2010年5月
この如来 微塵世界に みちみちたまえり      「唯信鈔文意」


榊原徳章氏に、「Bodhisattvas Everywhere」(ボデイサットバズ エブリフェア)と
いう著述がります。あちらこちらにいらっしゃるいらっしゃる菩薩、という意味と
考えられています。榊原氏が語られます。私たちは毎日食事をしますが、例えば
大根はどんどんと生長して、一番いいときに食べられます。もちろん、大根は
人間に食べられるために成長して居るのではありません。肉も魚も同様です。
 また木々は、二酸化炭素を酸素に変えます。私たちはその酸素を呼吸して
いのちを繋いでいますが、木々は酸素の料金を要求しません。榊原氏は、私たちの
周りにあるこれらのものは菩薩であるといわれます。自分のことは後にして、
まず人のために何かをする点をとらえて、菩薩と云われたと考えられます。

 榊原氏の言葉から思いつくことですが、大根などのおかげで生命を維持できる
だけでなく、私たちが今、念仏者であれ、学者であれ、サラリーマンであれ
それぞれの姿でここに居ることは、多くの菩薩のはたらきがあったからと
思われます。

 親鸞聖人は、別の角度から「この如来 微塵世界に みちみちたまえり」
といわれます。あるお坊さんは、寺に生まれたけれども、僧侶になりたいとは
思いませんでした。就職を考えましたが、うまくいかなかったので、仏教の
勉強をはじめたそうです。
 元々勉強したかったわけではありませんから、今ひとつ、力がはいりません。
こんないい加減な生活でいいのかと考えているときに、「それでいい」と
先輩からいわれたそうです。いい加減なままでいいとはどういうことなんだろうと
思い、そのあたりから勉強もしはじめたそうです。そのあとも紆余曲折はあった
ようですが、お坊さんとしてすごされています。

 今から思うと、先輩の言葉だけでなく、先生、知人、家族が、嫌がられても
云ってくれた言葉から何の気なしの一言、さらには範となる生き方などを通して
さまざまな私を導いてくださったと、その方は云われます。

 微塵世界に如来がみちみちておられるとは、このようなことと味わえます。
その一方で、微塵世界というのはあらゆるところですから、私にも、仏が
いらっしゃることになります。
 考えてみますと、煩悩に満ちた私が、今の私をつくるさまざまなご縁に
気づくとは考えられません。もし気づくとすれば、私に至りとどいた仏が
気づかせてくれたように思われます。その仏のはたらきがあるからこそ
私が仏への道を歩ませていただけると受け取られます。