2012年6月の言葉

ただ 如来に まかせまいらせ
              おわしますべく候う      (親鸞聖人御消息)

 「あひる同行」という言葉を聞いたことがあります。池からあがったアヒルが
体をブルッとふるわせて体についた水を飛ばしてしまうように、お寺でありがたい
ご法話を聞いた後、お寺の門から出て体をブルッと振るわせると、すっかり
話の内容を忘れてしまうような人のことを言うようです。

 人間というのは、どんなにありがたい話を聞いても、残念ながら忘れる

ことがあります。しかし、忘れてもいいのです。忘れるから、私たちは聴聞を
繰り返すのではないでしょうか。

 また、忘れていても、何かの機会に思い出すこともあります。人生の苦悩
のなかで、阿弥陀如来の本願の心に出遭ったとき、煩悩具足のわたしという
姿に気づかされた時、ご法話で聞かせていただいたあの話は、こういうことだったのか
と、あらためて思い出した言葉が心にしみてきます。そうやって思い出した言葉は
一生の大事な言葉となるかもsれません。

 反対に、聞いたご法話の内容をすべて覚えているならば、「この話は前にも聞いたな」

とか「前の講師の譬えの方がうまかったな」とか、せっかくのご法話を聞いても、
ああだこうだと頭のなかえ理屈をこねてしまい、謙虚にお話を聞けないことになります。
そうなると、ありがたさも半分、心からのお念仏はなかなか出てこないかもしれません。

 親鸞聖人の師である法然聖人は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」
(「註釈版聖典」771頁)と云われました。知識をひけらかし、理屈ばかりを語る人の
姿を見て、「往生は大丈夫だろうか」と心配され、一方で、理屈をこねることなく、素直に
心から如来に手をあわせて念仏する人の姿を見ては「往生は間違いない」と微笑
まれていたことが、親鸞聖人のお手紙に記してあります。

 親鸞聖人のもとに、質問の手紙がきました。教えの理屈を事細かに聞いてきた手紙
のお返事に、理屈ではなく素直に心から阿弥陀如来の本願を信じることこそが大事です
とのお言葉を記されています。不可思議の本願は、そもそも私たちの思議を超えている
のですから、それを私たちの理屈でなにもかも理解しようというのは、はからいであり、
必要の無いことです。親鸞聖人は、お手紙の最後に、ただ阿弥陀如来にあまかせなさる
べきですと、今月の言葉を記しておられます。