2015年2月の言葉

 拝むとは 拝まれて居た事に
          気付き醒めること    高光大船


 石見(島根県)の妙好人、有福の善太郎さん(1782〜1856)が
「おがんで たすけてもらうじゃない おがまれてくださる
如来さまに たすけられて まいること こちらから おもうて
たすけてもらうことじゃない むこうからおもわれて
おもいとられること この善太郎」の法話を思い出します。
 とかく仏さまをこちらから拝んでいると思いがちですが、
それよりも先に、仏さまの方がこちらを拝んでおられたのでした。
こちらから思うより先に、仏さまの方から思われていたことに気付いた
善太郎さんの味わいは、まさに他力(如来のはたらき)そのものであり、
よくお寺参りをした善太郎さんの法味をそのまま表現していたと
申せましょう。
 
浄土真宗の教えは、易しい教えに感じられますが、紙一重のところで
間違いを起こしやすいのも、こんなところにあります。

 いつの間にか、知らないうちに、「雑行雑修自力の心」が芽生えてきます。
これだけよくお参りして拝んでいるから、お念仏を称えているから、・・と、
自分の力をあてにして喜んでいる人も、なかにはあります。そのほうが
わかりやすいからでしょうか。
 
蓮如上人は「領解文」の最初に「もろもろの雑行雑修自力のこころを
ふりすてて・・・・・」「註釈版聖典」1227頁)と示され、
「みなさんお間違えのないように・・・」と警告されています。
分かりやすく申しますと、自分自身が、自分はこれで大丈夫、これで間違い
ないと、自分の方へ「で」をつけてしまいますが、実はこれが誤りでした。
こちらに「で」を付けるのでなしに、実は向こう(阿弥陀さまのご本願=
南無阿弥陀仏)でおすくいにあずかるのでした。南無阿弥陀仏(念仏)で
すくわれるのです。だからこちらに「で」を付けるのではなく、向こう
(南無阿弥陀仏)に「で」を付けるのです。

 ですから、善太郎さんは、この法語で、こちらから拝んでたすけて
もらうんじゃないと、こころのうちを明かしています。聞法を心掛けた
善太郎さんの聴聞の姿が思い浮かんできます。

 同じ石見の妙好人・浅原才市さんも「わたしゃ(私は)あなた(阿弥陀さま)
におがまれて どうぞたすかってくれとおがまれて ご恩うれしや
なもあみだぶつ」とうたっています。才市さんは、このような味わいを数多く
書いています。
 
その代表的な詩が「かぜをひいては せきがでる さいちがごほうぎの
かぜをひいた ねんぶつのせきが でる でる」でしょう。かぜをひくと
誰でもせきが出ます。せきはしようと思っていなくても、ひとりでに出ます。
と、同じように才市さんはご法義のかぜをひいたので、いくらお念仏を
称えまいと思ってもひとりでにお念仏が出てくるのでした。

 ご法義のかぜは、大いにひいていただきたいものですね。