201111

心を弘誓の仏地に樹 念を難思の法海に流す 「顕浄土真実教行証文類」

 

 私たちの心は移ろいやすく、「心コロコロ」などと言われるように、

コロコロとすぐに変わります。さっきまで機嫌が良かったのに、急に怒り出したり

愛していた人が浮気でもしたら、いっぺんに愛が憎しみへと変わります。

 樹木は、無理やり移転でもさせれば別ですが、普通には、しっかりと大地に

根を張って、少しぐらい風が吹いても微動だにしません。その意味を「樹」てる

と表しておられます。

 親鸞聖人が、念仏者が真の仏弟子であるとされる理由を、「金剛心の行人」と

言われるのは、真実信心は、どんなことがあっても揺らいだり壊れたりしないからです。

自分で造った信心なら、自分で壊したり変えたりすることも出来るでしょうが、

他力の信心は、如来さまからたまわった信ですから、自分の心でどうこうしようと

しても微塵も動きません。

 「心を弘誓の仏地に樹て」とは、私たちの心が、ご本願という確かな立脚点を

持つことです。それを蓮如上人は、

 弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり。

     (「蓮如上人御一代記聞書」「註釈版聖典」1309頁)

とも

お示しくださいました。私の移ろいやすい心が確かなる立脚点を持つのは、

南無阿弥陀仏が私の中ではたらいてくださっているからです。

「念を難思の法海に流す」とは、私たちの思いを、つねにご本願のなかに浸し、

ご本願に浸かっておくのです。

 やや卑近な例で恐縮ですが、名湯と言われる温泉にゆっくり浸かった時の、

何とも言いようのない安心感。弥陀の法海まかせた安堵感も、通じるものが

あるかもしれませんね。

 蓮如上人は、また、

 わが身をば、法にひてておくべき

   (「蓮如上人御一代記聞書」「注釈版聖典」1260頁)

とも仰っています。このお言葉は、ある人の信仰上の相談に答えられたものです。

その相談とは、ご縁に遇って、お聴聞している時はありがたいと思えるのに、

家に帰ったらすぐに忘れてしまって、ザルのような頭で困りますというものでした。

おそらく多くの人が思いあたるのではないでしょうか。

 ザルのような頭ということなので、蓮如上人は、ザルの中を水で一杯に

する方法を考えてみなさいと言われました。しかし、いくらやっても、

水はザルからすぐに抜けてしまいます。そこで蓮如上人が仰ったのが、

「その龍を水につけよ」 (「注釈版聖典」1260頁)という答えでした。

ザルは水の中に浸けておきなさいということです。すごい発想ですね。確かに

こうすればザルの中も水でいっぱいになります。ザルのような頭であっても

つねに聴聞し、つねに法にひたっておけば、ご法義でいっぱいになれるのです。