2010年12月
浄土真宗は 大乗のなかの 至極なり  「親鸞聖人御消息」


 釈尊が涅槃に入られた後、修行者は、釈尊と同じように戒律を守り、
修行をしていました。ところが、数百年経つと、彼らは自分の修行を熱心に
しても、一般の人々に教えを伝え、導くことが少なかったようです。
 釈尊は、35歳でさとりを開かれた後、45年にわたって人々を悟りの
境地に導かれました。釈尊の精神は、自分だけがさとりに至ることではなく、
自分も、他の人々もともにさとりの道を進むことであるとして、在家の
信者が新たな仏教の活動をはじめ、大乗仏教徒名乗りました。そして、
当時の修行者を中心とした仏教を批判して、修行者しか乗れない小さな乗り物
即ち「小乗」であるとし、「大乗」こそが釈尊の精神を受け継いだ仏教で
あると位置づけました。この「大乗」が日本に伝わった仏教です。
 「小乗」というのは「大乗」 の側からいったことで、当時の修行者中心の
仏教がみずからを小乗ということはありません。彼らも、大乗仏教にタイする
批判はあります。ただ、「誰でもの仏教」とでもいえる大乗の見解は、
修行者でない私たちにとって素晴らしいものです。

 阿弥陀仏の四十八願の中の第十八願は、私たちが信心と念仏によって
往生できることを誓った願です。第十八願の最後に「五逆と正法を誹謗する
ものを除く」とあります。五逆とは、五つの重罪という意味です。
大乗仏教でいう五逆とは、父、母を殺すなどの社会的な罪悪と因果の道理
を信じない、出家者の修行を妨げるなど仏教を否定することを指します。
正法を誹謗するとは、正しい教えである仏教を誹謗することです。
確かに「除く」のが当然のようですが、親鸞聖人は、中国の善導大師の
意向を受けながら、五逆と正法を誹謗することは大きな罪で有ることを
知らせて、「一切の衆生を漏らさず」救うと示されます。
 自分自身の生活を振り返ってみると、人に言えないことを思うことも
あれば、神も仏もあるものかという思いになることもあったかもしれません。
五逆などを除くといわれると、私は本願の目当てではないことになります。
しかし、別の観点から考えますと、もともと、さとりの境地に近い人は、
仏の救いを当てにする必要はありません。さとりから遠いものが、仏の救い
を必要としています。そうしますと、罪の重さを知らせて、みな救うという
聖人の理解が阿弥陀仏の思いであったように窺えます。

 浄土真宗とは、法語カレンダーの表紙の言葉に「選択本願は 浄土真宗なり」
とありましたように第十八願のことです。大乗が誰でもの仏教だとしますと
一切をもらさず救うとういう第十八願は大乗の中の至極になります。