ただ念仏せよ  念仏せよ

     大悲回向の  南無阿弥陀仏          梅原真隆

 

今月は梅原真隆氏のことばです。氏は、1885年(明治18年)に富山県の

本願寺派専超寺に生まれました。東京の高輪仏教中学で高楠順次郎氏などの

師に出会い、さらに清沢満之氏の講演を聞いて「歎異抄」にひかれ、以後常に

持ち歩いたといわれます。

 その後、仏教大学(現・龍谷大学)に入学しますが、重い肺結核にかかり

休学し、帰郷します。その時「歎異抄」が心の支えとなったそうです。

回復後に大学に復学して卒業後には考究院へ進み、前田慧雲氏や薗田宗恵氏

などに師事して研鑽を積み、」仏教大学教授となります。

そのような学究生活の一方で、自宅では「歎異抄」や「末燈鈔」の信仰座談会を開き

布教伝道に努めたそうです。

 1920年(昭和4年)に大学では学内改革の問題が起り、その混乱を招いた責任を

とり大学を去ります。その直後にm同志と一緒に、真宗学を中心とした「顕真学苑」を

京都市に創設します。その活動は各地の信奉者び支えられ、講座を開講したり、

若者の研究発表や法話指導を行い、教化活動を展開しました。

 そのような中、1937年(昭和12年)に勤学となり、1939年(昭和14年)から2年間

は本願寺の執行(寺務を執り行うための僧職)に任じられ、宗政を担当しています。

 その後、1946年(昭和21年)に専長時の住職となる一方、1947年(昭和22年)には

衆議院議員に当選し、築地本願寺を宿舎として国会に通ったそうです。その任期中の

1950年(昭和25年)には浄土真宗本願寺派学寮長となり、5期の長きにわたって

その任を努めたり、富山大学第三代学長にも就任しています。

そして、1966年(昭和41年)に80歳で往生されました。

 

以上のように、真宗の研究や伝導だけではなく行政的な仕事、それも国政にまで、

八面六臂の活動をされた氏の生涯は、私たちからは想像もできません。氏は、往生に

際して、「みなさん長らくお世話になりました。心より深く感謝いたします。どうか

お念仏をよろこんで生きて下さい。私もお浄土でまっております」と言われたそうです。

 

 さて、「火宅無常」の世の中で、私たちは、損得の計算をして「どうせ・・・しても」

などと言葉を発し、自分のやる気のなさを正当化して今を適当に生きているのかも

しれません。あろうことか他者にも「どうせ・・・しても」といい、身勝手な自分の

価値観に他者を巻き込んだりしています。

そうではなく、人としての命を「せっかく」恵まれ生まれてきたのです。

それぞれのご縁の中で精一杯生きていかなければ、いのちを粗末にしていることに

なります。「お念仏を喜んで生きて」いくことは、智慧と慈悲を喜びながら、「せっかく」

恵まれた今日のいのちのご縁を大切にすることであり、他者や社会のためにつくす

ことだろうと思います。そては、生きることにも死すことにも執着しない姿かもしれません。 氏の辞世の句は「生きるよし、死するまたよし生死の峠にたちてただ念仏する」

だそうで、今月の言葉に通じます。