2011年7月
煩悩の氷解けて 功徳の水となる
                「顕浄土真実教行証文類」


 今月の法語は「行文類」一乗海釈において、「経にのたまはく」として
述べられているお言葉ですが、「高僧和讃」にも、「必ず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる」(注釈版聖典585頁)と、宗祖ご自身のお言葉
として同じ意味が示されています。また同じく「高僧和讃」に、「大悲大願の海水に
煩悩の 衆流帰しぬれば 智慧のうしほに一味なり」(注釈版聖典585頁)と
あります。美しい清流からの川の流れも、排水などで汚れた川の水も、ひとつ
同じ海に入れば、同じ海水の味となります。凡夫も聖人も、ひとたび浄土に
往生させていただいたら、浄土の土徳によって、ひとしくさとりをひらくのです。
 
 親鸞聖人がお出ましになるまで「浄土」の一般的な理解は、この世は仏道を
修業するにはあまりに雑音や邪念が多く環境が悪いので、環境の良い浄土に
往生して、そこで心おきなく修業に専念しようというものでした。
 受験を控えた子どもがいるのに、父親はお酒飲みながらテレビを見て、
弟はゲームに夢中になっているような家庭では、受験勉強に良い環境では
ありませんから、塾や寮にに行かせて、そこで一生懸命勉強に専念するという
のも道理です。浄土もそのように理解されていました。
 しかし、そこには決定的な矛盾がありました。浄土に往生してから
菩薩の修行をし、それで初めてさとりをひらくことができるのであれば、
ご本願の独りばたらきとして、絶対他力の法義であるのに、浄土に往ってから
菩薩の修行をするという自分の仕事があるのはおかしいではないかということです。
そこに気付かれたが親鸞聖人でした。環境の良い浄土で修行をするという
道理とは別の道理で、往生即成仏を説明せねばなりません。その倫理が、
どんな川でも海にたどり着くと、みな等しく海の同じ味になるという倫理です。
浄土の土徳によって、浄土に往生したその即時に、同じ一味のさとりをひらく
のです。
 
 しかも、おさとりは、阿弥陀さまと同じおさとりです。阿弥陀さまが、他の
仏さまと違う点は、浄土に往生した者に、阿弥陀さまのお徳がそのまま
受け継がれるところにあります。これを「弥陀と同証」といいます。
 先立たれた方々は、浄土に往生され、阿弥陀さまと同じさとりをひらかれて
いますから、私たちがお念仏申すことを一番喜んでくださいます。
そして、阿弥陀さまと同じさとりをひらかれた方がたですから、お仏飯は
過去帳の前にお供えせず、ご本尊にお供えします。それが、弥陀と同証
の故人のお徳を讃えることになるのです。