2013年2月の言葉

人間とは その知恵ゆえに
   まことに 深い闇を生きている                       (高 史明)

1975年(昭和50年)7月17日、高史明氏、岡百合子氏ご夫妻の一人子である真史さんが
自死されました。お葬式は無宗教でされていたそうです。その後、真史さんが書き残された
詩を友人、先生などに配布したところ、反響が大きく、出版社の強い勧めもあり、
「ぼくは12歳」と題した詩集を出版されました。さらにひろく共感をよび、全国の悩みを
抱えた若者たちから数千通の手紙が届きました。真史さんの自死以前のご夫妻は政治運動
市民運動にエネルギーを傾けておられ、特に岡氏は宗教は社会の改革をごまかすもの、
と考えていました。ところが悲しみ、絶望のどん底でお二人は親鸞聖人に出遇われました。
後年、当時を振り返り、両氏は「親鸞聖人に出遭えていなかったらと考えるとぞっとします」と
述懐されています。

 私はこれまでに住職として子どもさんが病気や事故などでお亡くなりになられたお葬式に
何度もお参りしたことがあります。折々にお参りをしますと、親御さんが、「わが子の同級生が
登下校している姿や、スポーツで遊んでいる光景を目にするたびに、何でうちの子だけが・・」
と涙の中で語ってくれたことがあります。高氏ご夫妻も同じ気持ちだったことと思います。
 
 近代思想の基本は人間中心、人間至上主義です。しかし、高氏はその人間そのものの
危うさと限界を見つめ指摘をされています。どれほどの知識、教養、経験、肩書き等が
備わっていても、根本の解決にはなりません。本当の迷いは、迷っている存在でありながら
そのこと自身に気が付かないことなのです。迷っているのが自覚されたなら、どの方向に
進めばよいのかを尋ねていくのですから。ご夫妻は親鸞聖人にお尋ねしたのです。
その闇を破るものこそ阿弥陀如来の智恵のはたらきです。
 
 この智恵の光に照らされたご夫妻は次のように語り合っています。
  
 高氏「死んだ子を悲しむあまり、生を見失いかけたきみといまのきみは違うだろう。
 死んだ子にしてやれなかったことだからこそ、いま生きている子らにというのは
 死んだ子の願いが、きみの中に生きているということだよ。それによってきみ自身も
 助けられいる」
 岡氏「たしかに喜びを知ることができたのね。(略)そころは、もう私には二度と
 心から嬉しいなどということはない、と思っていたの。でもそれがこのごろふっと
 気がつくと、いままで感じたことのない喜びのようなものが、悲しみの中にも実感できる
 ということがあるの。それがそうなのかしらね。子どもたちが可愛い」