2012年5月の言葉
極重の悪人は ただ 仏を称すべし    (教行信証「行分類」正信偈)

 悪人とは誰でしょうか。
凶悪犯罪を犯した人物の顔や、世間に迷惑をかけても平気なひとなど、
そういう人たちの顔をすぐに思いうかべるかもしれません。しかし、親鸞聖人のおっしゃった
悪人というのは、そのような世間一般に使われる悪人とは異なります。悪人とは誰か
他の人のことを云うのではなく、この私自身のことなのです。
 私たちは、他人のいやな面や、悪いところにはすぐ目がいくのに、肝心の自分自身の
ことは、なかなかきちんと見つめることができません。。親鸞聖人は自分自身の人間性
を深く見つめられ、煩悩具足の凡夫であるとの自覚にたたれました。
 さまざまな善なる行為をする善人。親鸞聖人は、善を行っていても、この煩悩の心で
行う限りそれは純粋な善ではなく、煩悩を抱えた自分は本当の善を行えない悪人である
と考えられたのです。悪人とは、誰かの善悪を言うのではなく、あくまでも自覚の問題で
あると言えます。
 そのような自分はとても仏道を完成させて仏になることはできないとの絶望のなかで、
親鸞聖人が出遇われたののが、善人も悪人も等しくすくう阿弥陀如来の本願だったのです。
十方の衆生、すべての生きとし生けるものをすくうという本願に出遭って、初めて自分の
歩むべき仏道を見出されたわけです。私こそがすくわれない悪人ではないのか、
そのような深い自覚をもつい身には、すべてをすくうという本願の仏道こそが私に開かれた
ただ一つの仏道なのです。
 かって、キリスト教の神父への道をやめ、浄土真宗の教えに帰依をされて僧侶になられた
スイス人がいました。スイスに信楽寺というお寺を建てて浄土真宗の教えをひろめられた
ジャン・エラクル氏は、正信偈を読む時、「極重悪人唯称仏」という今月のカレンダーの
言葉を読む度に涙を流されたそうです。極重悪人である私がすくわれる道、阿弥陀如来の
本願が私に届いていると思うたびに、感激の涙が自然にでてきたそうです。
「南無阿弥陀仏」というお念仏が思わず口に出るのは、本願のありがたさが心にしみるから
こそです。
 私こそが極重悪人だとの自覚をもったからこそ、その極重悪人をすくうために起こされた
本願は、この私を救うためであったとの感激に心が震え、思わずお念仏が出るのです。