2010年10月
信心の人を 真の仏弟子といえり       「親鸞聖人御消息」

 親鸞聖人の主著「教行信証」には「真払弟子釈」があります。
今月の言葉通り、信心の人を真の払弟子だと述べられるのですが、詳しく丁重に
真の払弟子を示されます。そこには最初に、阿弥陀仏の光明に逢うと心が
柔らかくなるとされ、続いて、教えを聞いて忘れず、教えを敬い、教えを
喜ぶ人は釈尊の親友であるといわれ、人中の芬陀利華、すなわち白蓮華であると
いわれます。さらには、人中の好人、妙好人、上上人、希有人、最勝人といわれ
釈尊滅後、56億7千万年してこの世界に現れるという弥勒菩薩と等しいと
いわれます。
 このように信心の人を褒めたたえた後に。自分自身を振り返り、

 愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入る
 ことを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、
 恥づべしと。  「注釈版聖典266頁」

と、真の払弟子とはほど遠い自分のすがたを悲嘆されます。
 信心をいただくと、次の生で必ず仏のさとりを開という正定聚の位に
就くといわれています。親鸞聖人は、当然、正定聚の位に就き、
仏のさとりに近づいている方です。
 聖人は払のさとりを得ようと比叡山で修行された方ですから、正定聚の位に
就くことほどのよろこびは無いはずです。ところが、よろこぶべきことを
よろこべないといわれます。そればかりか、この文の最初に、愛欲の世界に
沈没し、名誉や利益の世界に迷い惑っていると告白されます。
 私はこの文章を見て、成る程親鸞聖人はご自身がおっしゃるように、真の
払弟子とはほど遠い方だったとは思えませんでした。むしろ真の払弟子
のすがたを見せていただいているように感じます。

 もし、「私が真の払弟子である」「私は将来妙好人と呼ばれるかもしれない」
といった人がいたら、思わず「本当かな」といってしまいそうです。
 本来よろこぶべきことを喜ぶことが出来ず、本来嘆くべきことを
嘆くことができないという悲嘆とその一方で、言葉にはなっていませんが
、このような私にまで救いの光明が至りとどいているというよろこびの
世界に、私は、真の払弟子のすがたが感じ取れました。

 蛇足ですが、愛欲や名利の世界にどっぷりと浸かっていることは当然の
ことだといっていっておられるのではありません。