2011年6月
他力というは 如来の本願力なり   「顕浄土真実教行証文類」


 「他力本願」には、いつも誤解がたえません。
何でも他人まかせで、自分では何もしない怠け者のイメージでとらえられることが
しばしばです。しかし、今月のお言葉のごとく、「他力」とは、
「如来の本願力」、「仏力」です。仏さまの力にまかせるのですから、他人に
たよる必要はありません。決して他人まかせなのではなく、私の上に仏力が
はたらいてくださるのであり、仏力であるからこそ、真実性の根拠を得ることが
できるのです。
 何故「他力」でなければならないかということについて、梅原真隆勧学の
次のような譬えを聞いたことがあります。
 
 かいつまんで紹介させて頂きます。
 あるところに、代々家宝として伝わる一幅の掛け軸がありました。
「狩野探幽」の絵であるとしてとても大切にしてきました。ところが、
その当主が、ある時、これが本物かどうかが不安になりました。そこで
ある鑑定家のもとに見てもらいに行きました。しばらく丁寧に見たあとで、
「たぶん、探幽の絵と見て間違いないでしょう。署名と落款がないのは欠点
ですが、画風から見て、ほぼ探幽でしょう」と言ってくれました。
「やれやれ、大事にしてきた甲斐があった」と安心しながら帰路についていた
途中、ふと気になることが頭をかすめました。「まてよ、たぶん間違いない
だろうとは言ってくれたが、署名がないのが欠点だといってたな」と思いだし
「それなら、署名があればいいんだ」と考えました。そこですぐに有名な
書家のところへ行き、「すまないが、ここに「探幽」と書いてくれ」とたのみました。
変なことをたのむ人だなとは思いながら、相手がそういうものですから、
立派な達筆で「探幽」と書いてくれました。「これでよし」と満足して、今度は
別の鑑定家のところに行きました。今度は鑑定家を試してやるくらいの意気込みで
自信満々に見てもらいました。その鑑定家は、長い間首をひねりながら
しばらく見て、ひとこと、「絵の感じからは、確かに探幽のようなのですが
署名が偽物ですから、これは贋作です」と言いました。
 
 せっかく本物に出会っていながら、こちらがつまらぬ浅知恵をはたらかした
ために台無しになってしまったのです。私たちも、せっかく如来さまから、
真実の仏力・他力を頂戴しているのに、つまらない自力をはたらかせるから
台無しになるのです。
 「他力」は、「如来の本眼力」だから真実なのであり、私たちの自力は
邪魔にしかなりません。