2011年9月
如来 一切のために つねに 慈父母となりたまへり
        「顕浄土真宗教行証文類」


今月の法語は、親鸞聖人が「信文類」において長文の引用を施される

「涅槃経」の中にある言葉です。
 如来さまのお慈悲は、よく親の慈愛に譬えられます。如来さまのことを、
「親さま」と申し上げることもあります。私たち人間の持つ感情や意志において
最も如来さまに近いと考えられるのが、自分自身を犠牲にしてまでも子どもの
ことを一番大切にする、親の自己犠牲のこころであることから、そう云われるの
でしょう。
 私が小さい頃聞いた次の話は、今でも印象に残っています。
ナメクジ、が二匹、sの大きさから、おそらく親子が連れ添って移動していました。
今から、思えば、彼らをもてあそぶ、きわめて悪質な行為だとも居ますが、
彼らの周りを塩で取り囲んだのです。こっちに進もうとすれば塩に当たるので
引き返し、あっちに進もうとすればまた塩に当たって引き返しをしばらく繰り替え
していました。しかし、切れ目なく取り囲んでいますので、何度やっても出口は
ありません。そこで思いがけない行動に出たのです。
 親と思われる大きな方のナメクジが、突然、塩に向かって突き進みました。
自らの体で塩を掻き分け、自らが橋となって、、その上を子のナメクジが
渡っていったというのです。
 菩薩の心とは、海に二人が投げ出されたのに浮き輪がひとつしか無い。
その時に自らが手を離すことができるかどうかだといわれています。
 阿弥陀さまは、第十八願に、「若不生者、不取正覚」と言われ、
私たち衆生が往生できなかったら自らもさとりを取らないと、自己の正覚よりも
衆生の往生を優先してくださっているのです。
 学生や社会人になって初めて一人暮らしを始めた頃、あるいは娘さんが
実家を離れて遠い他家に嫁いだ頃、遠い家族からもらった手紙は、何度読んでも
うれしいものです。覚えるくらいまで読んで、それでも読むたびに、家族の愛情が
感じられうれしくて仕方ありませんね。それは家族の人が自分のことを大切に
思ってくれているからです。
 「御文章」は何度読んでもありがたく、仏さまのお話は何度聞いてもありがたい。
それは、如来さまは、私たちのことを最も大切に思ってくれているからです。
如来さまのお慈悲にふれる仏縁だかrこそ、仏事・法事は、足が痛くとも、
あとからさわやかなよろこびが味わえるのですね。最近は、子どもが騒ぐから
といって、法事の席に小さい子どもさんがつくことが減ってきました。
少しぐらい騒いでもいいから、小さい時から仏事に遇ってほしいと思うのは
私の勝手な重いでしょうか。