プロティノス(205-270)
 ストア派が終わったところで、続いて、新プラトン主義を代表する哲学者であるプロティノスについて検討していきましょう。
 ある程度哲学に興味を持っていて、書店の哲学コーナーをちょくちょくのぞいている方であればわかると思いますが、プロティノスをはじめとする新プラトン主義関係の本はほとんど出版されていません。
 世界の名著×1、中公クラシックス×2、岩波文庫×1、論文集×2
 一般的に手に入れることができる新プラトン主義関係の文献は大体この程度でしょう。
 プロティノス関係では、一応、『プロティノス全集』が出版されていますが、現在絶版になっていますし、論文集ではないいわゆる「解説書」のような一般向けの書籍となると全くもって皆無の状態です。
 ヘーゲルは自著のなかでプロティノスをはじめとした新プラトン主義に属する人々を非常に高く評価していますが、この書籍の少なさが物語っているように、日本国内の新プラトン主義研究は非常にお寒い状況です。
 このお寒い状況の原因は単純に新プラトン主義を専門とする国内の研究者の数が少ないということもありますが、もう一つの原因として、プロティノスの特徴的な文体が考えられます。
 これまでみてきた哲学者の項目で、ちょこちょこその哲学者の著作から引用してきましたが、それらの引用文に見られる文体は、基本的に、情緒的な表現よりも論理的な硬さが前面に出ているちょっとアカデミックな雰囲気でしたよね。
 ところが、そんな過去の人たちの文体と比べて、プロティノスの文体って、やたらと神懸っていて明確な理論の積み重ねが把握しづらいんです。
 実際、このコンテンツでも何箇所か引用する箇所があると思いますが、少ない文章からでも、その神懸りっぷりを十分堪能できると思います。
 さて、そんな参考資料の少ないプロティノスですが、このコンテンツでは、プロティノスに直接言及する前に、そもそも彼が属しているとされる「新プラトン主義」という括りがどのような思想的活動のことをさしているのかをちょっとだけ紹介し、その後で、いつものように「生涯」「学説」という順番で言及していきたいと思います。


「新プラトン主義」とは……
 今日、「新プラトン主義」というとプロティノスを始祖とする一連の知的活動のことを指しますが、プロティノスとはじめとする当時の人たちが自分たちの活動を「新プラトン主義」と呼んでいたわけではありません。
 むしろ、プロティノスは自分の提示する学説をプラトンの主張する学説と本質的な部分でまったく同じものだと考えていました。
 つまり、プロティノスは自分のことを生粋のプラトニストだと自覚していたのであり、彼らにとって、自分達の学説が「新」という冠をつけて呼ばれることは不本意なことだったんですね。
 では、なぜ、現代では彼らの学説は「新プラトン主義」と呼ばれているのでしょうか?
 もともと、「新プラトン主義」という言葉は、18世紀から19世紀を生きたトマス・テイラー(Thomas Taylor:1758-1835)がプロティノスの『エネアデス』を翻訳・出版した際に、その著作のなかではじめて使った造語です。
 つまり、それ以前の哲学史において、「新プラトン主義(Neo-Platonism)」という言葉は存在しておらず、このテイラーの著作をきっかけにしてその後一般に広まっていったんですね。
 このトマス・テイラーという人物に関する知識としては、西欧世界で新プラトン主義者の著作を始めて英語に訳した人物ということだけを海馬の奥の奥の奥の方にチョコッとだけ入れていれば十分すぎるほどで、それ以外の点については別段気にする必要もありませんし、例え、このコンテンツを読んでいる人の中に将来哲学を専門にしようという志を持っている人がいたとしても、このトマス・テイラーという人物の名前は全く知らなかったとしてもその後の研究人生に何の影響もないでしょう。
 そんな、超マイナーな人物のことはさておき、ここで問題とすべきなのは、テイラーの作った「新プラトン主義(Neo-Platonism)」という造語がなぜ広く受け入れられていったのかという点です。
 それについて考える際には「新プラトン主義」という言葉を「新」と「プラトン主義」の二つに分けて考える必要がありますが、これら二つのうち、後者、すなわち、「プラトン主義」という点については容易に説明することができます。
 プロティノスが自分の主張とプラトンの主張との間に本質的な違いは無いと考えていたということが象徴的なように、現代において「新プラトン主義」に属するとみなされている人々の主張が多分にプラトン的な要素を持っていたということ、これこそが、「新プラトン主義」という言葉が受け入れられるようになった理由の一つとして考えられるわけです。
 このように、彼らの学説に対する「新プラトン主義」という呼び名が受け入れられた理由として「プラトン主義」の部分にまつわる理由は簡単に理解できますが、より大きな問題となるのは前者、すなわち、「新」の方です。
 「新」というからには、そこにプラトンの学説とは異なる何らかの要素が存在していなければなりません。
 では、その異なる要素とは何なのか?
 それに関しては、ここで安易に答えを出すことはできません。
 この問題は、プラトンとプロティノスの違いは、プロティノスの学説を一通り概観して初めて明らかになるものです。
 ですから、プラトンとプロティノスの違いに関しては、これ以後、プロティノスの生涯と学説を検討しながら、少しずつ明らかにしていきます。


プロティノスの生涯
 プロティノスの生涯は、彼の弟子であったポルピュリオスという人物が残した『プロティノス伝』という著作によって知ることができます。
 この著作は作者であるポルピュリオスが編纂し、プロティノスの主著とみなされている『エネアデス』の冒頭にチョコッと添えられていた、いわば、「おまけ」的な文章なんですが、残念なことに、プロティノスの生涯を伝える著作として今日まで残っているのはこの『プロティノス伝』だけです。
 ちなみに、この『プロティノス伝』は中公クラシックスに収録されている『プロティノス エネアデス(抄)T』で読むことができます。
 さて、資料的な説明はさておき、肝心のプロティノスの生涯についてですが、『プロティノス伝』の冒頭に以下のように記されているように、

『プロティノス伝』1
 われわれの時代に現れた哲学者プロティノスは、自分が肉体をまとっていることを恥じている様子であった。そしてこのような気持ちから彼は、自分の先祖(種族)についても両親についても生国についても、語ることを肯んじなかったのである。

プロティノスは自分から進んで自分の生い立ちについて語ることはなかったようで、彼の両親や彼の幼少時代のことなどについては何も分かっていません。
 しかし、ポルピュリオスは、ここにあげた引用文を示したすぐ後で、談笑中にプロティノス自身が語った話として、プロティノスの知的キャリアの一端を垣間みることのできる情報を示してくれています。

『プロティノス伝』3
 二十八歳のとき、哲学への愛に燃え立って、当時アレクサンドリアで名声のあった先生達に紹介されたのだが、彼らの講義を聞いてから、(いつも)がっかりして悲しみに満ちて戻ってきた。そして自分の悩みを友人の誰かに話したのであった。するとその友人は、彼の魂の要求をよく理解して、彼がまだ試していなかったアンモニオスという人のところへ彼を連れて行った。彼は入って行って(講義を)聞き、「この人だ、私の求めていたのは」と友人に言った。
 そしてその日からずっとアンモニオスのもとに留まり、大いに哲学に熟達したので、ついにはペルシアで行われている哲学とインドで盛んな哲学にも接してみたいと希求するにいたった。

 この引用文で言われているように、プロティノスが哲学に本腰を入れ始めたのは、28歳という現代のわれわれからするとかなり遅い年齢であったことが分かります。
 もちろん、プロティノスの場合、それ以前に一通りの教養を身につけていたであろうということが考えられますが、それを考慮に入れたとしても、われわれの感覚からすると、ちょっと遅い感じがしますよね。
 仮に、現代に生きる我々が大学で哲学を専攻したとすると、大学に入学するのは20歳前後ですから、そこからプラス8年といえば、何の支障も無く進学した場合、現代の教育システムだと博士後期課程を終了する年齢ということになります。
 そんな、遅いデビューを果たしたプロティノスですが、アンモニオスと出会って以来、プロティノスは彼を師としてそこに11年間留まり哲学研究に励みます。
 やはり、11年もそこに留まって研究していたぐらいですから、プロティノスの学説におけるアンモニオスの影響は無視できないものがあると思うのですが、肝心のアンモニオスの学説が内容的にどのようなものであったのかという点についてはよくわかっていません。
 ですから、実質的に、プロティノスの思想とアンモニオスの思想とを峻別する、もしくは、プロティノスの思想に見られるアンモニオスの影響を汲み取るということは不可能でしょう。
 さて、11年という長い研究生活を終えたプロティノスは40歳になったとき、ローマへと移住します。
 そして、このローマの地で、プロティノスは人々を集めて哲学の講義を行います。
 ポルピュリオスが伝えるところによると、このときに彼が行った講義の内容は、基本的に師匠であるアンモニオスの学説に基づいたものだったそうですが、その具体的な内容は今日では知ることができません。
 プロティノスの講義生活は10年間にわたって続きましたが、この10年の間、プロティノスは自分の著作を表すということはありませんでした。
 プラトンなどは今日読むことができる『プラトン全集』をみてもわかるように、非常に多くの著作を残しましたが、それらの人々と比べると、プロティノスの著作量はそれほど多くありません。
 もちろん、歴史の荒波のなかで失われてしまったという可能性は常に付きまといますが、それを差し引いたとしてもプロティノスの著作は少ないですね。
 今日、プロティノスの著作として伝えられているのはポルピュリオスが編纂した『エネアデス』だけですが、そもそも、この『エネアデス』というのも、一つの著作ではなく、プロティノスの書いた54本の論文をポルピュリオスが9つずつ6巻にまとめたものです。
 ちなみにタイトルの「エネア」とは数字の「9」を表すもので、『エネアデス』というタイトルは単に「9つのもの」ぐらいの意味なんです。
 つまり、仮に、プロティノスの著作がこの『エネアデス』に収録された論文だけだとすると、彼の生涯の著作量は54本の論文だけということになります。
 この数を多いと思うか少ないと思うかは人それぞれでしょうが、現代の研究者でも54本以上の論文を書いてる人はけっこういます。
 もちろん、著作は数ではなく中身ですから単純に量が少ないからどうのこうの言うわけではないのですが、それでも、54本っていうのはちょっと少なめですね。
 さて、10年間の講義生活を送った後の253年頃から、プロティノスはこれまで行ってきた講義生活のほかに、自らの学説を著作として残す作業を開始します。
 そして、プロティノスがこの著作生活に移行してからさらに10年後の263年に、『プロティノス伝』の作者であるポルピュリオスがプロティノスのもとにやってきます。
 ポルピュリオスによると、このとき、プロティノスはすでに21本の論文を書き上げていたそうです。
 ポルピュリオスもせっかくプロティノスのそばに来たのだから、プロティノス個人にまつわる出来事をいろいろと記録しておけばよいのではないかと思うのですが、『プロティノス伝』を読んでみると、この年以後の出来事に関する記述は、プロティノス自身にまつわるものではなく、なぜか、彼の講義に集まった人々にまつわるものが多くなってきます。
 ですから、263年からプロティノスが死をむかえるまでの7年間における、プロティノス個人に関する出来事はよくわかりません。
 しかし、プロティノスが自分の著作を編纂してくれているポルピュリオスのところに、書いた論文を送ってきたという記述があるので、プロティノスは、ポルピュリオスと出会った後も、それまでと同様、少数の人々に講義をしながら少しずつ学説を論文としてまとめていくという静かな学究生活を送っていたのだと推測されます。
 このように、プロティノスの生涯は、ソクラテスやプラトンなど激烈な生涯を送った人々と比べると、非常に穏やかなものであったと考えることができます。
 古代ギリシアの哲学史に登場する人々は、エンペドクレスやヘラクレイトスのような奇人変人のたぐいに属するような人たちも含めて、良くも悪くも「濃い」人々が多いのですが、そんな中にあって、プロティノスのような静かで控えめな生涯は逆に異彩を放っていて魅力的なものにみえますね。


プロティノスの学説
 ここからはプロティノスの学説について検討していきます。
 先にチラッと触れていたように、プロティノスは自分自身の学説とプラトンの学説との間に本質的な違いは全くないと考えていました。
 プラトンの学説に関してはこのサイトのプラトンの項目を見てもらってもいいですし、他の入門書的なものを見てもらってもいいんですが、ここから先は、プロティノスが自分の学説とプラトンの学説を同一視していたという点と、プラトンの学説の大まかな雰囲気を頭の片隅に置きながら読んでいただくと、より、いい感じで理解できると思います。


1、プロティノスの世界観
 プロティノスの学説は全体の作りがなんとなくフワッとしているので、どこから攻めていけばいいのか取っ掛かりがつかみづらいんですが、このコンテンツでは、プロティノスの世界観から切り込んでいこうと思います。

1-1、四層構造の世界観
 若干結論めいた主張になりますが、プロティノスは世界全体を大きく分けて二つに分類していました。
 より具体的に言うと、自然世界万有を支配する「統合原理」と、その「統合原理」によって直接的、または、間接的に支配される「物体」の二つに分けたんですが、これら二つのものの内実はどのようなものであり、また、どのような構造で組み立てられていたのでしょうか。
 この1-1ではその点について検討していきます。
 まずは、さしあたって、「統合原理」の方から検討していきましょう。
 以下の引用文を見てください。

『三つの原理的なものについて』(『エネアデス』X1)
 それで、すべては以上のごとくであることを認めなければならない。すなわち存在を彼方に超越するところの一者がまずあるわけで ―― このようなものを以上の説明においてわれわれは、これらについて明白にすることができるだけは、明らかにしようと意図したのである ―― 次にはこれにつづいて存在と知性があり、三番目にはたましいという自然原理が来るのであるが、これをこのとおりであると認めなければならない理由は、すでに明らかにされたところである。しかし自然のうちに、いま言われたそれらのものが三段になってあるとすれば、われわれのところにも同様それらのものがあることを認めなければならなくなる。といっても、感覚されるわれわれの上を言うのではない。なぜなら、以上の原理はこれらを超越したものだからである。そうではなくて、感覚界の外にあるわれわれの上をいうのである。

 後半部分がなんともややこしい表現ですが、まずは前半部分で言われている事柄に着目してください。
 先にもチラッと言及したことですが、この部分を見ると、プロティノスが自然万有の統合原理を三段階に区別していたということがわかるでしょう。
 まず、三段階の一番上に「一者」を、次ぐ二段目に「(存在と)知性」を、そして、一番下の三段目に「魂」を置き、この三者で三層構造を成立させているんですね。
 つづいて、この三段構造が把握できたところで、「ややこしい表現」が多用されている引用の後半部をみてみましょう。
 この部分を読んでいて感じるややこしさは「感覚されるわれわれの上を言うのではない。(中略)そうではなくて、感覚界の外にあるわれわれ上をいうのである」という独特の言葉遣いに原因があるんですが、この箇所はもっとシンプルに「感覚によって把握されるものではない」という意味で解釈して何も問題ありません。
 つまり、プロティノスは自然世界万有の統合原理として感覚によって把握できないものを想定し、その感覚によって把握できないものを上から順に「一者」→「知性」→「魂」という仕方で階層付けたということです。
 自然万有の統合原理として感覚によって把握できない何らかのものを想定するという考え方には、エンペドクレス(「愛」と「争い」)やアナクサゴラス(「知性」)といったソクラテス以前からの知的伝統がありますから、いまさら驚くことでもないのですが、よくよく考えてみると、ここで「ん?」と思うことがあるはずです。
 それは、ここで言われているプロティノスの三層構造が感覚によって把握できないものにのみ限定されているという点です。
 普段、われわれが生きている世界は、言うまでもなく、物体に満ち溢れた感覚によって把握される世界です。
 プロティノスはこの四つ目の要素を世界のどこに位置づけたのでしょうか?
 なんとなく、もってまわった言い方ですが、引用文を読めば大体の見当はつきますよね。
 「統合原理」に対して「感覚界の外にあるわれわれの上」という言い方がされているわけですから、当然のことながら、われわれが生きている感覚世界、すなわち、「物体」の世界はこれら「統合原理」の下、より詳しく言えば、「統合原理」の最下層に位置する「魂」の下に位置づけられているということになります。
 そして、この段階で、プロティノスにおいては「一者」→「知性」→「魂」→「物体」という順番で構成される四層構造の世界観が確立されていたと考えることができます。


1-2、それぞれの層の関係
 プロティノスが世界全体を三つの「統合原理」とそれに支配される「物体」からなる四層構造で考えていたという点を確認したところで、こんどは、それらの層の大まかな関係について検討してみましょう。
 なぜ「大まかな」という限定をつけたのか疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、やっぱり、それぞれの層の細かな影響関係ということになるといろいろややこしいことがあるんですね。
 ですから、ここでは、そういった細かな部分を見る前段階として、四つの層全体を貫く大きな影響関係にのみ焦点を当てて検討していきます。「大まかな」という限定をつけたのはそういう意味ですね。
 さて、ここで問題とするそれぞれの層の影響関係なんですが、一言で「影響関係」といっても色々なものが想定されます。
 ですから、本格的な検討に入る前に、プロティノスがこの四層構造の上下関係として問題視している関係を特定しておく必要があります。
 プロティノスはどのような関係を問題にしていたでしょうか?
 結論を言うと、それは「生成」です。
 「生成」というと「作るものと作られるもの」といった関係がパッと頭に思い浮かびますが、プロティノスが主張する「生成」とはどのようなものであり、また、プロティノスははこの関係を問題とする際に何を主張しようとしていたのでしょうか。
 以下で詳しく検討してみましょう。


1-2-1、階層の上下間における「生成」関係
 まずは早速ですが、以下の引用文を見て下さい。
 ちょっと長くなりますけど、まあ、これも、必要なことですのでしばしお付き合いください。

『エネアデス』(X1.6)
すなわち一者がわれわれの言うような性質のものだとすると、そのような一から、多なり、二なり、数なりの、およそなにものかが存立することを得て来たのは、どのようにしてなのであろうかということである。むしろどうして一者が自分だけに止まっていないで、これほど多が流れ出てきてしまったのであろうかということである。しかもその多は、もろもろの存在のうちに見られるとはいえ、われわれはこれを直接かのものへ導きかえさなければならないと考えているのである。(中略)何かもしそれ(一者)の後に生ずるものがあるとしたならば、それはかのもの(一者)がいつも自分自身の方へ向くのを、そのままにして生じたのでなければならない。ただし、生ずるといっても、時間上の生成はわれわれの問題外におかれなければならない。なぜなら、われわれの論じているのは、常住永遠の存在についてだからである。そしてわれわれが言葉の上で「生ずる」という言葉をそれに結びつけるとしても、それは因果関係とその順位を示すためなのである。かくて、とにかくこの意味において、およそかのものから生ずるものがあるならば、それはかのものが動くことなしに生ずるのだといわなければならない。(中略)すると、それはどのようにしてなのであろうか。すなわち、かのものは静止させておくとして、その周囲にはまた何を考うべきであろうか。ひとつの円光を考うべきである。それはかのものから発するのであるが、しかしそのかのものは不動のまま止まるがごとき円光である。その類例となるものは日光であって、太陽の周囲には、これを馳せめぐる輝かしい光が見られるのであるが、しかしその場合、太陽は静止したままで、しかもそこから不断にその光が生まれ出ているのである。のみならず、存在するものは総じて、それが存在する限りにおいて、それのあるがままの存在から、それの周囲に、それの外に向かってそれに依存するところの存在を、それが現にもっている能力から、必然に成立させるものなのであるが、そこに成立せしめられる存在は、それを出生させたものをいわば原型とする、ひとつの影像なのである。すなわち火は、それから発する熱をかくのごときものとして成立させ、雪もまたその冷たさを自己の内部のみに保有するものではないのであるが、しかしこれが最大の証拠となるのは、およそ芳香を持つものの存在である。すなわちそれが存在しているかぎり、それからは何かがそれの周囲に出て来るのであって、これの近くにいるものは、いずれもそれの存立から快感を与えられるのである。

 「少し」どころじゃなく長くなってしまいました。しかも、長くなったわりに、引用した箇所がなんとなく的外れっぽいという最悪の状態です。
 それもこれも私の資料分析能力の無さが問題なんですが、一応、言い訳として、プロティノスの文章がムチャクチャ読みにくいという点も付け加えさせてください。
 さて、的外れの雰囲気が漂いつつも、一応、ここに引用した箇所で言われているのが、四層構造のうち、その上層部にあたる「統合原理」の三層全体に適応されている「生成」関係のありかたです。
 この関係を最もシンプルな言葉で言い表すと、「生じさせるものと生じるものの関係」ということになるんですが、プロティノスは「一者」→「知性」→「魂」という三層構造の序列を「上のものが下のものを生じさせ、下のものが上のものによって生じる」と考えていました。
 つまり、「一者」が「知性」を生じさせ、「知性」が「魂」を生じさせるということですね。
 このようにサクッと言ってしまうと「何でそれだけのためにこんなに長い引用が…」と思う方もいらっしゃると思いますが、引用したには引用したなりの意味がちゃんとありますから、ここはちょっと我慢してお付き合いください。
 さて、プロティノスにおける統合原理の三層構造の上下関係が「生じさせるものと生じるものの関係」であるということはわかりましたが、ここで、ちょっと、通常われわれが何かを生じさせるときのことを考えてみましょう。
 なんでもいいですけど、まぁ、仮に、「椅子」をつくるとしましょうか。
 その場合、「椅子」を作る人と「椅子」との間には、当然のことながら時間的な前後関係が存在します。
 また、それと同時に、「椅子を作る」という行為に伴って、大なり小なりなんらかの「運動」も生じることになります。
 つまり、われわれ人間が何かを生じさせるときには「時間」と「運動」が必然的に伴うことになるんですね。
 しかし、プロティノスがここで述べている「生じさせるものと生じるものの関係」においては、「時間」と「運動」の概念が存在しません。
 具体的に言うと、「一者」が「知性」を生じさせるときや「知性」が「魂」を生じさせるときには一切の時間的前後関係や運動を伴う作用が存在していないということなのですが、この考え方、非常にわかりづらいですよね。
 どうやら、プロティノス自身もこの点に関しては「わかりづらいのではないか…」という疑念を抱いていたようで、ここでプロティノスは珍しく「太陽」「火」「雪」「芳香を持つもの」という四つの具体例を出して説明を試みています。
 引用文中の記述を参考にしながら、これら四つのものそれぞれにおいて成立している「生じさせるものと生じるものの関係」を簡潔に示すと以下のようになります。

番号具体例生じさせるもの生じるもの
1太陽太陽日光
2
3冷たさ
4芳香を持つもの芳香を持つもの

 先にあげた引用文をみてみると、プロティノスはこれら四つの事例における「生じさせるもの」と「生じるもの」との関係を「存在するものは総じて、それが存在する限りにおいて、それのあるがままの存在から、それの周囲に、それの外に向かってそれに依存するところの存在を、それが現にもっている能力から、必然に成立させるものなのである」という仕方で説明しています。
 なんともややこしい表現ですが、実はこの一節、見た目ほど難しいことではないんです。
 「太陽」と「日光」の例を考えてみると、この両者の間には、「日光の存在は太陽の存在に依存する(もしもこの表現でわかりづらいというのであれば「太陽なしに日光は存在しない」ぐらいに考えておいて貰ってもけっこうです)」という関係と、「太陽が存在するとき日光は必然的に存在する」という二つの関係が同時に成立していますよね。
 そして、これと同じことは、それ以外の三つの事例、すなわち、「火」と「熱」、「雪」と「冷たさ」、「芳香を持つもの」と「香」の間にも同じように成立しています。
 つまり、プロティノスがここに挙げた四つの事例においては、「生じさせるもの」と「生じるもの」の間に以下の二つの関係が同時に成り立っているんです。

関係1:「生じるものの存在」は「生じさせるものの存在」に依存する
関係2:「生じるもの」は「生じさせるもの」が存在しているときには必然的に存在する

 そして、プロティノスが言うには、「生じさせるもの」と「生じるもの」の間でこの二つの関係が同時に成り立っているならば、「生じさせるもの」が「生じるもの」を生じさせるときに「運動」も「時間」も必要ないということになります。
 なぜそのようなことがいえるのでしょうか?
 ポイントとなるのは「生じさせるもの」と「生じるもの」の関係が、両者の「存在」にのみ依存して成立している関係であるという点です。
 先に示した「人間」と「椅子」の関係で考えてみると、「生じるもの」である「椅子」の存在は「生じさせるもの」である「人間」の存在だけでなく「椅子を作る」という「人間」の「行為」、より厳密に言えば、「行為の成立」にも依存しています。
 この場合、「椅子」の存在はその作り手である「人間」の存在に依存しているという意味で二つの関係のうち、関係1は満たしていると考えることができます。
 しかし、それと同時に、「椅子」の存在は「椅子を作る」という「人間の行為」にも依存しているため、「人間」が存在していても、「人間」が「椅子」を「作ろうとしていない」ときや「作っている過程」においては「椅子」は存在していません。
 そして、そうであるがゆえに、「人間」と「椅子」の間には関係2が成立しないことになります。
 また、この「人間」と「椅子」の関係において「椅子」の存在が依存している「人間の行為」は「運動」と「時間」を伴うものなので、必然的に、「生じさせるもの」が「生じるもの」を生じさせる際に「運動」と「時間」が必要になるわけです。
 しかし、「生じさせるもの」と「生じるもの」の関係が、両者の「存在」にのみ依存して成立している場合、「存在」には「運動」も「時間」も関係しないため、そこでは、「生じるもの」の存在が「生じさせるもの」によって確立される際に「運動」も「時間」も必要ないんですね。
 つまり、プロティノスがあげた先の四つの事例、および、自然万有を統合する原理の三層構造を貫く「生じさせるものと生じるものの関係」においては、それが「存在」のレベルでのみ成立している関係であるという点で、「時間」も「運動」も必要としない関係なんです。
 また、そうであるがゆえに、三層構造の上位のものが下位のものを生じさせると言われるときの「生じさせるもの」と「生じるもの」という区別は、「時間的な前後関係」や「作用するものと作用を受けるもの」という意味での区別ではなく、純粋にどちらが原因でどちらが結果なのかということをはっきりさせるための区別であるということが言えるんですね。
 以上が階層上下間の生成関係です。
 う〜ん…、長々説明してきましたけど、いざ、一通り説明してみると、やっぱりけっこう面倒な表現になってしまいましたね。
 でも、この「時間」と「運動」の「前後関係」をともなわない「生成」って、「日光は太陽がなければ存在しない」「太陽があるときに日光は絶対にある」っていうこのシンプルな二つの関係が、「太陽」が「日光」を生み出すという状況を成立させるときにものすごく強く作用しているっていうことを感覚的にビシッとつかむことができるようになると、ストン!!と納得できるようになるので、ちょっとややこしくてもじっくり考えて見て下さい。
 さて、ここまでみてきたように、自然万有を統合する原理全体を貫く「生じさせるものと生じるもの」の関係は両者の「存在」にのみ依存して成立している関係でしたが、ここでプロティノスは生成関係を確立させるおおもとの存在者の「存在」がどのようにして確立されるのかという点に目を向けます。
 下の階層の生成は上の階層の存在に依存するわけですから、これを遡っていくとそのおおもとの存在はどのようにして確立されているのかということが問題となります。
 ここから先はこの生成関係を成り立たせている「存在」にまつわる問題を検討していきます。


1-2-2、「存在」を確立させるものとしての「一者」 〜「一者」は存在者ではない〜
 生成関係を成り立たせている「存在」の起源をたどるには、四層構造の頂点に位置する「一者」に言及する必要があります。
 このコンテンツを始めてすぐのあたりで、私がプロティノスのことを「やたらと神懸っていて…」と表現していたことを覚えていらっしゃるでしょうか?
 これまで検討してきた議論ではその「神懸り」の部分がそれほど目立ちませんでしたが、この「一者」に関する説明で、プロティノスの神懸りっぷりが思いっきり炸裂します。
 冷静に考えれば考えるほど「ん?」と思う箇所が必ず出てくるとは思いますが、その「ん?」と思う気持ちをグッとこらえて、ここは「プロティノスはこういうふうに考えたんだ!!」と思いながらプロティノスのレールに乗っかってみてください。
 では、いつものように、以下の引用文を見て下さい。今回もかなり長いです…

『エネアデス』(Y9.1)
すべての存在は、一つであることによって存在なのである。このことは第一義的な意味の存在についても、何らかの意味において存在のうちに数えられるものについても、みなそうなのである。なぜなら、いったい何が、一つでなくても、なお存在しうるであろうか。ものが一つのものとして語られる、その一つということを取り去られるならば、そこに語られていたものとしては存在しえないからである。すなわち軍団は、ひとつのものとなっていなければ存在しないであろうし、合唱舞踏者の一団も家畜の一群も、一体をなしていなければ、存在はしないであろう。いや、家でも船でも、一つということを欠いては存在しないであろう。なぜなら家も船も一つのものであって、一つということを失えば、家はもはや家でありえず、船も船ではありえないであろう。つまり、連続によって一つの大きさをもつものも、これに一つということが加えられていなければ、存在しえないであろう。すなわち、連続体が分割される場合には、一体性を失う範囲において有様をかえるからである。そしてこのことは植物や動物の肉体について特にそうであって、その名は一つなのであって、これが多に細分されて、一体性から遠ざかる場合には、所有していた自己自身の本来のあり方をなくしてしまい、いままであったものではもはやなく、これと違ったものになってしまうのである。しかもその違ったものというのも、一つのものである限りそれなのである。また健康というようなことも、その肉体が綜合的に一つに秩序づけられるところに成り立つのであり、美ということも、一体性の支配が身体の部分部分に行き渡っているということなのである。またたましいのよさ(徳)というものも、それが一体化されて、一つところに合致し、一つとなることにおいて成立するのである。

『エネアデス』(T8.2)
また、知性は、善の最初の活動であり、第一の実在である。

『エネアデス』(Y9.2)
ところで、知性が第一者でありえぬことは、また次の理由からも明らかである。すなわち知性は必然に知性のはたらきをしていなければならない。直知していなければならない。特に最上の知性体ともなれば、眼目を外部に向けるものではないから、自己の先にあるものに対して知性をはたらかさねばならない。すなわち自己自身に向かって反える(「反える」と書いてここでは「かえる」と読みます)ことは、始元に向かって反えることなのである。それで、一、もし知性が自分だけで、知性をはたらかしながら、同時にまたそのはたらきを受けているものだとするならば、(直知し直知されるものとして)それは二重性のものとなり、単一性のものではなくなるであろう。またしたがって一者ではないことにもなるであろう。二、またしかし自分以外のものを相手にするのだとすれば、その相手はどうしても自分よりすぐれたもの、自分より先のものでなければならない。三、しかしまた自分を相手にするとともに、自分よりすぐれたものを相手にするとも考えられるが、それでも知性は二次的なものとなる。また実際に知性というものは、一方においては、善であり、第一者であるところのもののかたわらにあって、これに眼を注ぐとともに、他方にあっては、また自分自身ともいっしょにいて、自分自身を相手に知性をはたらかせながら、自己がすなわち万有であることを知るというような、そういうものであるとしなければならない。したがって、それは多様複雑のものであるから、なかなかもって一者とはなしがたいのである。

『エネアデス』(Y9.5)
もしまことに何かが知性よりも先に存在しなければならないとすれば、それは存在のうちの最も高貴なものよりさらに先のものということになる。すなわち知性は一であることを志しながらも、一つにはなっていないのであるが、しかし一つのものの姿をしている。それは知性が一者の次にあるものとして、一者に近いものであるが故に、自己自身を分裂させるというようなことはないから、自己自身によっては知性は分散させられてしまわずに、自己自身と真実合体しているのであるが、しかし何らかの仕方において一者からは離れて立つことをあえてするものだからである。つまりそのような知性に先立つ驚異すべきものがすなわち一者なのであって、それは存在ではないのである。なぜなら、もし存在だとすれば、すでにそこにおいて一者は、他のものを前提して、その下に述語づけられるものとなるけれども、それは許されないことだからである。本当をいえば、一者には合う名前が一つもないのである。しかし何らかの名前で呼ばなければならないとすれば、これを共通に一者というのが適当であろう。むろんその場合、まず他のものを考えて、それからそれを一者と呼ぶようなわけではない。したがって、それの認識は困難であって、むしろそれから生み出されたものとしての有(存在)によって徐々に認識されることになる。またそれは知性を存在へと導くものであって、それの本性はおよそ最善なるものの源泉となるがごときものであり、存在を生む力として、自己自身のうちにそのまま止まって、減少することのないようなものであり、またそれによって生ぜしめられるもののうちに存在するということもないものなのである。なぜなら、ちょうどまたそれらに先立つものだからである。われわれがこれを一者と名づけるのは、互いにこのものを表示するための必要に出ずるのであって、われわれはこの名称によって、不可分なるものの思念を導き、たましいの統一を計ろうとするのである。すなわちわれわれの言う一や不可分は、点や数の一の意味ではないのである。なぜなら、このような意味の一は、量の単元となるものであるけれども、しかしその量というものは、あらかじめ存在となるものや存在以前のものがなければ、成立しなかったであろう。したがって、このようなところに考えを向けてはならないのであって、ただそれが単一で、多や分割を免れているという点において、類比的にこれらをかのものに似ているとなすことが許されるだけである。

 いやぁ〜、長い……。ひょっとすると、古代哲学史全体の中で一番長い引用になってしまったかもしれません……
 謝るのは二度目になりますけど、本当にすいません。要約能力がなくて。
 でも、何の根拠も示されないまま、「誰々の学説はこれこれである!!」みたいな権威の押し売り的な書き方をされるよりは、ちょっと長くなってもこの方がいいですよね…
 さて、言い訳がすんだところで、ここにあげた四つの資料のつながりを考えてみると、まず、一つ目の資料で、プロティノスは「ありとあらゆる存在者は一つであることによって存在している」ということを主張します。
 このことを主張する際、プロティノスは「家畜の群れ」「船」「動植物」などを具体例に出して説明していますが、ここでいわれる「一つであることによって存在している」ということの意味は、要するに、「あるものが、その名前で呼ばれるものとして存在するためには、そのものはそれを構成する諸部分を統合した一つのものでなければならない」ということなんですね。
 具体的に言うと、家畜(牛でも馬でもヒツジでも何でもいいですが…)が草原に放し飼いにされて一匹一匹バラバラの状態にあるときには、その状態を称して「家畜の群れ」とは言いませんよね。「家畜の群れ」が「家畜の群れ」として存在するためには、バラバラだった家畜が「一つ」というまとまりを持っていなければなりません。
 また、「船」が「船」であるためにも、それを構成している部品がバラバラであってはいけません。「船」はその部品が「一つ」というまとまりを持ったときに初めて「船」と呼ばれるものとして存在することになります。
 さらに、「動植物」の場合を考えてみても、それらのものは身体の様々な部位がバラバラな状態の時には「人間」とか「熊」とか「桜」とか「杉」といった存在者とはみなされません。「人間」が「人間」として存在するため、「熊」が「熊」として存在するため、「桜」が「桜」として存在するため、「杉」が「杉」として存在するためには、それらを構成する部位が「一つ」というまとまりをもっている必要があるんですね。
 このような仕方で、プロティノスは「あらゆる存在者は一つであることによって存在している」ということを主張するんです。
 ここで、二つ目の資料をみてみると、プロティノスは1-1で世界の上から二番目の層に位置づけられていた「知性」を完全な存在者とみなしていたということがうかがえます。
 しかし、そのことを頭に入れながら三つ目の引用文をみてみると、この引用文のなかでプロティノスは「知性」について「それは一ではない」ということを主張します。
 つまり、プロティノスは「知性」について、それは「一つ」ではあるけれども「一」ではないと主張するんです。
 引用文を見てもわかるように、この場合の「一」は世界の構造において最も上の層に位置づけられている「一者」のことを意味しているんですが、これまでの議論が示しているように、プロティノスは一つ目の引用文で「存在者」は「一つ」でなけらばならないと主張しつつ、「知性」を「完全な存在者」とみなしていました。
 それが「完全な存在」である以上、「知性」以上の存在者は存在しないことになります。
 しかし、プロティノスは、この「知性」を「存在者」としては最高のものとみなしますが、「一」としては最高のものとみなさず、それはあくまでも「一つ」であって、「一」ではないと主張するんです。
 その理由として、三つ目の引用文のなかでプロティノスは「知性」の「部分を持つもの」としての側面を語ります。
 三つ目の引用文の中で、プロティノスは「知性」が多であるということと、「知性」に何らかのものが先立っているという事実を主張するために一、二、三と番号を振って三つのことを語りますが、いま問題となる「知性」の多としての側面については、一と番号を振られた部分で語られています。
 そこでは、「もし知性が自分だけで、知性をはたらかしながら、同時にまたそのはたらきを受けているものだとするならば、(直知し直知されるものとして)それは二重性のものとなり、単一性のものではなくなるであろう。またしたがって一者ではないことにもなるであろう」というもってまわった言い方がなされていますが、これをより簡潔に言い換えると、「『知性』が自分自身を見ているとすれば『知性』は『見ているもの』であると同時に『見られているもの』でもあるから『一』ではない(『二』である)」ということになります。
 プロクロスにとって「知性」とは、その名が示すとおり、「認識」などに代表される何らかの知性的なはたらきをするものでしたが、この「認識」という行為(引用文中では「直知」という言い方をされています)が「知性」自身に向かった場合、そこには当然、「知るもの」と「知られるもの」という二つのものが「知性」という一つのもののなかで同時に成立することになります。
 プロティノスはこの点に着目して、「知性」は最低でも「二つ」の部分からなるものであるとし、「知性」に対して「一つ」のものとして最高の存在ではあるけれども「一」ではないと主張したんですね。
 そして、このことによって、今この1-2-2-1で問題としている「一者」は「存在」という要素を越え出たものとして定義されることになります。
 では、プロティノスにとって、存在すらも超越している「一者」とはどのようなものだったのでしょうか?
 四つ目の引用文に目を向けると、プロクロスは「一者」について、「本当をいえば、一者には合う名前が一つもないのである」とか「われわれの言う一や不可分は、点や数の一の意味ではないのである」といったことを主張します。
 これはどういうことなのでしょうか。
 われわれが普段用いている1の概念は、当然ことながらそれよりもさらに下の単位に分割可能です。わかりやすい話、1は0.1×10に分割できますよね。
 つまり、数的なニュアンスを伴って我々の周りに存在する「一」は常に「多」なんですね。
 いいかえると、それらの「一」は常に統合原理を必要とする「一」なんですね。
 また、この「多」である「一」が存在している感覚的な世界は1-1でみたように、四層構造の一番下に位置している世界であり、そのような「一」も含めた感覚世界を統合するのはその上の層に位置する「魂」でした。
 さらに、その「魂」を統合するのはその上にある「知性」でした。
 この段階で、われわれが「一」とみなしている「一」を遥かに超えた「知性」という上層が想定されているわけですが、その「知性」さえも最低でも「二」であるという意味で「多」でした。
 一番最初の引用文で言われていたように、プロティノスにとって存在者は統合された「一つのもの」でなければなりませんでしたから、この「知性」も何らかのものによって「一つのもの」として統合されなければなりません。
 しかも、「多」を「一つのもの」として統合するわけですから、その統合するものは何らかの仕方で「一」でなければなりません。
 それゆえ、「知性」よりもさらに上に「一」が想定されなければならないわけですが、この「知性」は三つ目の引用文で言われているように「第一の実在」すなわち最高度の存在者でした。
 そんな「知性」を超えたところに想定されている「一」は、感覚世界を遥かに超越しているという意味で、われわれの言うような「一」でもなければ、「存在」でもないということになります。
 「一」でも「存在」でもない「一者」。
 この概念は現代に生きる我々からするとかなり理解しづらい概念です。
 「記述の理論」を提出する際にラッセルが問題とした存在しないものに関する命題の真偽判定という問題もありますし、そもそも存在者ではないものを人間は思考の対象にすることができるのかという素朴な問題も思い浮かびます。
 このように、現代に生きる我々の観点からすると、「ん?」と思う点も多々ありますし、こういった点を称して私は「神懸り」と呼んでいるんですが、そういった「現代のわれわれ」という括りを取っ払って、「存在者は一つであることによって存在者である」ということを大前提として用いているプロティノスに積極的に同調すれば、これまでみてきたような議論を展開することも不可能ではないでしょうし、「存在」の上に単なる「一」というものを想定するのも、若干狐につままれたような雰囲気は残りますが、「まぁ、ありなのかなぁ」と無理やり納得することもできるでしょう。
 さて、以上がプロティノスにおける「一者」の概念です。
 引用文も解説文も思っていた以上に長くなってしまったので、もともとの本題を忘れてしまった方もいらっしゃるかと思いますが、そもそも、この「一者」の概念を持ち出したのは、生成関係を成り立たせている「存在」の起源をたどるためでした。
 次は、いよいよその問題に切り込んでいきます。


1-2-3、プロティノスにおける「流出」の概念 〜生成関係を成立させる「存在」の確立〜
 前節で、プロティノスにおける「一者」の概念は、完全なる存在者である「知性」に先立つ、存在を超え出たものであるということが明らかになりました。
 では、1-2-1の最後で提起した、生成関係を成立させる「存在」は四層構造のどの段階で確立されるのでしょうか?
 これまでも何度も確認してきたことですが、プロティノスにおいて、ある層の生成はそれよりも一つ上の層の存在に依存して成立していました。
 しかし、四層構造の一番上に位置している「一者」は、前節で見たように、存在ではありませんでした。
 仮に、「一者」のすぐ下の層である「知性」の生成が他のものの場合と同じように、すぐ上の層である「一者」に依存して成立しているとすると、「一者」は存在者ではないのに、なぜ、「知性」の生成が確立するのでしょうか?
 また、仮に、この「知性」の生成が確立されないとすると、それ以下の階層の生成も必然的に成立しないことになってしまいます。
 この問題を解消するポイントは、前節で引用した資料に言われていた「すべての存在は、一つであることによって存在なのである」という一節と、以下にあげる引用文にあります。

『エネアデス』(X1.7)
一なるものは、万物を生むことの可能な力として存するのである。

『エネアデス』(X1.6)
またさらに、およそすでに成熟完全の域にあるものは、すべて生むのであってみれば、常住完全の状態にあるものは、常住永遠に生むはずである。ただし、自分自身より劣った存在を生むのではあるが。すると、この上なく完全なかのものについては、何と言ったらよいであろうか。かのものからは、ただかのものの後につづくもので、しかもその最大者のみが生ずると言わなければならない。

 まず一つ目の引用文をみてみると、ここでは「一者」が「万物を生むことの可能な力」という仕方で表現されています。
 しかし、これは、「一者」が直接的に全てを生み出すというわけではありません。これまでの議論を念頭においてもそのことは明らかだと思うんですが、二つ目の引用文をみてみると、「その最大者のみが生ずる」といわれているように、生成は階層順に行われるのであり、「一者」が直接的に生み出すのは「最大者」すなわち直近の層に位置する「知性」であるということになります。
 では、「一者」は「知性」をどのようにして生み出すのでしょうか?
 その答えは二つ目の引用文にある「およそすでに成熟完全の域にあるものは、すべて生むのであってみれば、常住完全の状態にあるものは、常住永遠に生むはずである」という一節に集約されています。
 世界の最も高いそうに位置している「一者」は、この世で最も「成熟完全」なものです。
 それゆえ、この「一者」はあまりにも完全であるがゆえに、そこから何らかの影響力があふれ出てくるんですね。
 では、「一者」からあふれ出てくる影響力とは何なのでしょう?
 前節で引用した資料に示されていたように、「一者」は「存在」も含めたありとあらゆるものを超越した「何ものでもないもの」でした。
 そんな定義を持つ「一者」が唯一定義として受け入れるのは「一である」というものだけでした。
 つまり、「一者」はたんに「一」なのであり、その意味で「一者」からあふれ出てくるものは「一」なんです。
 ここへ来て「すべての存在は、一つであることによって存在なのである」という一節が生きてきます。
 「一者」から「一」があふれ出てきます。すると、そのあふれ出てきた「一」が直近の下層に位置する「知性」に作用し、「多」である「知性」が「一つ」として統合され、「知性」は「知性」として存在者の立場を獲得することになります。
 そして、一旦、「知性」の段階で「存在」が確立されたら、あとは1-2-1で確認した生成関係のあり方にしたがって、「知性」よりも下の「魂」と「物体」の生成が一気に確立することになるんですね。
 さて、以上が、プロティノスにおける世界生成の仕組みですが、この生成を確立させたおおもとの原因は、「一者」から「一」があふれ出るという現象でした。
 プロティノスにおいて、上層のものから直近の下の層に向かって何らかのものがあふれ出て、上層のものが下の層のものに影響を与えるという関係のことを「流出」といいます。
 ここで、ちょっと、誤解して欲しくないんですが、一番上の「一者」から「一」があふれ出て「知性」が存在者として確立することと「流出」とはイコールの関係ではないということです。
 プロティノスにおける「流出」の概念はあくまでも「上層のものからあふれ出たものが下層のものに影響を与える」というものであって、それは「一者」と「知性」の間だけでなく、「知性」と「魂」、「魂」と「物体」の間でも成立します。
 それゆえ、確かに「一者」と「知性」の間で成立している関係も「流出」であることに違いはないんですが、それが「流出」のすべてというわけではないんですね。
 しかし、プロティノスはこの「一者」と「知性」の間で成立している「一の流出」を「流出」のもっとも典型的なモデルケースとみなしています。
 ですから、「流出」の基本的な概念としては、ここで示した「一者」と「知性」の間で成立している関係を思い浮かべていただけると大きくはずすことはないと思います。
 さて、以上がプロティノスの世界観とその生成関係です。
 彼の世界観は、頂点に位置する「一者」と、四層構造全体を貫く「流出」の概念によって、きっちり形成されていました。
 確かに、「存在」を伴わない「一者」の概念や、「成熟完全」なものであるがゆえにそこから何かがあふれ出るという考え方にはいまいち論理性がみいだせなかったりするので、そういう意味では議論のそこかしこに「神懸り」の部分が色濃く残っているんですが、それでも、プロティノスに完全に下駄をあずけてしまって、「このレールに乗っかってしまうんだ!!」と思えば、理解できる許容範囲に入るでしょう。


2、各層の定義と「流出」関係の詳細
 四層構造の世界観全体に適応される生成関係と、それにまつわる「流出」の概念を確定したところで、ここからは、「一者」「知性」「魂」「物体」という個々の階層の特徴と、ここまで検討してこなかった「知性」以下の階層で成立している「流出」関係の詳細を検討していきます。


2-1、「一者」の再定義 〜「善」としての「一者」〜
 1-2-2で検討したように、「一者」とは「存在」を超越したものであり、普段われわれが理解している意味での「一」でもないような「一」でした。
 このように、極めて特殊な性質を持つ「一者」ですが、ここでは、この「存在を超越した特殊な一」という定義とは別のもう一つの側面、すなわち、「善」としての「一者」について検討します。
 まずは、例によって以下の引用文を見て下さい。

『エネアデス』(U9.1)
かくて(以上で)われわれに明らかとなったように、善なる者の本性は単純で、したがってまた第一位であり――というのは、すべて第一位ではないものは、単純でないのだから――そして自己の内に何ものをも含有しないで、何か一つのものであり、したがって、一なる者と呼ばれているものの本性も、これと同じものであるので〔なぜなら後者も、何か別のものであってその上に一であるというわけではないし、前者も、何かであってさらに善であるのではないのだから〕、かくして、われわれが「一なる者」と言う場合も、「善なる者」と言う場合も、同一の本性が意味されているのだと理解されなければならない。つまり、われわれはこのばあいに、かのものにいかなる規定をも付加して(述語して)いるのではなくて、ただわれわれ自身に対して、可能なかぎり(かのものを)言い表そうとしているわけなのである。

『エネアデス』(Y9.6)
かくて一者にとっては、それが求めなければならない善というものは一つもないのである。またしたがってそれはなにものをも欲しないのである。むしろそれは善を超越したものであって、他のものに対しては、それらのものが何かそれの一分を共有することができる場合においては、善となるけれども、自分が自己自身に対して善であるということはないのである。(中略)したがって万物の原因となるものは、万物のどれでもないことになる。またしたがってそれは、他のものに善を供給するけれども、それ自身は決して善と呼ばるべきではなく、むしろあるいは他のいっさいの善を超越した善と言わるべきものなのである。

 これら二つの引用文、一見すると、なんとなく主張がずれているような気がしませんか?
 一つ目の引用文では「われわれが『一なる者』と言う場合も、『善なる者』と言う場合も、同一の本性が意味されているのだと理解されなければならない」といわれ、「一者」と「善」が同一視されています。
 しかし、二つ目の引用文をみると、「それ(一者)は、他のものに善を供給するけれども、それ自身は決して善と呼ばるべきではなく、むしろあるいは他のいっさいの善を超越した善と言わるべきものなのである」といわれて、「一者」と「善」との単純なイコール関係が形成されていません。
 この主張のずれは何を意味しているのでしょうか?
 この問題を解く糸口は「流出」について考察したときに示した、「一者」から「一」が「流出」して「知性」が「一つのもの」になるという関係と、二つ目の引用文に含まれている「万物の原因となるものは、万物のどれでもないことになる」という一節の中に見出すことができます。
 「一者」からの「流出」関係はこれまで何度も言及しているのでここでは省略するとして、問題は「万物の原因となるものは、万物のどれでもないことになる」という主張です。
 いかにも哲学っぽくて取っ付きにくい印象を与える一節ですが、これ、別に、それほど面倒なことではないんです。
 一つの例え話として、われわれがカレーを作るときのことを考えてみましょう。
 カレーを作るには当然のことながら材料が必要ですよね。
 肉、たまねぎ、ジャガイモ、にんじん、その他にも調理器具として、包丁、鍋、ご飯を炊くための電気釜などなど色々必要です。
 しかし、これら一連の材料は、カレーの材料ではありますが、カレーではないですよね。
 ちょっと言い方を変えると、これらの材料はカレーの原因ではありますが、カレーではありません。
 「万物の原因となるものは、万物のどれでもないことになる」という主張はこういう意味です。
 つまり、なんであれこの自然界に存在する「あるもの」は、それぞれ原因を持っているけれども、その原因は、そこから結果として生じる「あるもの」ではないということです。
 一つ目の資料で「一者」と「善」を同一視し、二つ目の資料で「一者」は「善」を超越した「善」であるといわれているのはこういうことです。
 具体的なモデルとして、「一者」から「一」が「流出」して「知性」が「一つのもの」になるという関係を思い出してください。
 この関係において、「一者」は「一」を超越しているものであると同時に「一」の原因でした。
 「善」の場合もこれと同じで、「一者」は「善」を超越しているという意味で「善」ではありませんが、他のものが「善」であることの原因であるという意味で、「善」としか言えないものなんですね。
 先に1-2-3で成熟完全な「一者」から「一」が「流出」してくるということをみましたが、「善」もこれと同じような仕方で「一者」から「流出」し、直近の下層に位置する「知性」に影響を与えて「知性」を「善なるもの」とします。
 ここら辺の議論はプロティノスに特有のもので、冷静に考えれば考えるほど「どうなのかなぁ…」という感じがするんですが、「一者」と「一」の関係を論じたときと同じように、「これがプロティノスの考え方なんだ!!」と思ってプロティノスのレールに乗っかっていくしかないでしょうね。
 さて、以上が「一者」の「善」としての側面です。
 そして、このことと1-2-3で示された関係を考え合わせると、「一者」には「流出」によって「知性」を「一つのもの」とし存在者としての立場を与える働きと、同じく「流出」によって「知性」を「善きもの」にする働きの二つがあると考えることができます。
 こういう言い方をすると、「それじゃあ、一じゃなくて二だろ!!」と思う方もいらっしゃると思います。
 しかし、これ、よくよく見ると、「一つのもの」と「善きもの」という区別は「一者」の段階でなされているのではなく、その下の「知性」の段階でなされているということがわかるでしょう。
 先にあげた引用文に、「万物の原因となるものは、万物のどれでもないことになる」という一節がありました。この主張を徹底させると、確かに「一者」は「一」や「善」の原因ですが、その原因は「一」でも「善」でもないわけですから、原因のレベルでは「一」や「善」という区別は不可能ということになります。
 つまり、「一者」から「流出」しているものは究極的には何ものとも定義できない「何か」なんです。
 そして、この「一者」から「流出」してくる「何か」が「知性」というワンランク下のものに至って、初めて「一つのもの」や「善きもの」という区別が生じてくるんですね。
 この議論、わかりづらいですよね。
 現にプロティノスは「一者」のことを「一者」や「善」と呼んでるわけですから、そのレベルで「一」や「善」という区別は無いといわれても、「よくわからんなぁ…」というのが正直なところだと思います。
 しかし、1-2-2で引用した四つ目の資料で「本当をいえば、一者には合う名前が一つもないのである。しかし何らかの名前で呼ばなければならないとすれば、これを共通に一者というのが適当であろう」という主張がなされていたことを思い出してください。
 結局、プロティノスも最上層のものを「一者」や「善」という名前で呼んでいるんですが、実際には、この最上層のものは「何か」という仕方で定義できるような代物ではないんですね。
 このように、プロティノスの「一者」はなんとも扱いづらい概念ですが、結論として、「一者」とはその下にある「知性」を「一つ」でありかつ「善きもの」にする「何か」であるという考え方をしておけばまず間違いないでしょう。


2-2、プロティノスの思考パターン 〜予備的考察〜
 「一者」に関する考察が一段落したところで、本来であれば、四層構造の第二の層に位置する「知性」に目を向けるところなんですが、ここで一旦、プロティノスに特徴的な思考パターンを明確にしておきましょう。
 思考パターンをみるというやり方は、これまで一度もやってこなかったので、目新しい方法かもしれませんが、プロティノスはこれまでの哲学者と違って議論の進め方や、ごく基本的な部分でのものの考え方に若干の癖があるので、これまで行ってきた「一者」に関する思考をモデルケースにしながら、プロティノスの頭の使い方をおおよそ把握しておくと、ここから先の議論がより理解しやすくなると思います。
 では、そのプロティノスに特徴的な思考パターンとはどのような特徴を持っているのでしょうか?
 その特徴が最も明確にあらわされているのが、2-1で引用した箇所に含まれている「万物の原因となるものは、万物のどれでもないことになる」という一節です。
 この一節には考慮すべき二つの要素が込められています。
 一つ目の要素は、字面にあらわれている意味から直接的に読み取れるもので、一言で言うと、「原因は結果ではない」ということです。
 2-1では具体例としてカレーを挙げましたが、ここではハムと卵を考えてみましょう。
 当然のことながら、ハムと卵でオムレツを作るとき、オムレツ(結果)の原因であるハムと卵はオムレツではありません。至極シンプルなことですが、「原因は結果ではない」とは単にそういうことです。
 二つ目の要素は、この「原因は結果ではない」ということから間接的に読み取れるもので、「それが何の原因であるかは結果の側からしか定義できない」ということです。
 なんとなく小難しい書き方をしていますが、これもちょっと考えれば極々当たり前のことです。
 つまり、ハムと卵という原因がオムレツの原因であるということは、実際にオムレツという結果が出た後でなければ特定できないということです。
 なんとなく、わかったようなわからないようなことを言っていますが、ハムと卵という原因はオムレツではなくハムエッグやハム入りのスクランブルエッグという結果を生む場合もありますよね。
 そして、その場合、ハムと卵はオムレツの原因ではなくハムエッグやスクランブルエッグの原因ということになります。
 それゆえ、原因の部分に位置するハムと卵がいったい何の原因であるのかという点については、結果の側からしか規定できないんですね。
 何を当たり前のことを言っているのかとお思いでしょうが、実はこの極当たり前のことがプロティノスの学説においてはすごく強く働いているんですね。
 プロティノスにおける生成関係を概観したときに、下の層の生成は常に上の層に依存するということを検討しました。
 このことはすなわち、上の層が下の層の原因であるということですが、原因と結果にまつわるプロティノスの考え方では、「原因がこれこれであるから結果がこれこれである」という考え方ができないんです。
 1-2-2で「一者」の概念について検討したときに引用した資料の中に「本当をいえば、一者には合う名前が一つもないのである」という一節が含まれていたことを覚えているでしょうか?
 「一者には合う名前が一つもない」とは、言い換えるならば、「一者は定義のやりようがない」ということですが、定義のやりようがないにもかかわらず、プロティノスは「一者」について「存在を超越している」「善を超越している」「成熟完全である」などなど様々な定義を与えます。
 一方では「定義しようがないもの」といっておきながら他方では様々な定義を与える。
 プロティノスは、「一者」に対して、なぜこのような一見して矛盾していると思われるような態度をとったのでしょうか。
 その原因は、本節で示した「原因と結果」に対するプロティノスの考え方にあります。
 「原因は結果の側からしか規定できない」という考え方にのっとった場合、原因の側だけを見てそれが何であるかを規定しようとしても、それは結果からしか規定できないわけですから、当然、定義不可能なものになります。しかし、結果の側から原因を規定しようと試みればそれは「その結果を生み出すもの」という仕方で、もしくは、「その結果を生むための仕組みを備えているもの」という仕方で定義可能です。
 このように、同じ一つのものであっても、その当のものを「原因」のポジションに配置し、それに対してプロティノス的な原因と結果の考え方でもって定義を行おうとすれば、そこには定義できないものを定義するという矛盾した行為が可能となります。
 そして、それと同時に、プロティノスの場合、世界のどの階層であっても、その者を定義しようとすれば、その定義は常にその層が生み出した結果である一つ下の層の側から行う定義になるということがいえます。
 「一者」について説明したとき、私は常に「一者」を「知性」と対象させる仕方で説明してきました。
 これは、本節で説明したとおり、「一者」を「一者」とだけみて定義しようとしてもそれは不可能であり、常に「一者」が生み出した結果である「知性」の側から定義しなければならないからです。
 より具体的に言うと、「一者」は「知性」が「存在」であり「善」であるからこそ、「存在と善の原因である」という定義ができるのであり、「一者」だけでそれは何であるかを特定しようとしても、それは「合う名前が一つもない」ものですから何ものとも定義できないんですね。
 このように、プロティノスは「原因は結果の側からしか定義できない」という「原因と結果」に関する考え方にのっとって、四層構造の各階層を定義するんです。
 さて、次の2-3では「一者」の次に来る「知性」に対する検討を行いますが、この「知性」も当然のことながら「知性」単独で検討したのでは何ものとも定義できません。
 「知性」はその下の層に位置する「魂」との関連から初めてそれがどのようなものであるのかが明らかになるんですね。
 では、そのことを考慮に入れながら、プロティノスにおける「知性」の概念を検討していきましょう。

以下、製作中(2008.5.7)

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