2010年3月の言葉
信は 疑いなき こころなり          唯信鈔文意


高校の教員をしている時の話です。
いつも遅刻してくる生徒に注意をしていると、その場を逃れたいばかりに
「明日は絶対に遅刻しません信じてください」といったりします。「信じられない」
というと、「もし遅刻すれば、一週間掃除をします」など、自分で遅刻したときの
罰則まで用意します。「そこまでいうなら、あなたを信じるから、遅れないように」
といって、次の日を待ちます。こんな場合は、翌朝、大体しませんが、生徒の登校を
待つ間は「果たして遅れずに来るのだろうか」と気をもみます。「信じる」と
いいながら、その生徒を信じることが出来ないからです。

 「私はあなたを信じます」という場合は、必ずしも信じられないのに、無理に
信じようとしていることが多いようです。

 毎日決まった時間に登校する生徒に、「あなたは遅刻しないことを信じています」
ということはありません。遅刻の心配をする必要がありませんから、信じる、
信じないなどと思うこともありません。では、この生徒を信じているのかといえば、
もちろん100%信じています。このように考えますと、信じるということは、
「もしかしたら、遅刻するかもしれない」という疑問がないことだともいえそうです。

 親鸞聖人のいわれる信も、この例えのようなものかもしれません。
「歎異抄」に、次のような話があります。浄土で仏のさとりを開きたいと
願うならば、早く浄土に往生したいという気持ちになってもいいはずですが、
そのようには思えないという門弟の問いに答えて、親鸞聖人も同じ気持ちであると
答えられます。さらに、往生したいと思わないのは、煩悩のせいであると示されます。
その上で、阿弥陀仏はこのようなものに向かって、「まかせよ、必ず救う」と
誓っておられるのだから、阿弥陀仏の誓いは頼もしいといわれます。
「まかせよ」といわれて、「こんな私では、まかせても救われるはずがない」
というのではなく「こんな私に向かって誓われているのだから、

 往生はますます間違いない」と受け止められるころに、仏に対する信頼の
姿がみられます。何の心配もないという心のように思われます。
また、「歎異抄」では、師の法然上人にだまされて、念仏して地獄に堕ちたとしても、
後悔しないとも述べられます。親鸞聖人にとって、念仏が、唯一のさとりへの道で
あるということや、法然上人に対する信頼感の大きさもありますが、阿弥陀仏の
教えが真実であるという確信がこの言葉になったと伺われます