2010年11月
恩を報じ 徳を謝せよ            「浄土文類聚鈔」


「阿弥陀仏に帰依せよ」と阿弥陀仏みずからが命じていただいたおかげで、
親鸞聖人は、浄土への道が開けたとされます。「帰依せよ」という仏の
命令は、生死の苦すなわちいかに生きようとまた死に至っても、
思い通りに煩悩を離れられないことに悩み、道を求めておられた聖人に
とっては大きな恵みでした。だからこそ「恩を報じ、徳を謝でよ」という
今月の言葉になりました。
 「恩を報じ、徳を謝でよ」といわれれば、義務感で報じなければならない
という感じがしますが、そうではありません。聖人は、信心を得たものが
この世で受けるご利益として、智恩報徳の益をあげられます。
恩恵に報いることが利益である、つまり、今月の言葉に即していえば
報じることができるという思いで「謝でよ」といわれています。
 その一方で、聖人は、阿弥陀仏のはたらきがわからないから、阿弥陀仏の
恩恵に報いたいという心にならないといわれます。また、阿弥陀仏の
はたらきを知り、早く仏恩を報じる身となれともいわれます。
 聖人は浄土の教えを広めた方ですから、その著述の中で語られることは
念仏、信心などであり、日々の生活を語られることは殆どありません。
聖人のお言葉と後の念仏者の生き方から推測すると、聖人は報恩感謝
の思いで日々過ごされたと考えられます。
 浄土真宗の僧侶で、教育者として有名な東井義雄先生は、原稿用紙も
筆記具も机も座布団も何一つ自分では作り出せない。みな誰かの
ご労作であるといわれました。そしてご労作の中に生かされている
ご自身のことを、おかげさまのど真ん中といわれました。
東井先生ご自身からは「これが報謝の行いです」という言葉は見られず、
むしろ、おかげさまのど真ん中にいて、恩恵ばかりをいただいて
「すみません」といわれます。しかし、「すみません」という言葉が
私には尊く感じられ、東井先生の生活が感恩の思いから出たものである
ことが容易に推察出来ます。
 よく見つめてみると、東井先生がいわれるように、私たちは多くの
恩恵の中に生かされています。また、私はこのことが真実だと思います。
しかし、恩恵に気づかなければ、よろこびの心も感謝の言葉も出てきません。
 恩恵に気づく目をもつことができれば、あれも恩恵、これもおかげさまと
感じられ、恩恵の中に生かされていることがわかり、よろこびや感謝の
言葉になってきます。そんな中で、いつの間にか、喜びの心から報謝の
行いができてきます。これが聖人がいわれる利益としての報恩の行いの
一面であると考えています。