2011年2月
遇いがたくして いま 遇うことを得たり    
「顕浄土真実教行証分類」

お釈迦さまの譬えに、砂浜で手に砂をすくった時、砂浜全部の砂を生物と
考えたとき、手の中の砂が人間に生まれることの出来た者に相当し、さらに、
その手の中の砂から、指の爪の上に乗るくらいの割合が、仏法に遇える者だと
言われています。
 この地球上だけでも想像も出来ないくらい無数の生物が存在しており、
多くの生物の中から人間に生まれ得る確率は、きわめて小さいものと
言えるでしょう。そして、その人間の中から仏法に遇える人もまた、さらに
希なものです。 蓮如上人も、「御文書」(大聖世尊の章)に、
「まれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり(注釈版聖典)といわれ
「しかるにいますぐにわれら弘願の一法にあふことを得たり」「注釈版聖典」と
遇いがたい弘願の法に遇えたことがいかに稀であるかをおよろこびになって
おられます。
 客観的確率としても「遇いがたい」み教えなのですかが、主観的意味に
おいても、この他力のみ教えは「遇いがたい」のです。
 それを「阿弥陀経」には「難信の法」と説かれています。お念仏の
み教えは、易行道とも言われていますから、「易行」なのに何故「難信」なのか
少しわかりにくいかもしれません。「難信」とされる理由の一つは、
「法の尊高をあらわすため」とされています。易かろう悪かろうと
思われないように、法義が軽く見られないように、「難信」というのです。
 二番目の理由として、「自力をいましめるため」と言われています。つまり、
「他力だから難信なのだ」ということです。「他力」なら「易しい」はずでは
ないのか。ますます訳が分からなくなるかもしれませんね。実は、これは
方向性が逆ということです。
 手間に引いて開く扉を、いくら力いっぱい押しても開きません。「他力」とは
如来さまから私たちに向かって届けられる法義です。向こうからこちらに
開いているのに、こちらから一生懸命押そうとしているのが「自力」です。
 方向性が逆ですから、これではいつまでたっても「他力」の法には遇えません。
それが「難信の法」で、自力がいかに根深いかということです。
その自力が捨たった所が、「遇いがたくして、いま、遇うことを得た」という
ことでしょう。
 私たちは、自分の理性や感性に合ったものだけを受け入れる傾向にありますが、
それは自力の土俵です。如来さまから届けられた呼び声のままを受け入れる
ところが、他力の信なのです。