2010年8月
本願をききて 疑うこころなきを 聞(もん)というなり 「一念多年文章」

黄土真宗の篤信の人を、妙好人といいます。因幡の源太という妙好人は、江戸時代
の末に生まれ、昭和の初めまで存命した人です。源太が18歳のときに父親が
亡くなりました。その時に「親さま(阿弥陀さま)をたのめ」と父親にいわれた
そうです。源太はお寺にお参りをして、聞法を重ねましたが、よくわかっらなかった
そうです。源太は京都の本願寺まできて、教えを聞きましたが、
わかりませんでした。
 ある時、早朝から源太は、牛をつれて草刈りにいっていました。草がたまれば
牛の背中に乗せていきました。あまり乗せると牛も重たいだろうと思って
一把は自分で持ったそうです。だんだんと重さがこたえてきて、我慢できずに
牛に一把の草を乗せました。すると、すっかりと楽になりました。そのとき、
源太は仏のお慈悲に気がついたといいます。
 自分自身の煩悩も罪もみな仏におまかせして、毎日を過ごすことが
できたようです。これが親さまをたのむということだと源太はうけとめました。

 このように源太がお慈悲に気づいたことが、今月の言葉である
「本願をききて疑うこころなきを「聞」というなり」「聞」ということです。
 親鸞聖人は、どの著述においても、述べられる言葉は結論をしめした
ものです。したがって、例えば、阿弥陀仏の本願のおいわれを聞かせて
いただいても、いい加減に聞いていたり、納得出来ないままに聞いていたり
することもあり得る話ですが、聖人は結論としての正しい「聞」にしか
言及されません。
 本願のおいわれを聞いて、そのままうけとめられたときが、正しく聞いた
ときになり、また、そのときが信心の定まるときになります。今月の言葉は
聞がそのまま信になるような事態を示しています。

 私が思いますに、信心定まるときを求めて、ひたすら聞法を重ねるという
道もあるかもしれませんが、「これは正しい効き方ではない」

「これは疑いかもしれない」など、自分の心ばかりが気になって、しんどい世界に
入りそうな気がします。むしろ、敬う気持ちをもって、教えを聞いていけば、
源太のような機会が訪れるかもしれませんし、いつの間にか、念仏をよろこぶ
生活になっているかもしれません。また念仏生活の中で、あの人に出会ったから
私の姿勢が変わったとか、聖人のお言葉がいつの頃からありがたく思えるように
なったなどのことが振り返れるかもしれません。

 まずは、私も敬う心で、教えを聞かせていただきたいと思います。