2011年4月
仏号 はなはだ持ち易し 浄土 はなはだ往き易し
「顕浄土真宗教行証分類」


すでにお気づきかもしれませんが、今年の法語は、すべて本典「教行信証」の
ご文が選ばれています。宗祖親鸞聖人750回大遠忌の年ですから、宗祖
主著であり、立教開宗の根本であるご本典のお言葉を味読させていただいてます。
先月までのものは、何れもご自釈(宗祖ご自身のお言葉)でしたが、今月分は
「楽邦分類」からのご引文で、それも、張揄という人の言葉の孫引い
(引用の引用)の形を採っています。宗祖ご自身のお言葉ではありませんが
お引用になられたのは、宗祖の思いと同じであったからと考えてよいでしょう。
 「仏号」とは、阿弥陀仏の名号のことで、お念仏申すことは難しい行でなく
誰にでも称えやすくたもちやすくと、如来さまの方で仕上げてくださいました。
誰にでも称えやすくたもちやすい行ですが、このお念仏には大きな力が
あります。
 因果の道理からすれば、それぞれしてきた行いが違えば、その結果として
往き先も違うのが当然の筈です。「無量寿経」というお経にも、
 行き当たりて苦楽の地に至り趣く。身みずからこれを当くるに
 代るものあることなし。 (「注釈版聖典」56頁)とあり、
してきた行い従って苦や楽に至り、しかも誰も代わってくれないと示しています。
ところが、お念仏の法義は「倶会一処」として、みな同じ浄土で会うことができます。
それは、同じ南無阿弥陀仏のお念仏を頂戴するからです。
因が同じだから、果も同じということです。だから、「浄土はなはだ往き易し」です。
「無量寿経」には、「易往」の理由について、
その国逆違せず。自然の牽くところなり。  (「注釈版聖典」54頁)
と言われています。「その国とは」、お浄土のこと。
浄土に往生させていただくのが、「逆違せず」。「逆」とは逆戻りがないこと。
ひとたび浄土に往生したものが、再び迷うことないということで、
「逆違」の「違」とは、例外がないこと。「十方衆生」の救いに
例外がないということです。
 その理由が、「自然の牽くところ」であって、ちょうど磁石に釘が引きつけ
られるようなものです。折れた釘でも、錆びた釘でも、曲がった釘でも、
磁石の前に置けば同じように引きつけられます。折れているとか、
曲がっているとかは、人間の側の論理であって、磁石にとっては何の関係も
ありません。善人も、悪人も、男も女も、ご本願の前では等しく救いの
目当てです。仏力・他力の牽くところですから、
「浄土はなはだ往き易し」なのです。