念仏もうすところに
たちあがっていく力が あたえられる (西元宗助)
半世紀も前のことです。京都市内の一住職が「歎異抄を聞く会」を主催されていました。
学生であった私は軽い気持ちでそのお寺に出かけました。広い本堂ではなかったけれど、
大学生を中心に満堂の聴衆で縁側まであふれていました。その時のご講師が
京都府立大学教授の西元宗助氏でありました。講話の内容はほとんど忘れてしまいましたが
お話をされる氏のお姿は今でも鮮明に脳裏に焼きついています。そのお顔は満面笑みで輝き
親鸞聖人のお徳を讃え、お念仏の有り難さを身体全体で語っておられました。
卒業後、折々に出版される氏の書物を手にしてさらに驚きと尊敬の念がますます大きくなりました。
その一つは、1945年(昭和20年、日本が第二次世界大戦の敗戦時、中国に居た氏は
ソ連(当時)の俘虜(捕虜)として四年間シベリアに抑留されていたのですが、その体験記を
読んだときのことです。氏は次のように記されています。「その日は3月21日、春のお彼岸の
中日と気づいたとき、俘虜の身のわびしい境涯のなかにも仄かなる生の喜びを感じた。
そして彼岸浄土の暖かいいつくしみの光が、いま現にこの身にもいたりとどいていることが
思われて、思わずつぶやくようにナンマンダブツと申したことであった」(西元宗助
「ソビエトの真実ーー俘虜記1945−49」)
零下20度〜30度の酷寒の地、経験したことのない厳しい労役、いのちをつなぐだけの
わずかな食事、明日をも知れぬ環境にあってお念仏が出るとは!私なら間違いなく
不平・不満・愚痴だけでなく、絶望のドン底で泣きくずれたことと思います。
その第二は、氏専門の教育学の立場から部落解放教育・運動に取り組まれていることです。
「おまえは町人の子やないか、おれはこれでも士族じゃっど」久しぶりで帰った郷里で
思いがけない言葉を聞いてから半世紀以上が過ぎた。「士族、平民」などという言葉は
耳にしなくなって久しいが、「部落」に対する差別は今も生き続けている。
(西元宗助「被差別部落と教育と宗教」)
と語っておられます。親鸞聖人の勧められたお念仏のみ教えは、いのちある存在はすべて平等
であり、お互いに手を取り合い、敬いあっていく世界でした。しかし、現実には阿弥陀如来の
お慈悲をよろこび、お念仏を称えながら、申し訳ないことに私たちの教団が「私も構成員の一人
です)差別の生産に強く関わってきた歴史があります。氏のお念仏は書斎における学問の
お念仏ではなく、世渡りのお念仏でもありません。また自分一人の閉ざされた世界でよろこぶ
お念仏でもありません。どんな逆境にあっても、いのち全体を支えてくれるお念仏であり、
また、差別・被差別からの解放に取り組む力強いお念仏でした。