2012年12月の言葉

 いよいよ 大悲大願
    往生は 決定と存じえ               歎異抄

 浄土往生が定まれば、躍りあげるほどうれしく、すぐにでも浄土へ往生したいと
思うはずなのに、私たちは、この住み慣れた娑婆世界に今すぐさよならをしたいとは、
なかなか思えません。親鸞聖人のお弟子であった唯円坊は、思い切って親鸞聖人に
そのことをお尋ねされたことがあります。
 
 どこかの宗教なら、「そらは信心が足りないからだ」と師にしかられたかもしれませんが
親鸞聖人は正直に「実は私も同じ気持ちだった」とおっしゃったのです。そして、
その後の説明が親鸞聖人ならではの深い教えになります。
 
 喜ぶべきことを喜ばせないのは、煩悩のはたらきのためであって、そのように
煩悩をかかえた私たちだからこそ、阿弥陀如来は自分からすくわずにはおれないと
本願をたてられたわけです。
 
 本願のめあては、まさにそのような私たちなのですから、浄土往生を素直に
心から喜べない煩悩具足の私たちのための本願であるとたのもしく思え、煩悩がある
からこそ往生は間違いないと思うべきですよと、聖人はおっしゃいました。
 
 生まれたことのない浄土を恋しくは思えません。経典や教えにじは説かれますが、
誰も見たことがないのがお浄土です。
 
 テレビやインターネットなどで。いろいろなものが映像で見られる時代になりました。
死後の世界を見てみたいと思う人は多いようで、見てきたかのように怪しげな説明を
する人の話を、興味深く聞く人がいます。しかし、どうも説得力がありません。
私たちは、この目で確認しないと信じることができないのでしょうか。
 
 見えないものを信じるのが宗教です。信じるというのは、人間の最も崇高な行為では
ないでしょうか。動物は見えないものを信じることができません。
見えない明日を信じることができる。この世の人生を終えた後に浄土で仏になれることを
信じることができるのが人間です。信じることは確かに難しいですが、その、信じることの
大切さを教えてくれるのが阿弥陀如来の本願です。
その信心を大切にされたのが、親鸞聖人なのです。