2013年6月の言葉
仏智に照らされて
初めて 愚鈍の身と知らされる (信国 淳)
信国 淳氏は真宗大谷派の大谷専修学院の院長として長年にわたり僧侶の育成に尽くされました
氏は院生と共に寝食を共にしようと心がけられ、また食事の準備は院長の信国氏と教職員とで
交代にされたそうです。 (西元宗助氏「人間が人間になるために」から教示を受けました。
人間は他人の欠点、落度、弱点、失敗などを見るときの視力は非常に細かいところまでよく
見えます。しかし、自分のこととなると本当の姿は認識ができません。自分が自分のことを100%
明らかに知ることは、きわめてむつかしいことです。
限度を超えてお酒を飲む人、たばこを吸う人がいます。家族が心配して注意をすると
「自分のことは自分が一番よく知っている」と云って、なかなか耳を傾けようとしない人を時々
見かけます。そして体調がおもわしくなくなった時、妻や子どものいう事を何故素直に聞いて
おかなかったのかと悔やみの言葉を何人からも聞いてきました。これは身体の病気のことだけ
ではありません。人間の心の奥底の本当の在り様を自分の眼で見ることはできません。
もちろん、写真やビデオにも撮ることはできません。
親鸞聖人がお敬いした七高僧のお一人である善導大師(613〜681)は「お経とは、喩えれば
鏡のようなものである。」と言われています。このお経の鏡は単に表面の姿を映すのではなく、
人間の心の奥底を照らし出すのです。
阿弥陀如来の智慧の光明に照らし出された自分自身の中には、何一つ仏になる善い因の
ない身であると知らされます。どれ程、表面を取り繕うとも隠すことのできない、目をそむけたい
ような事実です。それはさとったような顔をしても、浴がなくなったわけではありません。
笑顔を作ってみても胸の中では怒ったり、腹を立てたり、他人の幸せを心の底から
喜べず、嫉みの心が湧き出てくる自分です。そのようなどす黒い欲(煩悩)をかかえた心は
生涯終わるまでなくなることのない自分(凡夫)が明らかになります。正に地獄へ一直線に
走っている姿です。悪人と呼んでも間違いありません。
今月の言葉は、1985年(昭和60年)の法語カレンダーの「我身のわるいのはfどこから知れた
おじひの光明に照らされて」(小川忠造さん)に通じることばです。阿弥陀如来はこのような者を
一番心配されて、どんなことがあってもすくい摂らせねばおかないとの大きな願いをもって、
常に照らし続けていただいているのです。信国氏の「愚鈍の身」の自覚は阿弥陀如来の
間違いないおすくいにあずかったよろこびとセットになっている表明です。