20121

摂取の心光 つねに照護したもう (教行信証「行文類」)

 

街から、夜の闇が消えていきます。街角のコンビニは24時間開いていて

まぶしいほどの光は街を照らし、自動販売機の灯りが街灯のように

深夜の通りを照らしています。夜の闇など征服したかのように、夜遅く

なっても街には人の姿が見られます。

 子どもの頃、夜はもっと暗く、もっと恐ろしかったと記憶しています。

子どもは暗くなったら家に帰るもので、遅くまで外で遊んでいると誘拐される

と脅かされました。夜の闇がかかえる不安や恐怖が心に残っているからこそ、

光はありがたく、心に暖かいものや安心を与えてくれるのです。

 その光に喩えられたのが、阿弥陀如来の本願のはたらきです。

十方の衆生をすくいたいという大慈大悲のはたらきは、阿弥陀如来の大悲の

心から発せられる光であり、十方に行きわたる心は、必ず救い取って決して

捨てないという摂取不捨のはたらきです。

 阿弥陀如来の大悲の光は、そのあたたかい光で常に私たちを照らして

くださっています。煩悩の闇に惑うこともなければ、暗闇の不安に心が揺れる

こともありません。本願は、一瞬たりとも忘れることなく、常に私たちを

照らしてくださいます。。しかしながら、私たちはそれを忘れていることが

あります。煩悩に曇った眼は、教えに示された仏道をしっかりと見ていない

ことがあるのです。

 幼稚園児の子どもがお母さんと出かけました。ところが、お母さんは

急用を思い出し、必ずいっしょに行くからここでしばらく待っていてと、

街角に子どもを待たせたまま、あわてて行ってしまいました。

お母さんを心から信頼しているならば、安心していつまでもそこで待つことが

できます。しかし少しでも遅くなると、本当に戻ってくるのだろうかと

疑いの心をもち、自分で探そうと、お母さんの後を追ってその場から動いて

しまいます。幼稚園児の考えることです。目的地までの行き方も方向も知らず

自分でお母さんを探そうと歩き出せば、結局は迷子になってしまいます。

 阿弥陀如来の本願を心から信じているなら、そのまままかせきって安心して

いることができます。しかし、本願だけでは満足できず、自分の力で少しでも

進もうとすれば、それは自力の「はからい」であり、迷いの世界に進むだけです。

本願の摂取不捨の心は常に私たちに届いているのに、煩悩の心がはからいを生み

本願の心を見えにくくしているのです。