人は法を求めるに止まって、   法に生きることを、   忘れている           (高光大船)

今月の言葉は、高光大船氏の言葉です。氏は、1879年(明治12年)に金沢市の真宗大谷派

専称寺に生まれて、真宗大学(現、大谷大学)に進学し、曾我量深氏に師事しました。

その後、自坊に帰り住職として活動し、1951年(昭和26年)に72歳で往生されました。

その間、藤原鉄乗氏と暁鳥敏氏とともに「金沢の三羽烏」と呼ばれました。

そんな中で「愚禿社」を設立し雑誌「氾濫」などを刊行し、また自坊で仏法講習会を定期的に

開いて伝道教化に専念されました。

氏の語録集「道ここに在り」によれば、氏は「「生活のほかに信仰はない」とよく言われていたようで、
仏法に自己のいのちの姿やあり様を聞き求め、仏法に生きた方のようです。

「法に求める」ではなく、「法を求める」者はそこに止まってしまいがちです。

私たちは、仏法を
知的に論理的に理解しようとしがちですが、それは自己中心的なものの見方の中で仏法を

とらえようとしているだけです。そのような求め方では、かえって仏法からは離れていくばかりです。

そのことを「法を求めるに止まって」と嘆かれ、「法に生きることを忘れている」と悲しまれているのでしょう。

氏には次のような逸話があるそうです。
ある時、両親が仏法を聞くよ勧めても聞こうとしない若者に
「仏法とは何ですか」と問われた時、
氏は仏法とは鉄砲の反対だ」と答えたそうです。
その意味は、「鉄砲は生きている者を殺すものだが、
仏法は死んでいる者を生かすものだ」というのです。
そこで「棺桶の中に入った者を生かすのが仏法か」と問うた若者に、あれは遺体であり、死んでいるものとはいわない」といい、
さらに「お前のような者を死んでいる者というのだ」と
云われたそうです。それで若者が「俺は生きている」と手足を動かすと、
「それは動いているだけで
生きているのではない」といわれたそうです。この一言が縁となって、
その若者は仏法を聴聞するようになったというのです。


私たちはいのちを恵まれた自分を「人間だ」と思っています。では、何をもって「人間」なのでしょう。

食事でエネルギーを補充し、手足を動かすことが人間でしょうか。あるいは贅沢で楽な生活をしたいと
自己中心の欲望を満たそうと努力するのが人間でしょうか。

私たちは、それぞれの因縁の中で人生を歩んでいますが、自己中心的な狭く浅い価値観の中で

生き、他者を傷つけ自分をも傷つけていることすら気づかず生きています。

阿弥陀如来の智慧の光明に出遭って照らされ、その自己中心的な愚かな姿に気づくことが

できるのが人間なのでしょう。


そして、その「気づけよ、必ず救う」という倦むことないはたらきこそが阿弥陀如来の大慈悲であり、
その智慧と慈悲に感謝できてこそ人間なのではないでしょうか。それこそが私の毎日の生活に

おいて大切なことであり、阿弥陀如来の智慧と慈悲に生かされている自分に気づく時、

「法に生きること」のできる、「しあわせ」な生活といえるのでしょう。