2010年2月
阿弥陀仏は光明なり 光明は智慧のかたちなり   唯信鈔文意

 仏になるとは、さとりを開くことです。さとりを開くとは、物事を正しく
見る智慧を得ることだといいます。
 阿弥陀仏とは、インドの言葉を音訳したものですが、和訳しますと、
無量の光明と寿命をもって仏様という意味です。
 太陽の光に照らされて、私たちは自分の服や靴の汚れがわかります。また、
歩いていても、夜道ならば、舗装の一部がはがれていて、けつまずくことがあっても
陽があたっていれば、はがれたところに気づきますから。けつまずくことはありません。
 聖人が「阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなり」といわれるのは
阿弥陀という言葉の意味を述べただけではなく、聖人が光明によって、今まで
見えなかった自分の心の汚れを見つめさせるとともに、智慧の光明によって
仏への道を進ませていただいたと、感じておられるからだと考えられます。
 聖人の光明に照らされた生活は、私たちの日常に置き換えるとどのように
なるのでしょうか。
 榎本栄一さんという念仏の教えをよろこばれた詩人がいらっしゃいました。
そのかたに「あるく」という詩ががあります。
 私を見ていてくださる
 人がいて
 私を照らしてくださる
 人があるので
 私はくじけず
 こんにちをあるく
この詩の「人」とは、誰のことかはわかりません。阿弥陀さまなのか、
親鸞聖人なのか、同信の友なのか、それとも日々出会う親しい人や
家族のことなのでしょうか。「照らしてくださる」とは、
心を照らすことだと考えますと、「人」は阿弥陀仏と考えられますが、
もしかすると、榎本さんは、親鸞聖人、同信の人、周りの人々の言葉や
態度に、仏の光明を見いだされたのかもしれません。
 他人の目があると、私たちは緊張します。「失敗はできない」
「いいところを見せよう」と思い、ときには、「変なことはできない」と思います。
ところが、幼い子供に親の目がありますと、子供は頑張りもしますし、
心強くも思います。
 私を照らしていただく光は、私の間違いを示しながら、私をはげまして、
この道でよろしいと私の進路を示していただけます。
 この光明があるから、くじけそうなときがあっても、くじけることなく
日々歩いていけると、榎本さんは示しておられると思います。