20123

念仏のひとを 摂取して

   浄土に 帰せしむるなり    (浄土和讃)

 

摂取と言えば、阿弥陀如来の本願の、摂取不捨のはたらきを思います。

本願は十方の衆生をすくいとって、決して誰も捨てることがありません。

それどころか、本願の心に反して遠ざかろうとするものまでも、追いかけて

すくおうとするのが摂取不捨のお心です。

 しかし、ここで「念仏のひとを摂取して」(「註釈版聖典」577頁)と

述べられているのは、「浄土和讃」の勢至讃です。大勢至菩薩のはたらきを

讃嘆されておられます。

 浄土真宗は、阿弥陀如来一仏に帰依をして、他の仏や菩薩に帰依を

することがないのが特徴です。浄土真宗の門徒の特徴として「門徒もの知らず」

と言われることがありますが、それは阿弥陀如来一仏を信じて、他の仏菩薩に

関心を示さない態度を、他宗派の人びとが揶揄して言った言葉です。

門徒は、ご利益を求めて観音菩薩に祈ったり、神仏に祈って加護を求めたり

することがなく、占いやまじないに頼ることもなく、そういうことに無関心で

あることを「もの知らず」と言われたわけです。しかし、不必要なことは

知らなくてもかまわないと考え、「もの知らず」と言われても動揺することなく

ひたすらに阿弥陀如来の本願を信じてきました。

 そのように、帰依をするのは阿弥陀如来一仏ですが、浄土教の経典には、

阿弥陀如来のはたらきを助ける存在として、観音菩薩と勢至菩薩が登場します。

三尊形式で仏像を安置されている浄土教寺院では、本尊の阿弥陀如来の両脇に

観音菩薩と勢至菩薩が安置してあります。観音菩薩は阿弥陀如来の慈悲の徳を

あらわし、勢至菩薩は智恵の徳をあらわします。菩薩がたは、阿弥陀如来の

徳をあらわしていますから、特に菩薩だけに帰依することはせず、本来の

阿弥陀如来に帰依してきたわけです。

 親鸞聖人の師である法然聖人は勢至菩薩の化身と言われていました。

化身というのは、単純な生まれ変わりということではなく、親鸞聖人は、

法然聖人に出遭い、その導きによって本願念仏の仏道にすすむことが

できたのは、まさに勢至菩薩の導きであったと喜ばれたのがこの「浄土和讃」

の言葉でした。

  「念仏の人を摂取して

    浄土に帰せしむるなり

    大勢至菩薩の

    大恩ふかく報ずべし」    「註釈版聖典277頁」