弥陀の誓願は 無明長夜の
    おおきなる ともしびなり        (尊号真像銘文)

 「灯台もと暗し」ということわざがあります。現代の感覚では、「灯台」とは、
海を行く船に位置を知らせるために光線を放つ、岸壁の丸い塔のようなものを
想像しますが、このことわざでの「灯台」とは、部屋を明るくするための室内照明器具で
油皿に足をつけて高くした灯明台です。部屋全体は明るくても、灯台の足元は
油皿の陰になって暗くなります。
 
 ことわざでは、「手近の事情はかえってわかり難いもの」ということのたとえとなっていますが、
蓮如上人も、このことわざを引かれ、「とほきはちかき道理、ちかきはとほき道理あり」
「註釈版聖典」といわれます。遠方より聴聞に来られた方は、尊いご縁だと喜び、真剣に
ご法話を聞かれますが、近くにいて聴聞を繰り返していると、いつものことと思って、法義が
おろそかになることがあると注意されています。気をつけたいものです。
 
 「無明長夜のおほきなるともしび」「註釈版聖典」とは何でしょうか。「無明」とは、心理に
暗いことです。根本的な煩悩であり、迷いの根源とも言えます。「長夜」とは心理を知らない
ために、衆生が生死流転を繰り返して迷いの闇にいることを示しています。長くて暗い闇の
なかを、私たちは今まで不安をかかえたまま歩んできたのです。
 
 煩悩の闇につつまれて、歩みべき方向もわからず迷いの人生を送る私たちに、阿弥陀如来の
本願は大きな灯火となって照らしてくださいます。それは海の灯台のように、暗闇のなかを
遠くに光る灯火によって導かれるのではありません。私たちの足下が暗いまま、歩むべき
道もよくわからず、不安を抱えたまま、ただひたすら遠くの光に向かって歩むのではなく
すべてを照らしてくれる灯火ですから、私たちがどこを歩んでいるのか、どこに向かって
歩むべきなのか、そのすべてを照らしてくれるのが阿弥陀如来の大きな灯火なのです。
 
 阿弥陀如来の本願の灯火は、私たちの本当の姿を示してくれます。煩悩具足の私の本性が
知らされて、迷いの人生を送っている姿が、本願の光によって示されます。しかし、迷っている
自分を知って嘆くことはありません。迷っている私たちだからこそ、阿弥陀如来の本願は、
自分からすくいの手をさしのべてくださるわけです。本願は、私の本当の姿を知らせてくれるから
こそ、ありがたく頼りになるのです。