衆生に  かけられた大悲は  無倦である  廣瀬 杲

今月は廣瀬 杲(ひろせたかし)氏のことばです。氏は1924年
(大正13)に京都市に生まれ、大谷大学で親鸞聖人の思想を学
ばれた後に、大学の教壇に立って後進を育てられ、大谷大学の
学長を務められました。その一方、岐阜県の大谷派妙輪寺の住職
でもあり、大学以外のさまざまな場所でも多くの方々を導かれ
2011(平成23)年に87歳で往生されました。

私は大学院時代に、龍谷大学での講演会で氏の話を聞いた記憶が
ありますが、その内容を思い出せません。

今月の言葉の中、「衆生」とは私のことに他なりません。
「正信偈」の
 われまたかの摂取のなかにあれども(我亦在彼摂取中)、
 煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども(煩悩眼すい不見)
(ぼんのうしょうげんすいふけん)、
 大悲、倦きことなくしてつねに我を照らしたまふといえり
 (大悲無倦常照我「だいひむけんじょうしょうが」
の「我です。この「大悲」は我々凡夫の自己中心的な愛情のこと
ではありません。「大悲」とは自他平等の仏智にもとづくものであり
他者の苦悩を自らの苦悩とする仏心です。
一般に「慈悲」といわれ、「苦を抜き楽を与えること」を意味します。
つまり、「衆生をいつくしんで楽を与えること(与楽)を慈といい、
衆生を憐れみいたんで苦を抜くこと(抜苦)を悲という」と説明されました。

 さて、私たち凡夫の日常生活で、子どもに対する親の愛情は親の
自己中心的なもので、一方的な願いを押し付けて、それを正当化
していないでしょうか。そればかりか、親の思いや願いに反する子どもの
姿に怒りを覚えます。それは親自身に苦悩があるように、子どもにも
苦悩があることを受け止めていないからです。しかし、そのような
凡夫の営みの中でも、希なことですが、子どもの苦悩を自らの苦悩とする
場合があります。それは、母親と赤ちゃんの関係です。例えば、母親は
赤ちゃんにミルクをあげながら「お腹が空いていたんだね、気がつかなくて
ごめんね」と謝っています。母親は、掃除や洗濯、食事の用意と忙しく
しながら、自分のことは後回しにしてミルクを与えるだけではなく
「ごめんね」と謝っているのです。また、赤ちゃんの立場になって
そもいのちをそのまま認め許して、「育てずにはおかない」と願って
いるからこそ、「ごめんね」というのでしょう。

 このように、他者の苦悩を自らの苦悩とし、自と他のいのちを平等で
あるとみているのが阿弥陀如来の智慧なのです。その智慧と一体である
ものこそ大慈悲であり、他者の喜びがそのまま自らの喜びとなるのです。
それは、苦悩するいのちを捨て置けない願いからの無償のはたらきなの
であり、それが「倦むことなく」といわれているのです。

 私たちは重い通りにならないことに怒り、阿弥陀如来に背を向けて
いますが、「自らの身勝手な姿に気づけよ」という智慧とともに、
阿弥陀如来の大悲は今も倦むことなく私を照らし続けています。