2014年9月の言葉

お念仏は讃嘆であり

                        懺悔である                                                        (金子大榮)

主筆今月は金子大榮氏の言葉です。氏は1881年(明治14年)に新潟県の大谷派最賢寺に

生まれました。真宗大学(現・大谷大学)に入学後、清沢満之初代学長の影響を受けました。

卒業後は、帰郷し、て法務に従事しながら研鑽を積み、同郷の曾我量深氏などと

親交を深めたといいます。1915年(大正4)に請われて上京し、雑誌「精神界」の主筆を

務めながら東洋大学教授となりました。翌年には大谷大学教授に就任しますが、

著書の「浄土の観念」の内容が異安心とされ職を辞します。


その後も自説を展開しながら、広島文理大学(現・広島大学)で講義をしました。

さらに、京都の興法学園で曽我氏とともに教壇に立って講義し続け、1942(昭和17)年には

大谷大学教授に復職します。その後、大谷派最高の学階である「講師」

(浄土真宗本願寺派でいう「勤学」)となり、大谷派宗務顧問にもなっています。

そして、1976(昭和51)年に96歳で往生されました。


このように氏の生涯は劇的なものでした。その内実は、浄土の教えと自己の信仰を深い

学識と自己反省とによって受け止めて、近代思想界や信仰界に開放した人生でした。

その意味で、曾我氏とともに大谷派の近代教学の基礎を築いたともいわれます。

さて、お念仏は仏徳の「讃嘆」であることはよく聞かれると思いますが、

「懺悔」とはどういうことでしょうか。「懺悔」は今日では(ざんげ)と読み

「罪を悔い改めて許しを乞うことを意味します。漢訳仏典の中でも同じ意味の文脈で使われます。

私たちが罪を悔い改めて許しを乞うためには、罪を罪と自覚しなければなりません。


凡夫である私たちは自分の罪を認めようとはせず、むしろ他者のせいにします。

これが自己中心にしかものを見ることのできない我執の姿です。そんな私たちは、

自らの力で自己の罪を自覚することは到底できないのです。

親鸞聖人は自らを「罪悪深重」とか「地獄一定」と言われていますが、

それは阿弥陀如来の本願に出遭い、その智慧に照らされ、はじめて知らされた

自らのあり様と姿でした。私を照らしその罪を知らしめる阿弥陀如来の智慧は、

そのまま大慈悲と一体のものなのです。

大慈悲とはその罪悪深重の身をそのまま認めて、摂め取って捨てないはたらき(摂取不捨)に

他なりません。


実は、仏教の「懺悔」の原語である「クシャマ」は広い心で許すこと」「思いやりの深いこと」を

意味します。つまり、「懺悔」とは「罪を罪と知らしめる智慧」と「その罪を自覚した身を

そのまま認め許す慈悲」が一体となった、私に対する阿弥陀如来のはたらきです。

自己中心の私は自分のことだけしか見えず、不都合な他者は切り捨てます。だから、

人を悲しまず、社会や時代を悲しみません。それは、人や社会などを認めて許していないからです。
人や社会を許さず、自己を守るために他者や社会を否定し、攻撃的になりがちです。それでは、

今生きている命を大切にしているとはいえないのです。お念仏は、

阿弥陀如来があらゆるいのちそのものを認めて許し、讃嘆するはたらきなのです。