称えるままが つねに御本願の

     みこころを 聞くことになる      (香樹院徳龍)

 この言葉の出典は、よく知られた香樹院徳龍師(17721858)の
「香樹院徳龍師語録」
の中からです。

 称えさせてくださるお方がなくて、この罪業のわが身が、どうして仏のみ名を称える
ことができようか。称えさせるお方があって、称えさせていただいているお念仏であると
聞けば、そもそもこの南無阿弥陀仏を如来さまは、何のためにご成就あそばされたのか、
何のために称えさせておられるのかと、如来さまのみ心を思えば、これがすなわち称え
るままが、つねに御本願のみこころを聞くことになるのではないか。
私がこの文章にお遇いしたのは、30年以上前のこと。私はそれをノートに書き写し、
保管していました。さらに、ノートには、続けて次のように師のエピソートそ記して
いました。

 Q、ご法話のない時はどうすればいいでしょうか。

A,お聖教を読める人は、常にお聖教を拝見しなされ、それが聞法じゃ。

  世間のことにかかわって、お聖教を拝見できない時は、口に南無阿弥陀仏と

  称えなされ、これまた法を聞くことじゃ。信をうるご縁は、聞思にかぎる。

Q、わが称える念仏が聞法だというのは、どういうことでしょうか。わが称えで、

  わが声を聞くことでございますか。

A,何を言うか、わが称える念仏というものがどこにある。称えさせてくださる

  お方がなくて、この罪悪のわが身が、どうして仏のみ名を称えることができようか。

称えさせていただいているお念仏であると聞けば、そもそも並阿弥陀仏を

如来さまは、何のためにご成就あそばされたのか、何のために称えさせて

おられるのかと、如来さまのみこころを思えば、これがすなわち称えるままが、

常にご本願のみこころを聞くことになるのではないか。

・・・・・そうであったか。「重誓偈」に「われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟(くきょう)して聞ゆるところなくは、誓ひ正覚を成らじ」と誓われたのは、
このこころであったか。いま私に名号を称えさせて、聞かしめておられるのは、
必ずたすける阿弥陀仏のいますことを信ぜしめるおこころであったのだ。
 そのあとに、「念仏相続するひとは、朝な朝な仏とともに起き、夕な夕な仏を
いただいて眠る力強き人である」と。さらに、大蔵経を収めた輪蔵(転輪蔵)を
創始した傳大士(ふだいし)(497569)の「繊豪も相離れず、身と影と相似たるが
如し、仏のゆくところを識らんとおもえば、ただ、この語声(お念仏の声)これなり」
という言葉が添えてありました。
 古いノートを読み返しながら、「声に姿は無けれども、声のまんまが仏なり、
仏は声のお六字と、姿を変えて我にくる」とおっしゃったある和上のおこころを
しのばせていただきました。