2013年12月の言葉
 念仏者とは
   一切衆生を 「御同期」して
                    見出していく存在
(宮城 )

 親鸞聖人は1207(承元元)年、35歳の時、承元の法難で雪深い越後に流罪の身となりました。

7年後、罪が許されてからは生活の拠点を関東に移されました。越後も関東も聖人にとっては

比叡山の20年間、法然上人のもとでの6年間とは全く違う世界でした。

 海や河に身を置き、野山に分け入り、命がけで力強く懸命に生きている人々。このような

生存のための厳しい姿を目のあたりにしたことが聖人の思想を深めていったことと思われます。

そして、越後の地で聖人はご自身の立場を「僧にあらず俗にあらず」と宣言されました。

 当時の僧侶は国家の許可があって僧侶として認められていました。しかし今、聖人は流罪に

なったのですから「僧に非ず」です。では俗人になったのかといえば、聖人はこれからは

仏法一つで念仏者として生きていく決意でしたから、「俗に非ず」の立場をとられたのです。

さらに朝廷から僧籍を奪われ、藤井善信という俗名を与えられましたが使用せず、自らは

「愚禿親鸞」と名のられました。
 
 これは従来の仏教と決別し肉食妻帯の在家仏教の生活を

送るという表明で、内面的な浄土真宗の始まりです。

関東時代には次のようなエピソードが伝えられています。親鸞聖人によってお念仏の輪が

拡がっていくと、快く思わない人たちがいました。

これまで除災招福を祈祷などで占ったりして宗教活動をしていた人たちです。。修験道の弁円と

いういう山伏もその一人でした。弁円は聖人をなきものにしようと勢い込んで聖人の庵に

向かいます。その時聖人は構えるでなく、おびえるわけでなく、温容をもって出迎えます。

そのお姿に接した弁円はたちまちに敵害心がなくなり、聖人からお念仏の聞く身になりました」。

お念仏のみ教えを平易な言葉で語る親鸞聖人の周辺には次第に人々が集まってきました。

(このような集団を僧伽(サンガ)」といいます。それは師匠ぶった上からの目線ではなく

どのような生活環境、立場の人であろうとも、同じ朋として平等の立場から接せられたのです。

阿弥陀如来から必ず仏にすると願われているいのちを御同朋と呼びかけ、分け隔てなく

聖人は語りかけられました。

多くの著書を執筆された聖人ですが、「門徒」という語句が2箇所だけあります。

それは普通使用している「僧侶と門徒」という時の「門徒」の意味ではありません。

「門徒」は元々は「一門の徒輩」ということです。ご自身を七高僧や多くの師匠、

先輩からお導きを頂いた「門徒」であるという位置にたたれたのです。そして

「私には弟子と呼ぶような人は一人も居ません。みんな御同朋です」

という念仏者の名告りをなされた方が親鸞聖人です。