2012年7月
生死のうみに うかみつつ 有情をよぼうて のせたもう
                           (正像末和讃)

 晴れた日に海岸に出て、どこまでも続く大海原を眺めていれば、海の大きさや青さ
美しさを感じることでしょう。また、さまざまな恵みを与えてくれる豊かさを思うこともあれば
その彼方の見知らぬ異国を夢見ることがあるかもしれません。
 
 しかし一方で、嵐の海は恐ろしい牙をむいて船を飲み込むこともありますし、海岸に
打ち付ける激しい波は、海の別の顔をみせます。そして地震による津波は私たちの
想像以上に海の恐ろしさを知らしめました。
 
 「生死のうみ」とは何でしょうか。
今までの長い長い間、阿弥陀如来の本願に出遭う縁がなかった私たちは、本願に
救われて浄土へ往生し、さとりの世界にはいることができなかったために、流転の世界に
とどまったまま、何度も生死を繰り返すだけのむなしい人生を送っていました。この流転の
迷いの世界を、ここでは海に喩えられています。
 
 さとりの世界、彼岸を見ることも無く、苦悩の海に沈んで、不安なまま、さまざまな苦を
かかえたままの私たちこそが、生死の海に沈む有情(生きとし生けるもの)なのです。
大海原の真ん中で、島影も、船影も見えず、何も頼るもののないまま、もがいている姿が
私たちの本当の姿なのです。
 
 自分の力ではさとりの世界(彼岸)に到達することのできない私たちだからこそ、
大きな船でみんなをすくい、さとりの世界に導きたいと、大きな声で呼びかけ、手を
さしのべてくださるのが阿弥陀如来です。その船は本願の大きな船なのです。
 
 その船に乗るための条件はありません。難しい修行を完成することを求められることも
なければ、仏教の教理をこと細かに覚えている必要もありません。倫理や道徳をきちんと
守り、戒律を守ることのできる善人であることも求められません。
 
 むしろ、そういうことのできない煩悩具足の身を自覚するものこそすくいたいから、
大きな船を用意してくださるわけです。それこそが大きな乗り物(大乗)で、みんないいしょに
さとりの世界に渡りたいと願う大乗仏教の理想の形であると言えます。
 
 ただ、大きな船を出すだけでなく、みんなを乗せて浄土へと導きたいと、声を限りに
生死の海に沈む私たちを喚び続けてくださる。如来の喚び声は常に私たちに届いています。
それを聞くのは私たちです。