死んで往ける道は
      そのまま 生きてゆく道です 
      (東 昇)

 春のお彼岸を迎えるころになると、気温も上昇し、太陽の光も明るく、
日蛾長くなっていることを実感します。寒かった冬から抜け出し、
待っていた春が身近にやってきたと感じる3月、一年の総決算である年度末。
学校では卒業式が行われ、机を並べた仲間と別れの時節でもあります。
人生は別れと出会いの連続だと云われています。
 生まれてこのかた、どれだけ多くの人と出会い、縁あった方がどれだけ
先立って往かれたことか。
 今月の言葉は、東 昇京大名誉教授(元、京都大学ウイルス研究所所長)
です。1982年(昭和57年)に70歳で往生されました。私も何度か先生の講演
を本願寺会館(当時)で聞かせていただきました。白髪の念仏者の印象が
強く残っています。そのほか、昭和4・50年代には、京大総長を努められた
平沢興先生、京大の井上智勇先生、京都府立大の西元宗助先生などなど、
いずれも親鸞聖人を讃仰され、それぞれ、心底お念仏を喜ばれた方々が
ご活躍でした。
 私たちは、生老病苦の四苦を抱えながら生きている。いや生かされています。
誰一人この四苦から逃れることはできません。そんそん高齢化が進む日本、
年間の出生数と死亡者数からもわかるように、年々、亡くなる人の方が多く、
人口も減少傾向にあります。半面、65歳以上の高齢者(老齢人口)の割合は
25.1%と、4人に1人は高齢者となりました。すでに30%を超えている県も
あります。
 つい死ぬのは他人と・・・と思いがちですが、生者必滅の言葉通り、間違い
なしに死はおとずれます。その時になって惑わないように、常に死を見つめ
ながら生きることが大切です。
 それはまた、生死を引き離すのではなく、生死一如不二・・・つまり
こういうところに生死の実相があります。私たちの一日一日が流れ消えていき
ます。いつも死を抱き込んで生きている。それが私どもの人生でもあります。
この世において、もし死というものがないとすると、生というものの意味が無く
生のない死もなければ、死のない生もありません。
 私自身もそうですが、死にたくないのは事実です。しかし、生きている限り、
いつかやがては死んで往かねばなりません。そのことがまた生きることの力に
なり、支えになっているのも確かです。いつまでも、いつまでも、どこまでも
どこまでも、走れ、走れとアクセルを踏み続けています。
 生死出ずべき道を求められた宗祖親鸞聖人は、元祖法然聖人に出遇われ、
お念仏の教えを依りどころとされました。その生涯はまさに、いつ死んでも
大丈夫という大きな安心があったのではないでしょうか。
 心豊かに生きていける人生が、そこにひろがっていきます。