2013年8月の言葉

確かな一足一足が

   念仏によって 与えられている            (宮戸道雄)

 年配の方から時々「昔は本堂いっぱいのお参りがあったが、最近は本当に少なりました」

という声を聞くことがあります。私も一カ寺を預かる住職として実感いたします。法要が

営まれる時、ご門徒や有縁の人にご案内を差し上げ、声かけもしますが、お寺まで足を

運んでくれる人は多くはありません。なぜお参りをされないのか、お尋ねしますと、まだ若い

仕事が忙しい、雰囲気が堅苦しい、足や越しがいたい、話が難しい等々。各人それぞれ

理由があります。私が反省しなければならない内容もあります。

 ところがスポーツの試合や観戦、ゲートボール、グランドゴルフの大会、好きな歌手のショー、

カラオケ大会などのときになると、不思議なことに時間的余裕が生まれ、体調がよくなり、

必要経費もどこからか捻出されるようです。

 2500年前、お釈迦さまは次のように説かれています。「世間の人はまことに浅はかであって

みな急がなくてもよいことを争いあっている」と。

 本当に急がなければならないことは後回しにして、どうでもよいことに時間やお金や体や

心を費やすような生き方です。

 他人事ではありません。わたし自身が世間の目を気にしながら、右へ行った方がいいのか

左の方がいいのかフラフラして人生の確かな土台をもっていません。

 本願寺第8代宗主蓮如上人は、人間のいのちは明日はどうなるかわからないので、できるだけ

早く法話に出遭ってほしい、と願われました。また、歳を重ねてくると、体力が衰えてお寺詣りが

出来なくなり、脳の働きも緊張状態が長続きできなくなるので、若いときに仏縁を結んでほしいと

呼びかけられています。

 それはお金や肩書きや知識が人生の究極の目的である、という基準を大きく転換するという

ことです。大金を手にして見下していく人。豊富な知識で相手を論破して優越感に浸る人。

刻苦勉励して、これさえあればと手にしたものが、往々にして自他ともにいのちの尊厳を損なう

ことになっています。

 人生の手段を目的と勘違いしているのです。迷いから迷いを重ね、いや迷いそのものにも

気づかずに日を送っているのです。阿弥陀如来はこのような私を思いやり、大悲悲心をもって真実にまざましめ、仏にせずには

おかないとはたらきかけていただいているのです。

 親鸞聖人は「ただお念仏だけが真実である」と仰せになりました。今は「南無阿弥陀仏」と

お念仏を称えつつ、生まれ難い人間に生まれた本当の目的を、聞き難い真実のみ教えに

聞きながら一日一日を精一杯過ごさせていただきましょう。