2011年1月
聞思して 遅慮することなかれ        「顕浄土真実教行証分類」

 

 ご本願に出逢った時に、私たちがどう対応するかは、素直に信頼するか、
拒絶するかのどちらかです。無関心のままというのも、拒絶・・・の種です。
 ここで「聞思」と言われるのは、ご本願のおいわれを聞かせていただいて、
そのまま受け入れることです。「思」tあっても、自分で「思う」ことではなく
この「思」は次の「慮」に対する言葉です。「遅慮」とは、ただちに受け入れる
「聞思」ではなく、ああでもない、こうでもない、と自分で考えを
めぐらせながら、もたもたと時間を消費したままの状態をいいます。
そういう自分の判断でためらうのでなく、そのまま信受することを「聞思」と
述べられています。
 私たちは、仏さまがお説きくださったことを、本当にそうだろうかと
すぐに疑ってかかります。お浄土なんて本当にあるのだろうか。お念仏一つで
さとりをひらくなんてことが本当にできるのだろうか。私たちは、仏さまの
お言葉を、私たち凡夫の理性で判断しようとしますが、これは最初から
ボタンをかけ違えています。「お浄土」も「お念仏」も、仏さまの領域の言葉
ですから、仏さまの世界のことを、凡夫の論理で心配しても、
まったくナンセンスです。仏さまの世界のことは、仏さまの論理で窺わねば
なりません。
 このことに徹底されたのが中国の善導大師です。大師は、当時中国の
唐の時代にあって、お念仏のみ教えが正しく理解されていないことを
嘆かれました。
 天台大師智のような高僧方も、天親菩薩の兄である無着菩薩の書かれた
「摂大乗論」を根拠にする摂論学派の人たちも、お念仏くらいで往生できる
浄土なら大したところではないと言ったり、浄土が素晴らしい世界ならお念仏
ひとつで往生できるような虫のいい話はないというような、易かろう悪かろうの
凡夫の論理で推し量っていたのです。
 これらに対し、仏さまの世界のことは、仏さまの論理で判断すべきことを
明らかにしてくださったのが善導大師です。それを「正信偈」に
「善導独明払正意」と讃えられています。善導大師がお書きくださった「散善義」
というお聖教に、何故お念仏ひとつで往生できるのかについて「順彼払願故」
(彼の払の願に順ずるが故に)と、阿弥陀さまのご本願に誓ってあるからだと
しの根拠を明確にしてくださっています。
 私たちは、阿弥陀さまのご本願を基準にしなければなりません。
価値観が多様化して、何が真実なのかが見失われがちな今日こそ、
この基本姿勢は特に大切にしてまいりたいものです。