2011年3月
帰命は 本願招喚の勅命なり   「顕浄土真実教行証文類」


「招喚」とは、如来さまから招き、よび続けてくださっていること。
そして「勅命」とは、逃げ場のない救命ということです。「帰命」とは、
「正信偈」に「帰命無量寿如来 (無量寿如来に帰命し)」とあるように、本来、
私たち衆生の側の持ち分の筈です。「帰命」の持ち場は衆生の側ですが、
その根源をたずねてみると、実は、如来さまからの呼び声であったと気づかれ
たのが、親鸞聖人の画期的発見です。
 阿弥陀さまは、私たちに直接接してくださるに当たって、よび声の
仏さまとなられました。生まれて数ヶ月たって、今まで言葉が喋れなかった
赤ちゃんが、お母さんに向かって「マーマ」とよべるようになったのは
それまで何度も何度も、お母さんの方から、その赤ちゃんに「私がママよ」と、
呼び続けていたからです。
 
今私が「南無阿弥陀仏」と、お念仏申すことができたのは、それまで
ずっと阿弥陀さまが、よび続けてくださっていたからにほかなりません。
 普通、私たちが呼びかける時は、相手の名前で呼びかけますが、阿弥陀さまは
ご自身のお名前でよびかけてくださいます。それには大きな意味があるように
思います。
 ある小さい子どもさんが急な病気になりました。それまで元気そうに
見えていたのに、頭が痛いかお腹が痛いか、体の不調を訴えたのでしょう。
病院に行くと、すぐ入院するよう云われたので、ともかく入院させ、
お父さんは毎日、仕事の帰りのその子のお見舞いに寄っていました。
まだ元気そうに見えていた頃は、「太郎君、早く元気になって帰ろうね」
「太郎君頑張れよ」と声をかけていましたが、日に日にやつれ、見る影も
なく痩せ細った太郎君には、「太郎君、頑張れよ」とは云えませんでした。
「お父さんが、ここにいるよ」としか云えなかったそうです。
 
あらゆる諸仏方から、「この泥凡夫だけは、どうしようもない」と
見放された私たちに、阿弥陀さまは、「私が、いつもここにいますよ」と、
「真無阿弥陀仏」とご自身の名前でよびかけてくださっているのです。
まさしく親さまの名告りです。声の仏さまとなられたのは、他力の法義の
お手立てということでもあります。
 
親鸞聖人は、「信心正因」の法義を明らかにしてくださいましたが、
信心は心に起こるものです。心に起こるものに、心のはたらきをさせたら
自力になります。心に起こることなのに、心のはたらきをさせない。それが
聞くままが信心となるあり方です。聞くという行為は、先手の呼び声があって
初めて成立します。これが、他力の信の構造で、阿弥陀さまが、呼び声の
仏さまとなられた理由です。