2013年3月の言葉

参れると思うて 参れぬお浄土へ 本眼力にて往生す   (稲垣瑞劔)

書店に行きますと仏教書が数多く並んでいます。不透明、不安定な世相を反映して
何かに頼りたいという心理があるようです。

 「仏教」のことばには二つの意味があります。
 第一は「仏の教え」です。仏(陀)とは真理をさとった者、めざめた者という意味が
あります。しかし、現代ではテレビなどの影響で「仏」イコール「死んだ人」と誤解
されています。特に若い世代の人が仏教離れの要因のひとつになっているのは残念です。
また、お葬式の時「安らかにお眠りください」という弔電を耳にします。仏教で「眠る」とは
「めざめ」も反対ですから迷いの世界に行ってくださいという失礼な意味になります。
どれだけ仏教書を読み、知識が豊富になってもこれでは仏教徒(門徒)だとは云えません。
私の県内の民間放送局では、受験シーズンになると受験生やその家族に代わって社員が
県外の有名な学問の神サマの神社に行って、合格祈願を代行してもらいお札を持ち帰る
のが大変な人気です。また、長患いをして家族に迷惑を掛けずに死にたい人には
「ポックリ寺」が用意されています。その他、交通安全、縁結び、安産、豊作豊魚等々、
数多くの神や仏を人間がつくり出しています。日ごろは文化人、知識人、熱心な仏教徒
(門徒)と自他ともに認めている人が、誠に都合の良い、根拠のない、インスタントな宗教観で
右往左往しています。大きな迷いの森の中に身を置きながら、その迷い自体に気がつかず、
めざめのない人生を送っているのです。このような私に、すでに阿弥陀如来のお慈悲が至り
届いていることにめざめていくのが本来の仏教徒なのですが・・・・・。
 
 第二の意味は「仏になる教え」です。これは「仏教を学ぶ」のではなく、「仏教に学ぶ」こと
なのです。学ぶ対象は私の側にあります。親鸞聖人が青年時代、比叡山で20年間のご苦労
されたのは、欲(煩悩)を断ち切って清浄な体と心になって仏になるという道を歩まれていたの
です。しかし、聖人ご自身は、外面は立派な行を積んでも、内面では妄念が湧き出てくる
大きな矛盾の壁にぶつかっていました。悩みに悩み、求めに求め抜かれた末に、生涯の師で
ある法然聖人によってお念仏のみ教えに出遭うことができました。それは、阿弥陀如来の
本願を信じてお念仏を称えたら仏になる、という道でした。この道を疑う人、あるいは自分の
努力(自力)に執われる人にとっては、仏の世界(お浄土)は、はるかに遠い世界と
なります。誰でも往き易い道なのに往く人は無くなります。

 逆にこの二つから開放されて、阿弥陀如来のはたらき(本眼力)の100パーセントおまかせの
できた人は、十人が十人、百人が百人必ず仏と成りお浄土に往くことができるのです。