20122

こおりおおきに みずおおし

  さわりおおきに 徳おおし    (高僧和讃)

 

大学で仏教学を教えていますと、試験の時に面白い答えに出会うことが

あります。「人間の煩悩には、どのようなものがあるか」と問いを出しました。

貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)などの答えを期待していたの

ですが、ある学生はすっかり忘れてしまったのでしょう、苦し紛れに書いた

答えは「子煩悩」でした。

 あの家のお父さんは子煩悩だと、普通は良い意味で使いますが、それを

「煩悩」と表現するところに妙味があります。よい大学に入って、よい会社に

就職して、よい結婚をして、よい人生を送る。そのためには一生懸命に勉強

しなさい、勉強は自分のためですよと子どもに云いますが、よい人生とは

誰にとってよい人生なのでしょうか。よく考えれば、子どものためと思って

やっていることも、親の考えた幸福の押し付けにすぎず、必ずしも子どもの

幸せにはなっていないことがあります。煩悩のやっかいな点は、それが煩悩

だと気づかないことです。

 仏教のさとりには、その煩悩をなくしてしまうことが必要とあります。

しかし実際には煩悩を断つことはとても難しいことです。親鸞聖人は比叡山で

20年の修業でも煩悩を完全に断つことができませんでした。普通の人なら

見逃していたことでも、ご自身を深く見つめられた聖人は、たとえわずかでも

残る煩悩を問題とされたのです。

 そして比叡山をおりて出遭われたのが、煩悩をかかえたまますくわれて

仏になることが出来る本願念仏の仏道でした。。煩悩をなくすのではなく

煩悩がそのまま転じてさとりとなるのです。煩悩の氷が、そのまま解けて

さとりの水となるように。

 氷が大きいほど、さとりが大きいとは、大きな煩悩をもつほうがいいと

いう意味ではありません。煩悩をかかえた私であるという自覚があり、その

苦悩が大きければ大きいほど、それがそのままさとりに転ずる喜びは

大きなものとなります。煩悩具足との自覚があるからこそ、そのままの

私が本願によってすくわれることの喜びは大きいのです。しかし、その

煩悩具足の自覚は、私が本願に出遭ったからこそ生まれるものです。

阿弥陀如来の本願を鏡として自分の姿を見つめてみれば、煩悩具足の

私という自覚はますます深くなります。本願は、そういう私をすくうために

起こされたと信知すれば、煩悩がさとりへと転じることの喜びはいよいよ

大きなものとなります。