20111014

雑行を捨てて 本願に帰す     「顕浄土真宗教行証文類」

 親鸞聖人の書き著されたものは、そのほとんどが仏徳讃嘆であり、
ご自身のことを
述べられることは極めて少ないのですが、ご本典の結びの部分
「後序」または「後跋」において、
恩師法然上人との出会いの感動を綴っておられ、今月の法語は、
その中の一文です。

 しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。「註釈版聖典」

 

 建仁年間の辛酉の年は、建仁元年に相当し、西暦1201年で、親鸞聖人29歳の年に

なります。こう申しますと、すぐにピンと来られるでしょう。そう、親鸞聖人が9歳で

得度され、20年間修行と学問をされた比叡山を下りられ、法然上人のもとに赴かれた

年です。この時を、聖人は「雑行を棄てて本願に帰」された廻心の年とされていおるのです。

 「雑行を棄てて本願に帰す」とは、価値観の大転換です。少しでも多くの善業を積み

それを仏さまに廻向して仏道精進に励むのが普通の理解でしたが、われわれ悪凡夫には

仏さまに廻向できるようなものはなしえず、衆生の側から言えば「不廻向」、

すべて如来さまからの「他力廻向」であるという大転換でした。そしてまた、

八宗兼学(多くの教えを幅広く学ぶこと)が常識とされる総合大学でもあった

比叡山の価値観では、いろんな行を多く積むことを目標としてきましたが、念仏の

一行が、あらゆる諸行に勝るというのも、価値の大転換でした。それが、

諸行・雑行を棄てて、念仏一行の本願に帰されたということです。

 聖人の時代には、まだ仏道の尊さは共通の価値理解がなされていましたが、

今日の私たちの時代では、そのことさえ認識されていないのではないでしょうか。

お念仏やご信心などなくても、何の不自由もなく生きていけると言われている時代です。

 その場合の「自由」とは、どういう意味で言っているでしょう。多分、自分の

思い通りになることを「自由」と思っているでしょうね。しかし、よく考えてみると

「自分の思い通りになる」とは、自分の思い、つまりは欲望という煩悩に支配されて

いるのであって、これもひとつの「不自由」な姿です。

 本当の「自由」とは欲望という煩悩に縛られている状態から解放であり、そこに

仏道を歩み、さとりを求める意味があります。

 

 オランダの哲学者スピノザの有名な譬えに次のような話があります。石を空中に

投げたとき、それまで一歩たりとも動けなかった石は、「これで自由になった」と

思うかも知れない。しかし、実際は決して自由ではなく、物理法則に従って、

しばらく後には一定地点に必ず落下するというものです。