏教的にいえば、煩悩をなくすことです。煩悩は
108あるといいますが、自分中心の心が根本的な煩悩だといわれます。
誰もが自分中心の心で行動しますと、それぞれの心が異なりますから、多くの
問題が起こります。だから、心を清らかにするには、自分中心の心を取り除けば
いいことになります。もし、相手の立場に立つことがこの心を取り除くことだと
しますと、例えば、満員電車に座っていて、目の前に居る人が疲れ切った表情を
していれば、相手の立場にたって、席をゆずることはできます。しかし、相手の
立場に立ったつもりが、そうでなかったということはしばしばあります。また相手が
一人ならばいいのですが、多数の場合は、それぞれの立場に立つことはできません。
このように考えますと、私たちは、自分中心の心から離れることはできません。

 ただ、満員電車の例のように、私たちが相手の立場に立つことができたり、
たとうとすることは素晴らしいことです。。また、自分中心の心に気づきながら
世の中に役立つことをすることも素晴らしいことです。

 浄土は、文字通り清浄なる土です。清らかな世界、煩悩のない世界、煩悩が
あったとしても、その煩悩を清らかにしていってくれる世界が想像できます。
浄土は極楽、ともいいます。楽は楽しいという意味と、楽という意味があります。
したがって、浄土とは、心が清浄であることがきわめて楽しく、楽な世界だと
いえます。

 ところが、私たちが考えるきわめて楽しい、きわめて楽である世界は、自分の
欲望が十分に満足された世界です。その点から考えると、浄土が極楽であるという
世界は、自分中心の心から離れられないこの世界にはないということになちます。
 往生は往きて生まれるという意味です。親鸞聖人が「往生というは 浄土に
生きるというなり」といわれるのは、浄土はここにはないということをシメされて
いるように思われます。その裏では、往生は私たちがはからうのでなく、
阿弥陀仏の私たちを浄土に往生させるという願いにまかせよと聖人はいって
おられるような気がします。