プラトン(B.C.427-347)
いやぁ〜、来ましたですよ。プラトン…
ソクラテスの項目でも冒頭でチョロッと書いたんですが、広く世間一般で最も有名な哲学者は間違いなくソクラテスでしょう。
しかし、大学の哲学科という狭い、狭ぁ〜い、狭ぁァ〜〜い領域ではソクラテスの弟子であるこのプラトンの方が哲学史上最大の巨人的な扱いをされており、ソクラテス以上の大メジャーとして君臨しています。
で、まぁ、プラトンなんですが、この人は本当に書くこと(このコンテンツを見てくださっている皆さんにとっては「読むこと」)が多そうで、これから書き始めようという今の段階ですでに気分が若干重くなりつつあります。
「じゃあ、やめればいいじゃん…」ていう冷たい突き放し方もありますけど、そこは、ねぇ、やっぱり、こう、なんていうんですか…。大事を行う前のウジウジ感的なものもご理解いただきたいわけです。
でも、まぁ、ねぇ、こうやってても始まりませんから、気を取り直して、例のごとく、その生涯をたどることからプラトンに関する言及をはじめて行きたいと思います。
生涯
1、幼年期〜第一回シケリア旅行
まずはともかく何も言わずに以下の家系図を見て下さい。
この家系図はディオゲネス・ラエルティオスという人物が残している証言を基に私が作ったものですが、突然こんなものをあげてなにが言いたいかというと、このプラトンという人物、筋金入りの超名門、スーパーエリート一家の出だということです。
母親の家系には当時の有名人がズラッと並んでいますし(高校時代の世界史の教科書を見てみればここに名前のあがっている人たちはごろごろ出てくるはずです)、父方にしろ母方にしろ、おおもとをたどれば海神ポセイドンに行き着くというとんでもない権威付けがなされています。
前に、ソクラテスの項目で、ソクラテスの父親であるソプロニスコスが、当時のアテナイである程度有力な市民だったという話をしましたが、このプラトンの家系はソクラテスの家みたいな「ちょっとした小金持ち」程度とは格が違います。
現代の日本で言ったらどんな感じなんでしょうね?親族に有力な政治家や著名人がたくさんいて、経済的にも余裕があってみたいな家柄は…、あっ、あそこなんかどうでしょう、あの、ほら、「石原家」!!
昭和の大スター石原裕次郎がいて、裕次郎の兄の石原慎太郎は東京都知事、慎太郎の長男である伸晃はいくつもの大臣を歴任する政治家、次男の良純はテレビで活躍する有名人、三男の宏高も長男と同様に政治家となり、四男の延啓は画家、さらに、親戚をたどれば元内閣総理大臣小泉純一郎までその名を連ねるというものすごい家柄です。
恐らく、当時のアテナイにおいてプラトンの家系は現代日本でいうところの「石原家」と同等か、もしくはそれすらもはるかに凌駕するほどの名門であったと推測されます。
そんな超名門一家に、B.C.427年、プラトンは生まれます。
当時のアテナイはソクラテスも従軍したペロポネソス戦争(アテナイが中心となるデロス同盟とスパルタが中心となるペロポネソス同盟が衝突した戦争です)の真っ只中でした。B.C.431年に始まったとされるこの戦争はプラトンが産まれた後もしばらく続き、B.C.404年にデロス同盟側が降伏することで終結します。
つまり、アテナイはプラトンが生まれてすぐに敗戦国になってしまうんですね。
戦勝国のスパルタ側はアテナイの政治に介入し、アテナイの民主制を排除します。そして、その後9ヶ月間にわたってスパルタ側が先導する寡頭制(いわゆる三十人政権というやつです)による支配が続きます。この政権は比較的短い期間でアニュトスら改革派によって打倒されることになるんですが、スパルタに実質的に支配されていた当時に行われた恐怖政治は、まだ幼かったプラトンにも強い印象を与えたと推測されます。
幼い頃のプラトンについては全く判っていないので推測の域を出ませんが、やっぱり、戦争っていう大きなものに巻き込まれている以上は、そこから何の影響も受けていないと考えるのはちょっと不自然ですよね。
実際、プラトンは後々、『国家』という著作をあらわし、そのなかで国家の理想的なあり方について自らの見解を述べていますが、そういったことを書く根本的な体験として、幼い頃のプラトンは、単純に戦争がどうこうということを超えて、戦争によってもたらされた政治的な動乱やその混乱によって生じた社会的な不安定感みたいな、「空気的な何か」も敏感に察知していたんだと思います。
その後、プラトンは名門の子息にふさわしい一流の教育を受けて成長していったようです。
実際にプラトンがどのような教育を受けたのかは定かではありませんが、著作として残されている対話篇を見るかぎり、ああいった著作は単なる哲学バカには書けないでしょうし、『国家』の第十巻で展開されている芸術に関する議論もそれ相応の芸術的素養がないと書けないと思います。
ただ、哲学に本腰を入れてからは、恐らく、それまでの学問姿勢を大きく哲学の方向に転換したと考えられますから、芸術やら幾何学やらそういった素養を身につけるとしたら、やはり、幼年期から青年期にかけての教育と考えるのが妥当でしょう。
青年時代のプラトンは詩人を目指していたとも政治家を目指していたともいわれています(もちろん、両方目指していたのかもしれません)が、どちらなのかは定かではありません。
個人的には、政治家を目指すベクトルの方が強かったんじゃないかという気がするんですが、詩人を目指していたという主張を論駁するような根拠も特に持ってないので、まぁ、とにかく、哲学とは別の方向に進んでいたということでいいと思います。
さて、一流の教育を受けながらすくすくと成長したプラトンは、18歳〜20歳の頃(はっきりした年齢がわかってないんですよね…)、アテナイの町で、幸か不幸かソクラテスと出会ってしまいます。
なんでも、プラトンが自分の書いた悲劇で賞を貰うことになったらしく、ある日、その賞を貰うためにアテナイ市内の劇場に向かっていたらしいんですね。すると、その途中、ソクラテスが例のように街中で駄弁っていました。プラトンは何気なくその話に耳を傾けたんですが、そこでなにを聞いたのかわかりませんが、ものすごいショックを受けて、すぐさまソクラテスの弟子になることを志願したらしいんです。
名門出身で、頭もよくて、自分の書いた悲劇で賞がもらえて、まさに順風満帆人生真っ只中でなにをバカなことをやっているのかと思いますが、実際にこの出会いを契機として、プラトンはソクラテスに弟子入りして哲学の道に進んでいくことになります。
一説によると、このとき、自分がそれまで書き溜めた詩を全部燃やしたなんてことがいわれていますが、まぁ、これが事実かどうかはさておいて、プラトンがそれまで歩んできた方向性をここで大きく転換したことは事実です。
プラトンがソクラテスと出会ったとき両者の年齢はプラトンが18歳〜20歳、ソクラテスが62歳ぐらいだったとされています。
ソクラテスはB.C.399年に70歳で刑死しますから、プラトンが実質的にソクラテスと交流を持ったのは8年ほど、時代考証のずれを考えたとしてもせいぜい10年ほどだったと考えられます。
もともとプラトンは、ソクラテス以前の項目で紹介した人々に代表される当時の自然学者たちの著作には親しんでいたらしいのですが、ソクラテスと接近することによって、自然学者たちとはまた一味違った主張に触れることになります。
さて、これまでのところ、それほど大きな波乱も無く坦々と進んできたように見えるプラトンの人生ですが、B.C.399年、師匠であるソクラテスが刑死したことを受けて、一気に波乱の人生が幕を開けます。
B.C.401年ごろ、プラトンはアテナイからみて西の方にあるメガラという土地に旅行をするんですが、この旅行は単にプラプラと遊びにいったとか、そういうのどかなものではなく、ちょっとした裏があったらしいんです。
ソクラテスの項目で、ソクラテスが訴えられて死刑になった背景には政治的な問題、具体的には、ソクラテスがアニュトスらによって打倒された三十人政権の中心人物とかかわっていたという事実があるということを示しましたが、プラトンのメガラ旅行にもこれと同様の政治的背景があったらしいです。
つまり、ソクラテスが三十人政権の中心人物とかかわっていたということから、その弟子であるプラトンにも「もしや…、あいつも……」という疑いの目が向けられたらしいんですね。
当時のプラトンのところに、実際に何かそういった圧力がかかっていたのかどうかは定かではありませんが、とにかく、プラトンはそういった疑いの目が自分に向けられていることを察知して国外に身を隠したんです。
「国外に身を隠した」なんていうと聞こえがいいですけど、要は、「ほとぼりが冷めるまで高飛びを…」みたいなことです。
メガラでのプラトンは、プラトンと同じくソクラテスの弟子でありメガラ派と呼ばれる学派の創始者であるエウクレイデス(幾何学のエウクレイデスとは別人)のもとで過ごしていたそうです。
プラトンがメガラにどれくらいの期間滞在していたのかは定かではありませんが、この土地に数年滞在した後、プラトンは再び旅に出て、今度はアフリカにあるギリシアの植民都市キュレネに向かいます。
キュレネでは数学者のテオドロスと交流を持ったらしいですが、この土地に数年滞在した後、今度はピュタゴラス派のピロラオスという人物を頼って南イタリアへ向かいます。
この「高飛び旅行」は合計で10年ほど続いたらしいですが、この旅行の最中、プラトンは「前期対話篇」という呼び方で今日まで伝わっている対話篇のうち何篇かを執筆します。
「どの対話篇を書いたんだ?」といわれると困りますが、あくまでも私個人の意見としては、このとき書かれた対話篇は、プラトンにとって直近の出来事であったソクラテスの裁判から刑死までを扱ったもの(『ソクラテスの弁明』とか『クリトン』とかね…)だったのではないかと思います。
さて、ソクラテスの刑死以来、高飛び旅行と執筆にそのほとんどを費やすことになったプラトンですが、B.C.387年、プラトンが40歳になった年、再び大きな転機が訪れます。
このときプラトンが南イタリアに滞在していたのか、それとも祖国であるアテナイに戻っていたのか定かではありませんが、とにかく、ある日、プラトンのもとに、シケリアにあるシュラクサイ(現在で言うところのシチリアですね。アルキメデスの出身地でもあります。)の僭主ディオニュシオス一世から、「自国にお招きしたい」という趣旨の知らせが届きます。
ディオニュシオスがプラトンを招集した理由は定かではありませんが、プラトンは当時すでにある程度の名声をえていたと考えられますから、ディオニュシオスもその名声を聞いて自国に呼び寄せたのかもしれません。
プラトンはディオニュシオス一世の申し出を受け入れてシケリアへ向かいます。
このシケリアという土地はこれ以後のプラトンの人生で何度も登場する重要な土地になるのですが、この第一回シケリア旅行でプラトンはディオンという青年と出会います。
このディオンという人物はディオニュシオス一世の甥で、当時、20歳ぐらいだったと推測されます。
ディオンはプラトンとの交流でその学識に感動してその後、生涯にわたってプラトンの弟子になります。しかし、このディオンをめぐってプラトンの人生には波乱が巻く起こるんですね。
プラトンがシケリアに招かれた当時、当のディオニュシオス一世は「僭主」というポジションの影響もあって、かなり猜疑心の強い人物になっていたそうです。
考えてみれば当然ですよね。古代ギリシアの貴族制を採るポリスにあって、僭主といえば市民から獲得した支持を背景に絶対的な権力を振るった人たちですから、当然、暗殺の恐怖も常に付きまとうわけです。
ある日、ディオンは、猜疑心に取り付かれているディオニュシオス一世にプラトンを引き合わせます。恐らく、ディオンからしてみたら、プラトンと接してその学説に触れればディオニュシオスの猜疑心に硬直した心にも一筋の光明が差し込むのではないかという思惑があったと思うんですが、このディオニュシオス一世との謁見でプラトンは「独裁者は普通の人よりも勇気がない」などと発言してディオニュシオスの怒りをかってしまいます。
エレアのゼノンの生涯をみたときにもこれと同じようなことがありましたが、哲学者という人種は言い意味でも悪い意味でも権力に反発する傾向がるようです。
ただ、仮に、「権力に反発するものが哲学者である」という定義をするならば、妙に学閥的な雰囲気を漂わせている昨今の大学人としての哲学者はいったい何ものなんでしょうか?
さて、ディオニュシオスの怒りをかってしまったプラトンは、危険を察したディオンの勧めでアテナイに帰ります。ところが、この帰郷の途中で、ディオニュシオスが手を回してプラトンを奴隷として売り払ってしまいます。
この当時、ギリシアでは奴隷制がありましたから人身売買は普通にあったんですね。
そんな社会背景もあって、プラトンはディオニュシオスによって奴隷として売られてしまいます。
プラトンを最初に買ったのはスパルタの人物だったらしいのですが、その後、キュレネのアンリニケという人物が奴隷の中にいたプラトンに気づいて、「えっ!!!なんでプラトンが奴隷に!!!?????????」という感想とともに再び買い戻したので、プラトンはアテナイに帰ることができたそうです。
プラトンのシケリア旅行はこのようにとんでもない終わり方をしますが、この後、プラトンは生涯で二度もシケリアを訪れることになります。
2、アカデメイア
さて、シケリアで散々な目にあいながらもなんとかアテナイに戻ったプラトンは、このシケリア旅行と同年のB.C.387年、アテナイの郊外に有名なアカデメイアという学園を開きます。
当時、アテナイではプラトンに先立ってイソクラテスという人物が学校を開いていました。
このイソクラテスという人物は弁論と修辞の術に優れており、アテナイで大きなお祭りがあったときに今日まで残る大演説を何度か行った人物で、その技術を学校をつくって教えていました。
今日、古代ギリシアの学校といえば圧倒的にアカデメイアの名前が知られていますが、当時はプラトンのアカデメイアおよびそこに通う人々はどちらかというとマイナーな存在で、イソクラテスの学校の方がメジャーだったようです。
しかし、アカデメイアは他の学校と比べてそこに集まった人々が優秀だったこともあって、B.C.387年に設立されて以来、A.D.529年にユスティニアヌス帝によって閉鎖されるまで900年にわたって存続することになります。
アカデメイアの入り口には「幾何学のわからないものは入ってはならない」という一節が掲げられてあったとされていますが、この伝承が象徴しているように、アカデメイアでは現代の大学で教えられているようないわゆる「哲学」に関することだけを教えていたわけではありませんでした。
むしろ、今日的な分類に従えば、数学や自然学に関するものも教えられていたようです。
ていうか、そもそも、「哲学」という言葉が狭い意味で用いられ始めたのは恐らくアリストテレス以後(この人が「第一哲学」なんていう言い方をしたあたりから哲学の歴史がおかしな方向に…)であって、哲学が産まれた当初はその語源であるphilo-sophia(愛知)が示すように、特に学問的な分野が限定されていたわけではなく知的活動全般に対して「哲学」という呼び方がされていたんですね。
つまり、アカデメイア内部では限定的な意味での「哲学」ではなく、本来の意味での「哲学」が実践されていたと考えることができると思います。
アカデメイアを設立したB.C.387年からおよそ20年ほどの間、プラトンは初代学頭としてアカデメイアの中で静かな時間を過ごします。学校自体も、イソクラテスの修辞学校ほどの規模にはならなかったものの、優秀な学生が多数集まった耐え、教育機関として高い評価を得るようになります。
ソクラテスが死んでからというもの、プラトンの人生は荒れ模様でしたが、活動の中心をアカデメイアにおいていたこの20年間はプラトンの人生にとって束の間の平穏な時代だったと考えることができるでしょう。
3、二度目のシケリア旅行
B.C.367年頃、シケリアの地で僭主として絶対的な権力を振るっていたディオニュシオス一世がなくなります。そして、同年、アテナイのアカデメイアで静かな時間を過ごしていたプラトンのもとに、ディオンから、再びシケリアに出向いてくれるよう要請する知らせが届きます。
当時のシケリアは先代の僭主ディオニュシオス一世のもとで発展し、アテナイに匹敵する強大な国力を持つようになっていました。ディオニュシオス一世はきわめて独裁的なやり方で国を引っ張っていたわけですが、結果的にみると、彼の代になって国力は大きく発展したわけですから、そのやり方は賞賛されるべきではないにしろ、純粋に国のトップとしての能力を考えた場合、ディオニュシオス一世は傑出した能力を持った人物であったと考えられます。
つまり、シケリア(より厳密に言えばシュラクサイ)は、ディオニュシオス一世という有能な人物の能力に依存する仕方で発展してきたわけですが、B.C.367年のある日(一説によると二月ごろだったのではないかといわれています)、このディオニュシオス一世がフッと死んでしまうんです。
僭主制という絶対的な権力による支配のやり方を体現し、強大な国力を持つ国を残したまんまの状態でトップがフッと死んでしまったら、その際に生じる状況はなんとなく想像できますよね。
ポッカリ空いた僭主のポジションを狙った権力闘争、シケリアでもこういった醜い争いが起こっていたんですね。
ただもちろん、国防という観点からも、そうそういつまでも王位を空けっぱなしにしておくわけにもいきません。ですから、ディオニュシオス一世亡き後、王位は一先ず息子であるディオニュシオス二世に引き継がれました。
しかし、この二代目はどうも国王としてピリッとしなかったらしく、国王の叔父であるディオンは、ディオニュシオス二世だけでなくこんないまいち締まらない国王を持ってしまったシケリアの未来に不安を抱きます。
そこで、ディオンは20年前に偉大な哲学者としてシケリアに招かれ、その際に自分に大きな影響を与えたプラトンを再度招集し、この国王を教育してもらおうと考えたんですね。
プラトンは20年前にシケリアを訪れたときからこのディオンという人物をきわめて高く評価していました。
しかし、以前のシケリア訪問で痛い目にあっているプラトンは愛弟子であるディオンからの要請を受けても、シケリアに行くべきかどうか迷っていました。
ですが、プラトンは、ディオンからの手紙の中に以下のような内容のことが書いてあったということを有名な第七書簡の中に記し、結果としてシケリアへと出向いていくことになります。
「だから、同一人が哲学者になると同時に大国家の支配者にもなるという願いが、完全にかなえられるときが、もしいつかあるとすれば、いまこそそのときであろう」
幼い頃にペロポネソス戦争による政治的混乱を体験し、若かった頃には政治家を目指し、そして、当時すでに『国家』という著作を書き終えて「哲人王による統治」という国家のあるべき理想形が頭の中に確立していた、そんなプラトンにとって、ディオンからの手紙に書かれていたこのような内容は、自らの理想国を現実世界で実現するまたとないチャンスに思えたのだろうと思います。
そんなわけで、プラトンはある意味大いなる理想に燃えてシケリアを目指したんですが、到着したプラトンを待ち受けていたのは、激しい権力闘争という現実でした。
最初のうちこそ、プラトンはシケリアの人々から歓迎され、国王であるディオニュシオス二世をはじめプラトンの教えを聞いた人々も哲学やら幾何学やらに熱中していたのですが、しだいに、プラトンの周辺では、プラトン、ディオン、ディオニュシオス二世という三者の結束をいぶかる雰囲気が生じてきます。
こういった雰囲気をかもし出している人々は、先ず、ディオンに目をつけます。
ディオンは先代であるディオニュシオス一世から見れば義弟、そのあとを継いだディオニュシオス二世から見れば叔父に当たり、当時のシケリアではすでにかなりの権力者でした。しかし、混乱に乗じて自分がのし上がろうと考えている人々にとっては、ディオンがプラトンを媒介することでさらにディオニュシオス二世と近しくなり、最終的にその権力が今以上に強大になることは脅威以外の何ものでもありません。
そこで、野心に燃える人々はディオンを権力の座から追い落とすべく、ディオニュシオス二世にディオンに関するよからぬ情報をあること無いこと適当に、次から次へとドンドン吹き込みました。
最初のうちはディオニュシオス二世も聞き流していたのですが、さすがに何度もいわれると疑心暗鬼になってきます。
そして最終的に、ディオンは「僭主の地位を奪おうとしている」という濡れ衣を着せられて追放されてしまいます。
プラトンは愛弟子であるディオンを最後までかばっていたのですが、ディオンが追放された後、この「かばっていた」という事実を逆手に取られて、プラトンまでもあらぬ疑いをかけられて幽閉されてしまいます。
プラトンは、幽閉されながらも、自らの理想国のあり方を実現させるべく、ディオニュシオス二世の説得を試みて色々と手を尽くしますが、ディオンという最大の理解者を失って色々と手をこまねいているうちに、翌年のB.C.366年、シケリアと南イタリアのカルタゴとの間で戦争が勃発します。
そこで、プラトンも理想国実現の夢が果たされないまま失意のうちにシケリアを後にしてアテナイに戻ります。
結局、プラトンの二度目のシケリア滞在は一年にも満たない短い期間で終わりになります。一回目は奴隷として売られるし、二回目は幽閉されるし、プラトンにとってシケリアは完全に鬼門状態ですが、それでも懲りずに出かけていくのは、ディオンの存在と理想国家実現への思いが強かったからだと考えられます。
ところで、シケリアから追放されてしまったディオンですが、プラトンがアテナイに戻ってからはアカデメイアに出入りするようになり、そこで仲間とともに学びながら哲学の道を歩んでいくことになりました。
4、三度目のシケリア旅行〜晩年
再び散々な目にあってシケリアからアテナイに戻ってきたプラトンですが、アカデメイアではあるとんでもない人物がプラトンの帰りを待っていました。
後に「万学の祖」と呼ばれ、フジテレビ系『トリビアの泉』のオープニングで使われた「全ての人間は本性的に知ることを欲する」という一節を述べたことでも知られるアリストテレスその人です。
アリストテレスはB.C.384年ごろにスタゲイラというド田舎で生まれ、17歳ごろにアテナイにやってきてアカデメイアの門を叩いたといわれてますから、プラトンが二度目のシケリア旅行に旅立ったのとちょうど入れ違いになるようにしてアカデメイアにやってきたのだと思われます。
哲学史の中でもプラトンと肩を並べるほどの大メジャーとして君臨しているアリストテレスですが、当時からその能力はずば抜けていたらしく、プラトンからもアカデメイアの学生からも極めて高い評価を得ていたそうです。後々、アリストテレスはアカデメイアの生徒から教える側に転進し、アカデメイアの中心的存在として働くことになるのですが、失意のどん底で帰郷したプラトンも新しく超優秀な弟子が増えたことには喜びを感じたと思います(なにを教えても、それを素直にそのまま受け入れるのではなく、自分なりにひん曲げて理解した後に、自分なりの仕方で発展させてしまうので苦々しく思った可能性もありますが…)。
後にアカデメイアの二代目学頭となるスペウシッポスやアリストテレスのような優秀な弟子達に囲まれて、帰郷してから五年ほどプラトンはアカデメイアで以前のような静かな時間を過ごしていました。
しかし、二度目のシケリア旅行からアテナイへと戻ってくる際に、プラトンとディオニュシオス二世との間には、シケリアとカルタゴとの戦争が終わりディオニュシオス二世の周囲が落ち着いたら、再びプラトンをシケリアに呼び寄せるという約束があったようです。
そして、プラトンがアテナイに戻ってから五年後のB.C.361年、プラトンは再びシケリアへと赴くことになります。
ただ、いくら約束があったとはいえ、さすがに二回もとんでもないめにあっていると、プラトンの方もシケリア行きを渋ります。
そのため、B.C.366からB.C.361の五年間の間に、ディオニュシオス二世は何度もプラトンのもとに手紙を送って、自分やシケリアの人々がどれほどプラトンという人材を欲しているかを伝えたそうです。
その手紙の中にはディオニュシオス二世自身の哲学に対する情熱だけでなく、「もしも、プラトンが自分の要請に答えてくれるのであればディオンの件は水に流すけども、もしも答えてくれなかった場合には…」といった脅迫めいたものも書かれていたようです。
ディオニュシオス二世の哲学に対する情熱のなかに哲人王の可能性を見て取ると同時に、ディオンの立場を考慮したプラトンは、B.C.361年、重い腰を上げて三度目のシケリア旅行に旅立ちます。
このとき、プラトンはおよそ66歳ごろだったと推測されます。
シケリアについたとき、ディオニュシオス二世はプラトンを大喜びでむかえたそうです。
その様子を見て、プラトンも自らの理想国の実現可能性を感じ取り、最初のうちは喜んでいましたが、実際に哲学を教え始めるとその喜びは失望に変わります。
手紙ではさんざん哲学に対する情熱を訴えていたディオニュシオス二世ですが、どうも、実際にはそうでもなかったみたいなんですね。
プラトンはこれまで自分が培ってきた哲学の全てを伝えようとしたらしいのですが、なんか、いくら教えても、当のディオニュシオス二世の方は、どこかシレーッとして「ふ〜ん…」みたいな感じだったらしいです。
そんな様子を見て、プラトンの方もだんだん熱が冷めてきます。
そして、最終的に、「哲人王による統治」という自分の理想を実現することは不可能なのだと悟ったプラトンは、「もう、帰る!!」とばかりに一年も経たないうちにアテナイに帰ってしまいます。
アテナイに帰ったプラトンは再びアカデメイアで静かな生活を送ります。
このとき、プラトンは65歳。
プラトンは80歳で亡くなりますから、ここから先の時期は一般に晩年といわれるにふさわしい時代だったといえるでしょう。
シケリアから帰ってきて死ぬまでの15年間の間に取り立てて目立った活動はありません。
しいて言えば、B.C.357年頃に、愛弟子であるディオンがシケリアのシュラクサイで革命に成功したという報告を聞き、そして、そのすぐ後に、そのディオンが暗殺されたということを知らされたということぐらいでしょう。
この一連の出来事に対してプラトンもそれなりに心を痛めたと考えられますが、再びシケリアに赴くとかそういった具体的な行動を起こすことはありませんでした。
ディオンの悲報を聞いたのはB.C.353年頃、プラトンが74歳頃のことだったと推測されます。
プラトンとしてももう年ですし、死ぬまでの時間を考えても、プラトンの中ですでに死の予感に近いものがあったのかもしれません。
しかし、ディオンの悲報を聞いた翌年のB.C.352年、プラトンはその冒頭に
「ディオンの身内ならびに同士の諸君にご清福のほどを プラトン」
と記された有名な『第七書簡』を書きます。
この書簡にはこのコンテンツで概観してきた3度のシケリア旅行や、それら一連の旅行にいたるいきさつなどがつぶさに記されており、ある意味、プラトンの自叙伝のような性格を持つ手紙ですが、ディオンの死に際して物理的な行動を起こさなかったプラトンにとって、この手紙を書くということにこそ、ディオンに対する弔いの意味が込められていたのかもしれません。
『第七書簡』を記してから5年後のB.C.347年、プラトンは80歳の生涯を閉じます。
プラトンの死に際については、なぜか一切の記録が残っていません。
記録が残っていないことの理由は定かではありませんが、恐らく、ソクラテスのように劇的ではあるけれどもある意味で不幸な死に方をしたのではなく、ごくごく普通に、言い換えるならば、静かで幸せな死を迎えたからではないかと思います。
さて、以上がプラトンの生涯です。
プラトンというとしばしばきわめて理想主義的な人物として語られることがあります。
しかし、プラトンの生涯を振り返ってみると、この「理想主義」という言葉は、現実を軽視して「絵に描いた餅」だけを語るという意味ではなく、不条理に満ちている現実を自分の思い描く理想的あり方に近づけていく絶え間ない努力という意味であるということがわかります。
もちろん、プラトンの三回にわたるシケリア旅行に関しては、プラトンを解釈する個々人によって多様な解釈が存在すると思います。
ただ、一つの解釈として、このコンテンツで示しているように、プラトンが何度となくシケリアにわたったのは自らが思い描く理想国の実現可能性をシケリアに見出したからだと解釈することは十分に可能だと思いますし、そこに、プラトンなりの哲学的生のあり方を見出すことも可能だと思います。
学説
これまでプラトンの生涯について概観してきましたが、ここからは、プラトンの学説について概観していこうと思います。
ただねぇ…、これまた書くことが多そうで…
ていうか、「生涯」について書いた段階でデータの量としてはソクラテスのコンテンツ全体と同じぐらいの量になってるんですよね。
あんまり量が増えすぎると、書くほうもつらいですけど読んでいただく方にとってもしんどいですよね。
もっとスッキリまとめられればいいんでしょうけどね。
そっち系の能力がなくて…、申し訳ない話です。
さて、駄弁りはこの辺にして、いい加減、書き始めましょうかね…
千里の道も一歩から。がんばりましょうかね……
1、前期対話篇とその中に見られる諸概念
プラトンの学説に関しては色々と書くことが多そうなので、どういう風に書いていけばうまいことまとまるのかちょっと悩んだのですが、このコンテンツではとりあえず、対話篇を前期、中期、後期に分類して、それらの対話篇群の中に出てくるものの中からメインとなるようなものを拾い出して概観していくことにします。
この手のやり方には色々と御批判もあるかと思いますが、何の権威もない中年予備軍がやっていることなので許してやってください…
さて、それでは、前期対話篇から取り掛かっていくとこにしましょう。
一般に前期対話篇に分類されている著作は以下にあげる14作です(『プラトン全集別巻』を参照)。
『テアゲス』 ―知恵について―
『リュシス』 ―友愛について―
『カルミデス』 ―克己節制(思慮の健全さ)について―
『ラケス』 ―勇気について―
『ソクラテスの弁明』
『クリトン』 ―行動はいかにあるべきかについて―
『プロタゴラス』 ―ソフィストたち―
『エウテュデモス』 ―争論家―
『イオン』 ―『イリアス』について―
『メネクセノス』 ―戦死者のための追悼演説―
『エウテュプロン』 ―敬虔について―
『ヒッピアス(大)』 ―美について―
『クラテュロス』
『ゴルギアス』 ―弁論術について―
『メノン』 ―徳について―
これらがかかれた順番を特定することは現段階では不可能とされているようですが、順番はさておいて、単純に成立時期という点だけで考えれば、ここにあげた14作が一般に「前期」と呼ばれるソクラテスの刑死から一回目のシケリア旅行までの期間に書かれたと考えて間違いないようです(たまに『メノン』が中期のド頭に位置づけられている分類をみることもあります)。
これら前期対話篇全体に共通する特徴として、それらが皆「未完」の状態で終わっているということがあげられます。
実際に呼んでもらうのが一番早いのですが、これらの対話篇はどれもみな、話がいいところまで来たときに、ソクラテスの対話相手が「ちょっと用事が…」みたいな感じでフェードアウトしていったり、反対にソクラテスの方が「ちょっといくところがあって…」という具合に対話の場からいなくなったりして、各々の対話篇が扱う主題について、明確な結論が提示されることがありません。
また、中期や後期の著作に比べて、主人公(?)として登場するソクラテスが圧倒的に生き生きしていることも特徴の一つです。
とりわけ、後期対話篇が顕著なんですが、作品の執筆時期が後になればなるほど学術的な色が強くなってきて、それと同時に「文学」の色が失われ、より「哲学」の雰囲気が強くなるのですが、前期の段階ではまだそれほど「哲学」の色が強調されておらず、哲学書というよりはちょっとした小説を読んでいるような感覚で読みすすめることができます。
おそらく、プラトン自身が政治や詩作から哲学に転向してまだ間もない時期に書かれたからというのが大きな理由だと思うんですが、この「哲学臭さの無さ」というのも前期対話篇の大きな特徴の一つだと思います。
さて、前期対話篇の特徴を紹介するのはこれぐらいにして、ここからが本題です。
これら前期対話篇ではどのような概念が問題とされているのでしょうか?
各対話篇のあとに書いてある部分に着目してもらいたいのですが、このハイフンで囲まれているのが、それぞれの対話篇で主題として扱われているテーマです。
ただ、さっきも書いたように、前期対話篇ではそれぞれのテーマについて明確な結論が出されていません。
ですから、各対話篇のテーマごとに、「プラトンにおいて正義とはどのようなものであったか?」とか「徳とは何であったか?」みたいな問いの立て方をして、それにいちいち応答していくという形式をとることはできません。
もちろん、一つのやり方として、一つ一つの対話篇を俎上に載せて、「この対話篇において、プラトンはこれこれについてどのように考えていたのか?」という問いを立てることは可能です。
ですが、今の私にそんなことをするだけの実力はありません。
ですから、ここでは、各対話篇の主題について言及するのではなく、対話篇の中で使われているある程度確立されていると考えられる概念についてのみ言及していきたいと思います。
1-1、新しい方向性
「ある程度確立されていると考えられる概念についてのみ言及していきたいと思います」なんてことをいっておいて、いきなりこういったことをするのは反則だと思うんですが、「ある程度確立されている概念」に向かう前に、この1-1では、対話のテーマに具体的な結論を出さない諸々の対話篇を参照しながら、プラトンが各対話篇ごとのテーマをめぐってどういった方向に進もうとしていたのかを検討していきたいと思います。
表現が抽象的でわかりにくいかもしれませんが、まぁ、お付き合いください。
早速ですが、以下にあげる四つの引用文を見て下さい。
『エウテュプロン』5c-d
ソクラテス(前半省略):それでは、さあ、ゼウスにかけて、たったいま明瞭に知っていると君が断言したことを、ぼくに言ってくれたまえ。敬神とは、また、不敬神とは、殺人が問題であれその他の事柄が問題であれ、どのようなものであると君は主張するのかね?それとも、敬虔はあらゆる行為においてそれ自身と同一ではないのかね?また他方、不敬虔は、いっさいの敬虔と反対であるけれども、それ自身とは同じ性格であり、いやしくも不敬虔であるかぎりのものはすべて、その不敬虔という点において、ある単一の相を持っているのではないかね?
エウテュプロン:それはもう完全にそうでしょう、ソクラテス。
ソクラテス:さあそれでは言ってくれたまえ、敬虔とは何であり、また不敬虔とは何であると君は主張するのかね。
『カルミデス』159a
「それなら、それがきみのうちに内在しているのかいないのか、その見当をつけるために、説明してくれたまえ」とぼくは言った。「きみの思惑では、克己節制(思慮の健全さ)とは何であると主張するのか、を」
『ラケス』190b-c
ソクラテス:ところでラケス、いまのばあいも、このお二人は、「どのようにすれば、徳が息子さんたちの魂に生じて、魂をまえよりもよきものにすることになるだろうか」ということの相談に、われわれをお呼びになっているのではありませんか。
ラケス:たしかに。
ソクラテス:それでは、「徳とはいったい何であるか」を知っていることが、まずわれわれにとって必要なのではありませんか。もし、徳とはいったいなんであるか、ということさえも、われわれがぜんぜん知らないようなばあいには、それをもっともみごとに獲得する方法について、およそ人の助言者になることなど、どうしてできるでしょうか。
〜中略〜
ソクラテス:さてそれでは、いいですか、われわれは、すぐさま徳の全体についてしらべるのではなくて――そうなるとかなり大仕事になるでしょうからね――、まず或る一部分について、われわれがそれを十分に知っているかどうか、見てみることにしましょう。そのようにしたほうが、おそらくわれわれは、らくにしらべられるでしょう。
〜中略〜
ソクラテス:では、ラケス、「勇気とはいったい何であるか」をまず言ってみることにしましょう。それからそのあとで、「どのようにすれば、それが青年たちのところに、およそいつも従事することがらや学びごとによって生じることの可能なかぎり、生じるであろうか」ということも、われわれはしらべることになるでしょう。では、私のいま言っている「勇気とは何であるか」ということを、言ってみてください。
『ヒッピアス(大)』286c-e
ソクラテス:ええもう、それはそういうことになりましょう、神のみこころがそこにあるなら、ヒッピアス。でもどうか、いまはそのことに関するちょっとした質問に答えてくれませんか。ちょうど折よくわたしに思い出させてくださったことでもありますし。実は最近のことなのですが、ある人がですね、あなた、わたしがある議論において、あるものを醜いとして非難し、あるものを美しいとして賞賛していたら、何かこんなふうな調子で、きわめてぶしつけに質問をしてきて、わたしを行詰りにおとしいれたのです。「ねぇ、君は」とその男は言うのでした、「ソクラテス、どういうものが美しく、どういうものが醜いかを、いったいどうして知っているのかね?というのは、さあ、<美>とは何か、君は言うことができるかね?」と。そしてわたしは自分の至らなさのために行詰ってしまい、彼に適切な返答をすることができなかった。それでその話合いから立ち去って行きながら、わたしは自分自身に腹をたて、われとわが身を責め、そしてあなたがた知者の誰かに今度出会ったなら、聴き、学び、練習をつみ、そのうえで改めて捲土重来、その質問した男のところに論議をたたかわすべくとってかえそうと、こう肝に銘じたのです。そこでいまも言ったように、あなたはちょうどいま折りよくここに来てくださったことですし、またもや反駁されてふたたび笑いものにされることがないように、どうかわたしに<美>そのものとは何なのか、満足のいくように教えてください、また、答えるという形でできるだけ正確にわたしに言ってくださるようつとめてください。というのはあなたなら確実に知っておられるでしょうし、またおそらくそれは、あなたの心得ておられる該博な学問知識のうちの、ほんの些細な部分にすぎないでしょうから。
さて、ここに挙げた四つの引用文中にはプラトンがこれから進もうとしている探究の方向性が示されているのですが、これらの文章の中のどこにそういった方向性が示されているのでしょうか?
引用文をさらに濃縮してみましょう。
注目して欲しいのは以下の四箇所、すなわち、『エウテュプロン』では「敬虔とは何であり、また不敬虔とは何であると君は主張するのかね」の部分、『カルミデス』では「克己節制(思慮の健全さ)とは何であると主張するのか」の部分、『ラケス』では「徳とはいったい何であるか」と「勇気とはいったい何であるか」の部分、そして最後に『ヒッピアス(大)』では「<美>そのものとは何なのか、満足のいくように教えてください」の部分です。
これらの箇所に共通なのは「何であるか?」という形式の問いです。
そして、この「何であるか?」という問いこそがプラトンの示した新たな探究の方向性なんです。
「いや、ちょっと待て!!ソクラテス以前の人々も『何であるか?』という形式の問いは立てていたんじゃないか?」と思う方もいらっしゃるでしょう。
確かに、ソクラテス以前の人々も「何であるか?」という形式の問いを有していました。
そして、実際に、その問に答えるために万有のアルケーを示し、ある人は「万有は水である」と主張し、またある人は「万有はアトムの集合体である」と主張したんです。
しかし、彼らが探究の対象としていたものは自然学的に探究可能な諸事物でした。
ここで挙げたプラトンの著作からの引用文をみてみると、そこで「何であるか?」と問われているのは、自然学的に探究可能な諸事物についてではなく、「敬虔」や「不敬虔」それに「克己節制」「徳」「勇気」「美」といった、広い意味で「道徳的(この表現が適切であるという確証はもてませんがなんとも言いようがないのでここでは便宜上このような表現を用います)」な事柄についてでした。
つまり、プラトンは、自然学的に探究可能なことがらだけでなく、自然学の範疇から外れると思われているものに対しても同じように「何であるか?」と問いかけたんです。
ここでひとつ注意すべきことがあります。
それは、ここまでの解説を読んで「あっ、プラトンのところに来て、哲学の関心が自然学から道徳に移ったんだね!」と考えたら間違いだということです。
かなり誤解を与えるような書き方をしているわたしが悪いといってしまえばそれまでなんですが、プラトンがこれらの対話篇で「敬虔」や「勇気」といったものにまで「何であるか?」という形式の問いを立てることができたのは、哲学の関心が「道徳」に移ったからと考えるよりも、プラトンの求めているものが、もっと言えば、哲学の求めているものが、自然学的な事柄だけでなく道徳的な事柄までも対象にすることができるようなものに移行していったからだと考える方が適切です。
「わからん…」といわれてしまいそうですが、ソクラテスの項目で見た「ソクラテスが牢獄に坐っている理由」に関する記述を思い出してみてください。
プラトンの手による対話篇『パイドン』のなかでソクラテスは、自分が牢獄に坐っている理由について、「骨がどうやら」とか「腱がどうやら」といった自然学的な(ここでは医学的なといったほうが適切かもしれません)理由を述べるのではなく、「自分やアテナイ市民がソクラテスはここに坐っている方が“善い”と判断したからだ」という主張を展開し、究極的な理由として「善さ」というものを提示します。
この段階で、ある一つの事柄に関して「自然学的な観点からの原因探求」と「非自然学的な観点からの原因探求」という二通りの探究が可能であることが明確化されたわけですが、プラトンはある事柄の原因としてソクラテス以前の人々が見出したような自然学的なものを求めたのではなく、ソクラテスが提示したような非自然学的な「何か」と求めようとしたんです。
そして、非自然学的な「何か」を原因として求めようとしたがゆえに、その「何か」を探究する際にはその探究対象として「敬虔」や「勇気」といった、自然学的な探究行為と相性が悪いように思われる事柄までもが俎上に載せられることになったんですね。
もちろん、ここで自然学の側から反論することは可能です。
例えば、いまこの場にデモクリトスがよみがえって、「笑う人」と異名をとったそのニヤニヤ顔を見せ付けながら「敬虔というのは神々に供え物をしたり、神々を讃える祭りをすることだね。だとすれば、そこには神々に供え物をするとか神々を讃える祭りをするといったそれぞれの状態が存在しているはずだ。それなら、それぞれの状態を構成しているアトムの状態を記述できれば、それで原因を説明したことになるはずだよ。例えば、神々に供え物をするということは丸いアトムが250個と三角のアトムが1800個ほど集まってきてある特定の状態を作り出しているということだから、つまるところ、それらのアトムの種類とそれらのアトムがそのように動いたという事実、そして、それらのアトムがそのように組み合わさったということ、これらのことが神々に供え物をすることの原因であり、敬虔さの本質だね。まぁ、もっとも、人間にとって、真理は深いところにある。だから僕は、人間がそういう純粋な真の認識にいたることができるのかどうかは保障しないがね。フフフ…」と主張したとしましょう。
この説明はある意味で正しいです。
しかし、「敬虔とは何か?」という問いの答えとしてこのようなことを主張されて納得する人は恐らく皆無でしょう。
むしろ、多くの人は「神々に祈りをささげる尊い心」とか「神という超越的な存在を敬うことで自分自身の尊大な部分を戒めようとする謙虚さ」とか、そういった事柄を答えとして提出された方が納得するでしょう。
ただ、ここで気をつけなければならないのは、賛同する人の多い少ないはあるとしても、ここで示した二つの答えは両方とも間違いではないということです。
仮に、神々の像にジャーマンスープレックスを決めながら「わたしは敬虔な人物だ」と主張する人がいたとしても、誰もその人の主張は信じないですよね。つまり、「敬虔」といわれるからにはやはりそこに何らかの物理的な状態があるはずですし、仮に、表面的にその状態が現れていなかったとしても心の中では神を敬うというある特定の状態が成立しているはずなんです(ですから、可能性としては神々の像にジャーマンスープレックスを決めながらも敬虔な人物というのも考えられます)。
そして、そのような状態を原子論的にアトムの概念を用いて説明したとしても、それは間違いとはいえないですよね。
つまり、ある一つの事柄に関しては、「牢獄に坐るソクラテス」の事例と同様に、常に「自然学的な探究」と「非自然学的な探究」という二つのやり方が成立するんです。
そして、プラトンはそのような事態を了解したうえで、ソクラテス以前の人々とは別の「非自然学的な」方向に進もうとしたんですね。
「牢獄に坐るソクラテス」の事例はプラトン自身が自らの対話篇の中で書いていることなので、本当のソクラテスがそのようなことを主張したのかどうかは定かではありません。
ですから、確証はありませんが、恐らく、プラトンが自分の探究方向として採用した「非自然学的な方向」は、ソクラテスの段階で「善」という仕方でそのボンヤリとしたモデルは提出されていたのだと思います。
それゆえ、この「非自然学的な方向」を完全にプラトンのオリジナルだと主張してしまうと御幣があると思いますが、しかし、プラトンは前期対話篇以後、この「非自然学的な方向」での探究を徹底し、ボンヤリとしたモデルとして提出されていたソクラテスの主張を高度に洗練されたものへと練り上げていくことになります。
しかし、いま問題としている前期対話篇の段階では、各対話篇で結論が提出されていなという事実が象徴しているように、まだそのような洗練段階へとは至っておらず、この1-1の見出しで示したように「非自然学的な方向」という「新しい方向性」の提出のみに留まっているんですね。
1-2、『メノン』にみる前期対話篇の総決算
1-1で、前期対話篇においては、プラトンが向かおうとする探究の方向性として、ソクラテスから引き継がれた「非自然学的な方向」が提示されているということを概観しました。
この1-2では、プラトンが向かおうとしていた方向性である「非自然学的な方向」と最終的にプラトンが求める対象の特徴付けがなされている『メノン』に言及し、前期対話篇の内容を総決算したいと思います。
ただ、そうはいっても、いきなり『メノン』という対話篇全体を相手にするのはなかなか骨の折れる作業なので、ここでは、『メノン』の中に登場する個々の概念を個別的に検討しながら前期対話篇の総決算作業を進めていきたいと思います。
1-2-1『メノン』の全体構成
『メノン』という対話篇を書かれている内容ごとにものすごく大雑把に区切ると、おおよそ以下の四つ、すなわち、70a1-77a2、77a3-80d4、80d5-86c3、86c4-100c2に分けることができます。
そして、これらの箇所ではそれぞれ70a1-77a2では「同じ相」という概念が、77a3-80d4では「徳」が、80d5-86c3では「探究のパラドックス」「想起」「魂の不死」といった諸概念が、86c4-100c2では再び「徳」が問題となっています。
先に、前期対話篇を一覧標的に列挙したところでも示したように、『メノン』の主題は「徳」ですから、本来であれば、『メノン』を問題とする場合はそのなかで展開されている「徳」に関する議論を柱にして自説を展開していくというのがオーソドックスなやり方です。
しかし、今回は『メノン』を考察の材料として取り上げることはしますが、その最終的な狙いは『メノン』の中身を解釈することではなく、『メノン』によって前期対話篇全体を総決算するということですから、取り上げる論点はむしろ『メノン』の主題である「徳」について論じられる際に用いられる「道具だて」の方になります。
では、『メノン』の中ではいったいどのような道具立てを用いて「徳」について論じているのでしょうか?
ここから先は個別的にそれらの道具立てを概観していくことにしましょう。
1-2-2『同じ相』(70a1-77a2)
先ずは、『メノン』の冒頭箇所である70a1-77a2において問題とされている「同じ相」という概念について検討します。
ただ、その前に、この70a1-77a2の範囲で、「同じ相」が提出されるまでに展開される議論をちょっとだけ見ておきましょう。
『メノン』という対話篇はソクラテスの対話相手となるメノンによって「徳はいかにして備わるのか?」という問題が提起されるところから始まります。
メノンによって提示されたこの問いは、徳が人間に備わる備わり方を問題としているという点で「徳それ自体」ではなく、徳の「性質」を問題にしているものであるとみなすことができます。
しかし、メノンからこのような問いを投げかけられたソクラテスは、「あるひとつのものが何であるかを知らないとしたら、それがどのような性質のものかということを、どうしてぼくは知ることができよう」と応じて、徳の「性質」に対して「それは何であるか?」と問うメノンの質問を、「徳それ自体」に対して「それは何であるか?」と問う問題に読み替えます。
そして、メノンもソクラテスの主張を受け入れて、「徳それ自体」に対する「それは何であるか?」という問いに取り組むことになるんですが、ここでメノンは「徳とは何であるか?」を答えるようソクラテスに促されて、「国をよく治めることが男の徳で、家をよく治めるのが女の徳だ」といった具合に男と女でそれぞれ別々の「多様な徳」を答えてしまいます。
この「多様な徳」という答えを聞いて、ソクラテスは納得がいきません。
そして、ソクラテスがメノンの解答に不満を持った段階で提出される概念が今これから問題にしようとしている「同じ相」という概念です。
つまり、ソクラテスは「男の徳」も「女の徳」もそのどちらも「それが徳である」という点で共通なのだから、それら一般に徳とされるもの全てに共通な「同じ相」を答えるようメノンに求めたんです。
しかし、いきなりこんなことをいわれてもメノンとしてはいまいちソクラテスの言っていることがつかめません。
そこで、ソクラテスは「同じ相」がどのようなものであるのかを示す具体例として「形」という例を挙げます。
「形」と呼ばれるものの中には○もあれば□もあれば△もあります。
しかし、これら三つの形は「それが形である」という点で共通ですよね。
そして、ソクラテスは、これら三つのものに共通の「形」という点について、「形とは何であるか?」という問いを立てて、その解答として「立体がそこで限られるところのもの」という定義を提出します。
つまり、ソクラテスによれば、この「立体がそこで限られるところのもの」というのが「形」の「同じ相」であり、○や□そして△といった諸々の「形」は「立体がそこで限られるところのもの」という「同じ相」を共有しているがゆえに、それぞれ違うものであるにもかかわらず、「形」という点では共通なんですね。
さて、ソクラテスによって「形」の例が示された後、メノンはソクラテスによってこたえるよう要請されていた「徳とは何であるか?」という問いに再び挑戦して、再度敗れ去ることになるんですが、そういったメノンの困惑っぷりは置いておいて、懸案の「同じ相」をもう一度きっちりと抑えておくことにしましょう。
『メノン』のなかでソクラテスの対話相手となるメノンは、対話篇の冒頭で自らが提示した「徳はいかにして備わるのか?」という徳の性質について終始知りたがりますが、そんなメノンの状況とは裏腹に、ソクラテスは絶えず「徳とは何であるか?」を問い続けます。
この「何であるか?」という形式の問いは、1-1でも示したように、メノンに至るまでに執筆された他の対話篇のなかでも取り上げられている問いでした。
そして、プラトンはそんな「何であるか?」という問いの答えに、ソクラテス以前の人々とは違う「非自然学的な方向」を求めていたわけですが、この「非自然学的な方向」で探究を進めた結果として最終的に到達するものの特徴づけは、『メノン』以外の他の前期対話篇ではそれほどしっかりとは行われていませんでした。
しかし、この『メノン』にいたって、はじめてこの「最終的に到達するもの」が「同じ相」という仕方で明確に特徴付けられます。
つまり、プラトンが「それは何であるか?」という問いによって求めているものは、『メノン』において「同じ相」と呼ばれているものであり、その特徴は、「問題となる事柄と同様のものとみなされている諸々の事柄全てが共有しているところのもの」ということになります。
なんとなくものすごく中途半端な感じですが、「同じ相」というただ一つのものだけを検討して全てがわかるほどプラトンは甘くありませんから、とりあえず、ここは一旦、プラトンの求めているものについて、
それは「問題となる事柄と同様のものとみなされている諸々の事柄全てが共有しているところのもの」である
とされた段階で留めておくことにしましょう。
1-2-3「魂の不死」「想起」
さて、「同じ相」について検討することで、プラトンが探究の最終到達点として求めているものの影がほんの少しだけ見えてきました。
「よし!!このまま行ってプラトンを極めるぞ!!!!」と思いたいところですが、プラトンはそれほど甘くありません。
最終到達地点へ上り詰めるためには一つの方向からだけでなく、別の方向からも上っていかなければなりません。
ここでは、「同じ相」とはまた別の上り口である「想起」という概念について検討してみたいと思います。
では、先ずは例によってこの「想起」の概念が提出されている80d5-86c3について、その議論の流れを概観してみましょう。
この箇所はメノンがソクラテスに対して以下のような主張を展開するところから始まります。
メノン:おや、ソクラテス、いったいあなたは、それが何であるかがあなたにぜんぜんわかっていないとしたら、どうやってそれを探究するおつもりですか?というのは、あなたが知らないもののなかで、どのようなものとしてそれを目標に立てたうえで、探究なさろうというのですか?あるいは、幸いにしてあなたがそれをさぐり当てたとしても、それだということがどうしてあなたにわかるのでしょうか――もともとあなたはそれを知らなかったはずなのに。
あいかわらず持って回った言い方をするのでいまいち言いたいことがわかりづらいですが、メノンのこの主張を受けて、ソクラテスはそれをさらに一般化し、一つのパラドックスとして形を整えて以下のように主張します。
ソクラテス:〜略〜いわく、「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探究することはできない。というのは、まず、知っているものを探究するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探究の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探究するということもありえないだろう。なぜならその場合は、なにを探究すべきかということも知らないはずだから」――。
ソクラテスによってより洗練されたメノンの主張は、「人間はある事物について探究しようとする場合、それを知っていても知らなくても探究という行為は成立しない」ということを意味します。
この主張は一般に「探究のパラドックス」と呼ばれますが、仮にこの主張が事実だとすると、人間の知的営みはそのほとんどが無意味になってしまいます。
そこで、ソクラテスはこのパラドックスを論駁しにかかるわけですが、その際にソクラテスが用いるのが「想起」という概念です。
この「想起」の概念を簡潔に示すと以下のようになります。
(1)魂は不死である
(2)魂は人間の体に宿る前にすべてのことを見聞きして知っている
(3)しかし、魂は人間の体に宿るときに見聞きしたすべてのことを忘れてしまう
(4)それゆえ、人間が何かを学び知ったと思っても、それは新しいことを知ったということではなく、実は、魂が肉体に宿る前に見聞きして知っていたことを思い出しただけである
(5)すなわち、学びとは「想起」である
このような考え方は、現代のわれわれからするとかなり突拍子もない考え方のように思えますが、この「想起」の概念を提示した後に、ソクラテスはこの主張が正しいことを実証するよう試みます。
それに際して、ソクラテスは先ず、「魂の不死」を主張します。
通常、プラトンが対話篇のなかで展開する議論は非常に論理的なのですが、この箇所で示される「魂の不死」に関する議論は、他の箇所で展開される議論と比べると若干神がかっていて論理的な実証性に乏しいです。
ソクラテスは「魂は不死である」という主張の根拠を、この「魂の不死」という主張を聞いた人々(具体的には、神官、巫女、ピンダロス、詩人)の権威に負っています。
要するに、「偉い人が魂は不死だと言っているから魂は不死なんだ」という主張なので、読んでいる側にとってはなんとなく「…?」という感じになってしまうんですが、とりあえず、ここではこの権威に依拠した議論にしたがって「魂は不死」であるとされます。
なんとも心もとない議論ですが、「魂の不死」に関する議論には、「想起」に関する議論の中心部分が展開された後でもう一度戻ってくることになるので、ここははやる気持ちを抑えて、「想起」の土台としての「魂の不死」は確認されたということにしてください。
さて、議論の土台としての「魂の不死」が確認されたところで、ここから「想起」に関する本格的な実証作業になります。
先ず、ソクラテスは対話相手としてメノンの召使のなかでも幾何学について何の知識も持たない一人の子供を選び、その子供と、正方形の面積に関する議論を展開します。
ソクラテスが子供に問いかける問題は、ある四角形の面積が4プース(「プース」というのは当時の単位ですから特に気にする必要はありません)だとすれば、その二倍にあたる8プースの面積を持った四角形の一辺はどれぐらいの長さになるかというものです。この問題をめぐって展開されるソクラテスと子供との議論の過程を見るには、実際に『メノン』を読んでもらうのが一番手っ取り早いので、ここにいちいちその詳細を書くことはしません。
しかし、ソクラテスは最終的に、自分の方から子供に対していっさい答えを教えることなく、子供に8プースの面積を持つ四角形を形作る一辺の長さを理解させることに成功します。
この一連の過程で重要なのは、この子供が幾何学について完全に無知であり、尚且つ、探究の過程でソクラテスが子供に対していっさいの解答を示していないという点です。
つまり、子供は何も教えられていないのに、ソクラテスと議論をしただけで自分から「対角線」の概念に気づいたということになります。
この事実を受けてソクラテスは、以下の二つのことを主張します。
(1)外部から与えられていないのに、子供が「対角線」という概念を獲得したということは、その概念は子供の内にすでに内在していた。
(2)この子供が生まれた後で「対角線」について教えられていないのに、この子の内に「対角線」という概念が内在していたとすれば、その概念は、この子が生まれる前にすでに子供の魂の内に内在していた。
そして、ソクラテスはこれら二つの主張をもとにして、最終的に、「この子の魂はこの子の肉体に宿る前に「対角線」についてすでに知っていたのだ」と主張するに至ります。
これをもって、ソクラテスの主張する「想起」の概念は、その正しさが論理的に実証されたことになります。
さて、なんとなく狐につままれた感じがしないでもありませんが、ここまで来たところで、ソクラテスは再び「魂の不死」の概念に戻ります。
ここまでの段階で確認されていたことは、先にも書いたように、「この子の魂はこの子の肉体に宿る前に「対角線」についてすでに知っていたのだ」ということでしたが、ソクラテスはここで、この子供がソクラテスとの議論によって「対角線」の概念を思い出したという事実と、この子供は全時間を通じて人間であるか人間でないかのどちらかであるという事実の二つに着目します。
当然のことながら、子供がソクラテスとの議論によって「対角線」の概念を思い出したということは、この子の魂にはこの子が人間である段階においても「対角線」の概念が内在していたということになります。
それゆえ、この段階で、この子の魂にはこの子が人間であるときにもこの子が人間ではないときにも「対角線」の概念が内在しているということになります。
また、この子供は全時間を通じて人間であるか人間でないかのどちらかであり、それ以外はありません。
この子が人間であるときにこの子の魂には「対角線」の概念が内在しているということと、この子が人間である前にこの子の魂には「対角線」の概念が内在しているということとの二つはすでに確認済みでした。
よって、この子の魂には全時間を通じて「対角線」の概念が内在していたことになります。
そして、この全時間を通じてこの子の魂には「対角線」の概念が内在しているということを根拠に、ソクラテスは、「魂は不死」であるということを主張します。
ところで、このコンテンツを読んでいる人の中には、ここまで読んだ段階でプラトンの議論展開のやり方について「…?」と思った方もいらっしゃると思います。
その感覚は間違っていません。
結局、この「魂の不死」と「想起」に関する議論は、「魂の不死」を土台として「想起」の議論を展開し、その「想起」の議論に立脚して再び「魂の不死」を論証するという循環構造をなしてるんですよね。
これを循環構造とみるのではなく、相互補完のようにみればプラトンのやり方にも妥当性があるように思えますが、個人的なことを言わせてもらえば、やはりこの手の議論のやり口はあんまりいいとは思えません。しかし現実問題としてプラトンはこのようなやり方で「魂の不死」と「想起」という概念を確立しているので、ここはこれでよしとするしかありません。
さて、以上が『メノン』において提出されている「魂の不死」と「想起」の概念です。
そして、これらの概念が、プラトンが最終的に求めているものに辿り着くために必要な、「同じ相」とは異なるもう一つの上り口です。
しかし、『メノン』においては、これら上り口だけが示されていて、最終的にプラトンがどこへと向かおうとしているのかがいっさい示されていません。
実際に『メノン』を読んでもらうのが一番手っ取り早いのですが、この『メノン』という対話篇はありとあらゆる意味で中途半端な対話篇です。
主題である「徳」に関しても結論は出されないですし、プラトンが最終的に目指す到達地点も明確化されません。
しかし、『メノン』について言及を始める一番最初のところでも示したように、この対話篇はあくまでも前期対話篇の総決算であり、プラトンの思想が一通りの完成を見る中期対話篇への橋渡し的な対話篇なんですね。
ですから、この中途半端さ加減も仕方ないといえば仕方ないわけです。
でも、まぁ、中途半端とはいっても、プラトン哲学の高嶺へと上る道筋だけは見えたわけですから、とりあえずよしとして、ここから先は「同じ相」「魂の不死」「想起」という三つの概念を足場にしてプラトン哲学の完成へといたる中期対話篇に挑戦していくことにしましょう。
2、中期対話篇とプラトン哲学の完成
『メノン』という対話篇を用いて前期対話篇を総決算し、プラトンの哲学の高嶺へと通じる「同じ相」「想起」「魂の不死」という三つの概念を獲得したところで、ここからは議論を中期対話篇に移します。
中期対話篇は『国家』(以前、フランソワ・トリュフォーの『華氏451』という映画のなかで、この著作名の字幕が『共和国』となっているのをみたことがあります。確かに、この著作の英訳はRepublicですから、それを直訳すると「共和国」なんですが、現在の日本では完全に『国家』というタイトルで流通しています。ただ、日本語の著作でもたまにちょっと古めのものを読んだりするとこの著作に『理想国』というタイトルが付されているのをみることがあります)という大きな対話篇に象徴されるように、一般に、プラトンの思想が一旦の完成を見た著作群であるとみなされています。
これまで、私はあえて「イデア」とか「イデア論」という言葉を使わずにここまで書いてきたのですが、ここまでくればもういいでしょう。
はっきりいいますと、この中期対話篇は昨今ほとんどプラトンの代名詞的な名称として語られる「イデア論」が完成したとみなされる時期なんですね。
そんな中期対話篇に属するとされている著作は以下にあげる四つです。
中期対話篇
『饗宴』 ―恋について―
『パイドン』 ―魂について―
『国家』
『パイドロス』 ―「美」について―
※一応、このコンテンツではプラトンに関するいくつかの著作や実際に対話篇に書かれている内容を考慮してこれら四つの対話篇を中期対話篇とします。どうやら、内容的なことを考慮せずに文体学的な観点にのみしたがって分類すると、これら四つに加えて『パルメニデス』と『テアイテトス』が中期に組み込まれるらしいのですが、内容的なことも含めて考えれば、やはり『パルメニデス』と『テアイテトス』は後期に位置づけるのが正しいように思うので、このコンテンツでは、これら二つは後期対話篇に組み込みます。
単純に数だけを見ると、中期対話範は前期対話篇や後期対話篇と比べて圧倒的に少ないのですが、まさに少数精鋭という感じでどれをとっても非常に完成度の高い仕上がりになっています。
実際、前期対話篇において、プラトンは個々の対話篇で扱う主題について明確な結論をいっさい提示せず、どれも中途半端な終わり方で終わっていましたが、これら中期対話篇においてはプラトンが高度な思考の果てに辿り着いた到達点が、それぞれの対話篇において前期の時点よりも明確に示されており、その意味で、プラトンの思想の全体像が前期の段階よりも圧倒的に鮮やかに描き出されています。
さて、なんか、やたらとこの中期対話篇のことを持ち上げてむやみやたらに敷居を高くしている感がありますが、これらの対話篇のなかでは、先に示したように、プラトンの思想がかなり確立された仕方で表現されているということもあって、高校時代の倫理の教科書やちょっとした哲学入門の類に収録されているプラトンの項目で紹介されている概念は、おおよそ、この中期対話篇から取られた概念です。
ですから、実は、単純に知名度ということだけでみれば、前期や後期の著作に現れる諸概念よりも、この中期対話篇の中に登場する概念の方が一般にはよく知られていたりします。
さあ、中期対話範全体の特徴を紹介するのはこれぐらいにして、そろそろ本題に入っていきましょう。中期対話篇の議論はときに重厚で扱いにくい面もありますが、前期対話篇で見出した上り口からジックリジックリ上っていくことにしましょう。
2-1、「同じ相」の進化 ―『饗宴』―
『メノン』を概観したときに、プラトンの思想をその高嶺まで上るための一つの道筋として「同じ相」という概念が必要であることを確認しました。
そして、その「同じ相」とは、
「問題となる事柄と同様のものとみなされている諸々の事柄全てが共有しているところのもの」
だったわけですが、ここでは、前期対話篇で登場したその「同じ相」がさらに洗練された概念へと進化していく過程を概観します。
その際に用いることになる対話篇は『饗宴』です。
プラトンの対話篇のほとんどは、その中に登場するソクラテスの対話相手の名前がそのままタイトルになっていますが(もちろん、『国家』『ポリティコス』『ソフィスト』『法律』『ソクラテスの弁明』といった対話相手の名前以外のものがタイトルになっているものもあります)、そんななかでこの『饗宴』というタイトルはなんとも異彩を放っています。
日本語で「饗宴」という訳語を与えられているもともとのギリシア語は「シュンポシオン」という言葉です。この言葉は現在「討論会」といった意味で用いられる「シンポジウム」の語源となった言葉ですが、その当時の「シュンポシオン」という言葉が持っていた意味は、現在の「シンポジウム」が持つ「討論会」といった限定的な意味ではなく、もっと広く一般的なもので、しいていえば「みんなで集まってとりあえずなんかしゃべること」ぐらいの緩〜い感じの意味だったんです。
実際、対話篇『饗宴』の舞台設定や主題もなんとも緩い感じが漂っています。
ある日、ソクラテスを初めとした一同が、アガトンという人物のもとへ招かれます。そして、そのアガトンの家で宴会をしながら「恋」について一人ずつ自分なりの見解を披露していくというのが、『饗宴』の舞台設定です。
まぁ、そんな緩い舞台設定ですから、この宴会が行われた場所と時間、そして、集められたのが全員男だけという点は異なっていますが、それ以外の基本的な構造は、『饗宴』も明石家さんまが司会を務める日本テレビ系『恋のから騒ぎ』とそれほど大差ありません。
そんなバラエティ色の強い『饗宴』ですが、今回、『メノン』で提出されて「同じ相」との関連で中心的に扱うのは、宴会の一番最後にしゃべる順番が回ってきたソクラテスによる演説、そしてその中でもとりわけ、ソクラテスが昔話として語るディオティマという女性にかかわる部分です。
このディオティマという女性は、そこにいたるまでの対話で提出された「恋とは美に対してなされるもので醜に対してなされるものではない」という主張に応答する際に、ソクラテスが自らの言説の中に取り入れた人物で、対話篇の中で、この人物は「美」というものについてそれがどのようなものであるのかをソクラテスに教えてくれた人物として登場します。
プラトンにとって「美」がどのようなものとして解釈されていたのかということは、プラトン解釈という観点から言えば非常に興味深い問題点だと思いますが、ここでの主題はあくまでも『メノン』で提出された「同じ相」という概念が中期対話篇にいたってどのように進化していったのかということですから、『饗宴』における「美」の細かな特徴づけはちょっと脇に置いておいて、以下にあげる「美」の本質的な側面に言及された引用文に着目してみましょう。
『饗宴』210e
「さて順序を追うて正しい仕方でさまざまの美しいものを観つつ、愛(『饗宴』の方訳ではその主題である「エロース」が「愛」と訳されていますが、このコンテンツではこれを「恋」と訳しました。ですから、この引用文中に出てくる「愛」とはこれまでのところで「恋」と表記されてきたものと同じ「エロース」のことです)の道についてここまで教育を受けてきたものは、今やようやく愛の道の極地に近づくとき、突如として一種驚嘆すべき性質の美を観得するでしょう。〜略〜まず第一に、それは常住に在るもの、生ずることもなく、滅することもなく、増すこともなく、減ずることもなく、次には、一方から見れば美しく、他方から見れば醜いというようなものでもなく、時としては美しく時としては醜いということもなく、またこれと較べれば美しく彼と較べれば醜いというのでもなく、またある者には美しく見え他のものには醜く見えるというように、ここで美しくそこで醜いというようなものでもない。なおまたこの美は顔とか手とかまたはその他肉体に属するものとして観者に顕われることもなく、また同様に言説もしくは学問的認識の形をとり、あるいはその他の在るものの――たとえば、生物の内に、または地上や天上に、またはその他の物の――内に在るものとしてでもなく、むしろ全然独立自存しつつ永久に独特無二の姿を保てる美そのものとして彼の前に現れるでありましょう。ところが他の一切の美はこれとは反対に、自らは生じたり滅したりするのに、美そのものはそれがために寸毫も増さず減ぜず、また何らかの変化をも受けぬ、そういう仕方で美そのものにあずかる」
なんか、引用してて思ったんですけど、これ、訳の日本語が古いですね。一番手に入りやすくてメジャーだろうなぁと思って岩波文庫版の久保勉訳を使ったんですけど、他の訳にすればよかったかもしれません…
さて、訳文への文句はこれぐらいにして、以上に示した訳文が、ディオティマが「美」について最も明確かつシンプルに語っている箇所です。
色々というべきことはあるんでしょうが、ここではとりあえず引用文の最後の部分である「ところが他の一切の美はこれとは反対に、自らは生じたり滅したりするのに、美そのものはそれがために寸毫も増さず減ぜず、また何らかの変化をも受けぬ、そういう仕方で美そのものにあずかる」という箇所に着目してください。
この箇所で言っていることは、要するに、世のなかで「美しい」とされているもの、例えば、美しい花とか美しい人とか美しい景色とか何でもいいんですけど、そういったものは皆、「美そのもの」といわれるものに与っているのだということなんですが、ここで『メノン』でいわれていた「同じ相」の定義を思い出してみてください。
「同じ相」の定義は
「問題となる事柄と同様のものとみなされている諸々の事柄全てが共有しているところのもの」
でしたが、ここで「美そのもの」と呼ばれているものは、「他の一切の美」がそれに与るところのものとされています。
つまり、『饗宴』のなかで展開される「美」にまつわる議論においては、かつて「同じ相」と呼ばれていたものが「美そのもの」というふうに形を変えて再び登場しているんですね。
あっ、もちろん、ここで「美そのもの」に形を変えている「同じ相」っていうのは、「同じ相」全般ではなく、「美の同じ相」ですからね。その点は誤解のないようにお願いします…
さて、「同じ相」と同様の性質を持つものとして登場した「美そのもの」ですが、続いて、引用の残りの部分、すなわち、「美そのもの」の特徴が箇条書き的に列挙されている部分に注目してみましょう。
ここで列挙されている特長をズラッと並べてみるとおおよそ次のようになります。
(1)常に在る
(2)不生不滅
(3)増えることも減ることもない
(4)見方の違いや観る人の違いによって醜くなることはない
(5)完全に独立してある
これら五つの点が「美そのもの」の特徴として挙げられているのですが、先に見たように、「美そのもの」は一切の美がそれに与るものところのものとされていたという点で「同じ相」と同様の性格を持っていました。
それゆえ、この「美そのもの」に付された諸性質は、「同じ相」にも適応することができると考えることが可能です。
つまり、『メノン』においてソクラテスが常にメノンに答えるよう要求していた探究の最終的な到達地点である「同じ相」が、『饗宴』にいたってこれら五つの諸性質をもつものにまで進化したということなんですね。
プラトンに限らず、ある人地の哲学者の考えをこのように発展史的に捉えることができるのか否かというのはそれだけで一つの大きな問題ですが、しかし、前期対話篇から中期対話篇までの流れをみれば、少なくとも今このコンテンツで主張しているようなレベルのことぐらいは十分に主張可能だと思います。
以上のように、『饗宴』における「同じ相」の進化を概観してきたわけですが、『饗宴』という対話篇は、その舞台設定が「宴会でのしゃべり」ですから、「同じ相」の進化系である「美そのもの」に関してこれ以上突っ込んだ議論というのはなされないんですね。
ですから、『饗宴』にかかわるのはこれぐらいにして、ここから先は、プラトンの全対話篇の中でも最もシリアスであり尚且つ最もエンターテイメント性の高い『パイドン』に移って、プラトンの思想の流れを追いかけていくことにしましょう。
2-2、「魂の不死」と「想起」の発展 ―『パイドン』―
2-1では、『饗宴』において「美そのもの」という仕方で表現された「同じ相」の進化を概観しましたが、2-2では『メノン』において提出されていた残りの概念である「魂の不死」と「想起」について、それが進化していく過程を概観します。
その際に用いる対話篇が『パイドン』です。
この『パイドン』はソクラテスの項目で部分的に引用したので覚えていらっしゃる方もいるかと思います。
舞台はソクラテスがとらわれている牢獄。
「不敬神」と「若者を堕落されている」という罪で訴えられて死刑判決を下されたソクラテスの刑がまさに今執行されようとしているなかで、ソクラテスは自分をしたってその場に集まった人々と「魂」についての議論を交わします。
この対話篇は、ソクラテスがすりおろした毒人参の入った杯をあおいで死ぬことで完結します。
そんな悲劇的な結末を予感させるかのように、『パイドン』のなかで展開される議論は終始高い緊張感を保ち、2-1で参照した『饗宴』の緩〜い雰囲気とは全く持って対象的な空気感をかもし出しています。
私は個人的にプラトンの文章はあまり好きではないので(邦訳を読んでも原典を読んでもいずれにせよあんまり好きになれないんですよね)、対話篇を読んでいても感銘を受けるということはまずないんですが、この『パイドン』に関してだけは、ラストがラストということもあって、読み終わった後、不覚にもちょっと感動してしまうんですね。
よく、大学の哲学の講義でプラトンに関する参考文献として『ソクラテスの弁明』が挙げられているのをチョクチョク見るんですが、個人的には『弁明』ってやっぱり演説ですからなんかとっつきにくい感じがしますし、時代が違うとはいえ、結局は法廷ものですからエンターテイメント性も乏しいですし、あんまりお勧めではないんですよね。
むしろ、今までプラトンを全く読んだことのない人にとっては、『弁明』よりも量は多いですけどこの『パイドン』の方が、哲学書としてではなく一つの読み物として圧倒的におもしろいのでお勧めなんですよね。
まぁ、何の権威もない中年予備軍の言うことですから、腹六部ぐらいで聞いておいていただければいいですけど、頭の片隅に、プラトン、初めて、『パイドン』っていう三つのフレーズの結びつきをインプットしておくと、プラトンとの最初の出会いとして案外いい感じの出会いができるのではないかと思います。
2-2-1、「美そのもの」から「イデア」へ
さて、『パイドン』の紹介はこれくらいにして、そろそろ本題に入りましょう。
小見出しにもあるように、この2-2では「魂の不死」と「想起」についてそれが進化していく過程を概観することを意図していますが、そのまえに、ちょっとだけ触れておかなければならないことがあります。
2-1で、『饗宴』のなかでは美しいもの全てに共通している「美そのもの」という概念が提出されておりその、そしてその概念にさまざまな性質が付与されているのを見ましたが、『パイドン』の前半部分ではその「美そのもの」と同様の性質をもつものが「美」以外にもさまざまなもについて提出され、なおかつ、その「〜そのもの」の概念に『饗宴』では付与されていなかった新たな性質が付け加えられています。
少し長くなりますが、以下にあげる引用文を見て下さい。
『パイドン』65a-
「では、知恵の獲得そのことに関してはどうだ。肉体は邪魔なのか、そうではないのか。もしも人がこの探究において肉体を協力者としてともなうならば。たとえば、僕はこういうことを言っているのだ。いったい、見ることや聞くことは人々に何らかの真実を教えるのか。それとも、これらのことについてなら、詩人達でさえわれわれにいつも語り続けているのではないか。われわれは何も正確なことを見もしなければ聞もしない、と。だが、もしも、肉体的な諸感覚のうちで、これら二つの感覚が正確でもなければ明晰でもないとすれば、他の諸感覚がそうである可能性はほとんどないだろう。なぜなら、他の諸感覚は全てこの二つの感覚よりも劣っているのだから。それとも、君にはそうは思われないかね」
「その通りです」
「では、魂はいつ真理に触れるのか。なぜなら、肉体と共同して何かを考察しようと試みれば、その時には、魂は肉体によってすっかり欺かれてしまうのは、明らかだからだ」
「あなたの言われることは、真実です」
「したがって、もしも存在するものの何かが魂に明らかになる場所がどこかにあるとすれば、それは思考においてではなかろうか」
「そうです」
「ところで、おそらく、思考がもっとも見事に働くときは、これらの諸感覚のどんなものも、聴覚も、視覚も、苦痛も、なんらかの快楽も魂を悩ますことがなく、魂が、肉体に別れを告げてできるだけ自分自身になり、可能な限り肉体と交わらず接触もせずに、真実在を希求するときである」
「その通りです」
「したがって、ここでもまた、哲学者の魂は肉体を最高度に侮蔑し、肉体から逃亡し、全く自分自身だけになろうと努力するのではないか」
「そのように思われます」
「では、シミアス、次の点についてはどうだ。われわれは、何か正義そのものが存在する、と言うのかね、それとも、言わないのかね」
「ゼウスにかけて、確かに言います」
「さらに、また、美や善は」
「もちろんです」
「では、今までに、こういうものの何かを君は目で見たことがあるか」
「けっして、ありません」
「では、君は、目以外の他の肉体的な感覚によってそれらを把握したことがあるか。僕は、全ての物事について語っているのだ。たとえば、大きさ、健康、力、一言でいえば、他のすべてのこういうものごとの本質、それぞれのものごとが正にそれであるところのもの、について語っているのである。いったい、これらのもののもっとも真実な姿が肉体を通して見られるであろうか。それとも、こういう事情なのではないか。われわれのうちの誰にもせよ、自分が自分が考察するものごとについて、そのもの自体をもっとも充分にそしてそしてもっとも厳密に思考しようと準備する者が、それぞれのものを知ることにもっとも接近するのではないか」
「まったく、その通りです。」
さて、この引用文中で注目してもらいたい箇所は大きく分けて二つです。
まず、一つ目は、この引用文のまん中盤以後の部分で、「正義そのもの」「美そのもの」「善そのもの」「大きさそのもの」「健康そのもの」「力そのもの」という概念が次から次へと提出されているという事実です(文中で実際に「そのもの」という語をくっつけて提出されているのは「正義そのもの」だけですが、たの「善」や「大きさ」もここでは「善そのもの」「大きさそのもの」という意味であると解釈して差し支えないでしょう)。
『饗宴』を思い出してもらいたいのですが、『饗宴』のなかで「〜そのもの」という仕方で扱われていたのは「美」だけでした。しかし、この『パイドン』にいたって、その「〜そのもの」として扱われるものの範囲が一気に拡大します。原文を引用することはしませんが、現に、『パイドン』の後半ではこの引用文中に上げた「〜そのもの」以外にも、「等しさそのもの」や「一」「二」「三」といったそれぞれの「数そのもの」といった概念も登場してきます。
続いて、注目してもらいたいことの二つ目ですが、それは、ここでたくさん提出された「〜そのもの」という概念が「身体」ではなく「魂」と関係付けられている点です。
より具体的に言うと、この「〜そのもの」を認識できるのは「身体」を通じてではなく「魂」を通じてであるとされているということです。
「〜そのもの」を認識する手段として「身体」(「感覚」と言い換えてもいいでしょう)が退けられている理由は、「身体」を通じた認識が個々人によって違ったり、同一人物であっても時と場合によって異なることがあるという不確定性のゆえだと考えられます。
そして実際に、『饗宴』の段階では、「美そのもの」について「見方の違いや観る人の違いによって醜くなることはない」という性質が付与されていました。しかし、『饗宴』ではその「美そのもの」が何によって十分に認識されるのかということについてはノータッチでした。
それゆえ、『パイドン』に至ってはじめて、「〜そのもの」に「魂によって認識される」というもう一つの性質が付け加えられたと考えることができるんです。
さて、ここまで、さんざん「〜そのもの」という言い方をしてきましたが、「美そのもの」が他の諸概念にも拡張されているという事実と、その「〜そのもの」は「身体」を通じてではなく「魂」を通じて認識されるとみなされているという事実の二点を考え合わせれば、もう、この「〜そのもの」を「イデア」という名前で呼んでもいい頃合でしょう。
いいかえると、プラトンの思想が発展していく過程において、この『パイドン』に至って、一般に「イデア」と呼ばれる概念がおおよそ確立したとみなしてもよいということです。
つまり、『メノン』において「同じ相」という概念が提出され、『饗宴』においてその「同じ相」が「美そのもの」という仕方で様々な性質を付与されることでさらに進化し、最終的にそれが『パイドン』に引き継がれて「美」以外にも拡張され、さらにはその認識方法として「魂を通じて」ということが付け加えられることによって、「同じ相」が「イデア」にまで発展したということです。
また、ここで、『メノン』において「同じ相」が探究の最終的な到達点とみなされていたということを思い出してください。
このことと、先に示した「同じ相」の進化を考え合わせると、『パイドン』の段階で、プラトンが探究の最終的な到達点とみなしていた「同じ相」が「イデア」という仕方で具体化したと考えることができます。
2-2-2、「魂の不死」と「想起」
2-2-1では、『メノン』で提出された「同じ相」が『饗宴』で主張される「美そのもの」を経て、最終的に『パイドン』において「イデア」にまで至る過程を概観しましたが、これはあくまでも探究の対象となる側からみたプラトンの思想の発展過程です。
プラトンの思想を満遍なく概観するためには、探究の対象の側からだけでなく、探究の方法の側からも検討しなければなりません。
ここからは、プラトンの思想に対する探究の方法の側からの検討として、『パイドン』における「魂の不死」と「想起」の発展を概観します。
『メノン』において「魂の不死」と「想起」の概念が提出されたときのことを思い出してもらいたいんですが、あのときの議論の構造は、最初に「魂の不死」を前提として仮定しておいて、前提である「魂の不死」を土台にして「想起」の概念を提出し、最終的にその「想起」の概念を使って仮定として想定しておいた「魂の不死」を証明するというものでした。
『パイドン』は、「魂について」もしくは「魂の不死について」という副題を打たれた対話篇ですが、本作の中でも、『メノン』と同様に、「想起」は「魂の不死」を証明する際の手段(?)のひとつとして用いられています。
解釈は色々あると思いますが、岩波文庫版の『パイドン』に従うと、『パイドン』のなかで「魂の不死」の証明は4種類のやり方でなされていますが、それら四つのうちで、「想起」は二番目に提出される証明の手段として登場します(ちなみに、一番目は「生から死へ死から生へという生成の循環による証明」、三番目は「魂とイデアの親近性による証明」、四番目は「イデア論による証明」とされています)。
で、そのやり方ですが、簡潔にまとめると以下のようになります。
(1)「想起」というモデルの提出
A:人間に関する知識と竪琴に関する知識は別の知識である
B:ある竪琴をみたときに、その竪琴をいるも使っている人を心に思い浮かべることがある
C:その人のことを忘れている場合にbのような事態が生じることを想起という
D:また、似顔絵を見てその絵にかかれている人のことを思い出すことがある
E:それゆえ、「想起」は「似ていないもの」から生じる場合と「似ているもの」から生じるものの二パターンがある
(2)「等しさそのもの」の想起
F:ある木と別の木が等しいとか、ある石と別の石が等しいといった事例がある
G:2-2-1で引用した『パイドン』65aから始まる議論より、Fのような事例で言われる「等しい」とは別に、「等しさそのもの」が存在する
H:われわれは「等しさそのもの」を知っている
I:この「等しさそのもの」に対する知識は、Fのような個々の事例から獲得している
J:Fを一般化すると、われわれは木や石が互いに等しいという個別的な事例から、木や石とはことなる「等しさそのもの」に関する知識を獲得しているということである
K:あるものを見たとき、その「見た」ということをきっかけとしてそのあるものとは別の何かを思いついた場合、それは「想起」が成立したということである
(3)「等しさそのもの」に関する知識の獲得時期…その1
L:個々の事例における「等しい」という事実は、「等しさそのもの」よりも「等しさ」のレベルにおいて劣っている
M:個々の「等しいもの」が「等しさそのもの」よりも「等しさ」のレベルにおいて劣っているということがわかるためには、「等しさそのもの」に関する知識をあらかじめもっていなければならない
N:Mより、「等しさそのもの」に関する知識を獲得したのは、個々の「等しいもの」が「等しさそのもの」よりも「等しさ」のレベルにおいて劣っているということに気づく前でなければならない
(4)「等しさそのもの」に関する知識の獲得時期…その2
O:(2)のKより、われわれは、ある互いに等しいものを見たとき、その「見た」という感覚的事態をきっかけとして、「等しさそのもの」に思い至る
P:(3)のNより、われわれは「等しさそのもの」に気づくきっかけとなる「見た」という感覚的事態の成立以前に「等しさそのもの」に関する知識を持っていなければならない
Q:われわれは生まれてすぐに感覚を使い始める
R:Pより、われわれは生まれる前に「等しさそのもの」に関する知識を持っていた
(5)「等しさそのもの」以外の「〜そのもの」に関する知識の獲得と忘却
S:(1)〜(4)で展開された議論は「等しさそのもの」以外の「美そのもの」や「善そのもの」といったものどもにも当てはまる
T:Sより、われわれはありとあらゆる「〜そのもの」に関する知識を生まれる前に獲得している
U:「〜そのもの」に関する知識を生まれる前に獲得して、それをずっと忘れないのであれば、われわれはそれについてずっと知り続けていなければならない
V:仮に、「われわれは生まれる前に知識を把握している」「生まれると同時にその知識を失う」「感覚をきっかけにして生前獲得した知識を再把握する」という三つの条件を同時に満たすのであれば、われわれが「学び」と呼んでいるものは知識の再把握とみなすことができる。
W:Vより、「学び」とは「想起」である
(6)「魂の不死」「イデアの実在」「想起」の関連
X:仮に、「学び」とよばれるものが、「感覚」をきっかけにして生前にわれわれの魂が見知っていた諸々の「〜そのもの」へと遡り、「〜そのもの」を再発見することであるならば、「〜そのもの」と呼ばれる諸々の「実在」とわれわれの「魂」は同じように我々の生まれる前から存在していなければならない
Y:仮に、これら諸々の「実在」とわれわれの「魂」が、われわれの生まれる前から存在していたのではないとするならば、「学び」は「想起」であるという考え方は成り立たない
Z:XとYより、「魂」と諸々の「実在」は同じレベルで存在している
「お前、簡潔にまとめるって言っといて、まとまってねぇじゃねえか!!!」とお怒りの方も多数いらっしゃるとは思いますが、プラトンの議論を丁寧にたどるとこんな感じになっちゃうんです。ごめんなさい。
さて、ここで注目してもらいたいのは、「魂」が生前に見知っていたもの、言い換えるならば、われわれが一般に「学び」と呼ばれていることを経験することによって「想起」するものとして「等しさそのもの」という概念が使われており、なおかつ、その「等しさそのもの」のほかにも様々な「〜そのもの」が「想起」の対象として想定されていることです。
再び『メノン』を思い出してもらいたいんですが、『メノン』のなかで「想起」の対象とされているのは、「想起」が実際に生じる過程を示すためになされた対話の中で提示された「対角線」ぐらいのもので、この「想起」の対象に関するそれ以外の言及はこれといってなされていませんでした。
しかし、『パイドン』にいたって、「想起」の対象としての「〜そのもの」という考え方が明確に打ち出されることになるんです。
そして、このことは同時に、「想起」が「〜そのもの」を把握する手段として確立されたということを意味します。
つまり、『パイドン』では、「想起」によって「魂の不死」が立証されることで、探究の方法という側面から、最終的な探求の対象である「〜そのもの」、ずなわち、イデアへと認識者の側がどのような仕方で到達するのかが完全に確立されたことになります。
さて、2-2-1と2-2-2で展開された考察によって、一般に「イデア論」と呼ばれて親しまれているプラトンの思想は、「探究の対象」という側面と「探究の方法」という側面の両面からおおよそ確立されたことになります。
ただ、ここで一つ注意しておいてもらいたいことがあります。
それは、2-2-1ではイデアには「身体」ではなく「魂」を通じて到達するとされていたのに対して、2-2-2では「感覚」という身体的なものをきっかけとして「想起」がなされ、その結果としてイデアへ至るとされていた点です。
このことは一見すると矛盾するように見えます。
しかし、よく考えてみると、「魂」を通じてイデアにいたるということと、「感覚」をきっかけにしてイデアを想起するということは決して矛盾することではありません。
通常、われわれは、何か等しいと思われるものを見たからといって、そこから「等しさそのもの」なんていう得体の知れないものい思いがいたることはないですよね。
しかし、ある程度哲学的な素養のある人と『メノン』におけるソクラテスと子供の事例のように特定の会話を経験するのであれば、感覚的に把握された「等しいもの」から「等しさそのもの」へと辿り着きます。
つまり、「等しいもの」から「等しさそのもの」へと至るには、「感覚」だけではなくある種の論証というか、非感覚的な「思考」の部分が必要になるんですね。
実際、『メノン』においてソクラテスと子供が展開した対話も、考察の対象となる図形を「見」ながら思考をめぐらせることによって成立していました。
つまり、イデアの認識における「感覚」と「魂」の関係は矛盾関係ではなく、むしろ、料理のように、「感覚」が材料として獲得した「等しい」という経験を、「魂」が「思考」という手段で調理することによって「等しさ」へと練り上げていくという共同作業だと考えることができます。
さて、さっきも言いましたが、これら2-2-1と2-2-2で展開してきた議論によって、「イデア論」と呼ばれる考え方はおおよそ確立されたと考えていいでしょう。
しかし、プラトンは自らの思想に「おおよそ」という要素が介入することを許しません。
イデア論の完成には、『饗宴』と『パイドン』には現れていないもう一つ非常に大切な要素があります。
その大切な要素とはいったい何なのでしょうか。
また、イデアの概念もそれを把握する方法も確立されたのに、なぜその「もう一つの大切な要素」が必要とされたのでしょうか。
2-3では、この点について、プラトンの対話篇のなかでも最高傑作と呼び声高い『国家』に言及しながら検討していきたいと思います。
2-3、イデア論の完成 ―『国家』―
いや〜、長いですねぇ、このコンテンツ。
こういう長い文章を書いていると、自分の要約能力の無さが嫌になります。
さて、そんな自己嫌悪はさておいて、この2-3では、『パイドン』において確立されたかにみえたイデア論が、さらにより高度なレベルで完成する過程について概観します。
その際に使う対話篇は、全対話篇の中でもNo.2の大きさを誇る『国家』です(ちなみにNo.1は後期対話篇の『法律』)。
その大きさが物語っているように、『国家』のなかで語られる話題は実に多岐にわたっていますが、今回このコンテンツで扱うのは主に「善のイデア」と呼ばれるものに関する記述がなされた部分です。
より具体的に言うと、有名な「洞窟の比喩」が登場する第七巻あたりを中心に扱うことになるんですが、この箇所に関する議論は「プラトン入門」的なタイトルが関された多くの著作でも扱われているものですので、何かしらそういった著作を読んだことのある方にとっては、このコンテンツで扱う内容は比較的なじみやすい話になると思います。
2-3-1、『パイドン』における「善のイデア」の扱いと『国家』における「善のイデア」の扱いの違い
2-3-1で行うのはある種の問題提起です。
それに際して、まずは『国家』に入る前にちょっと『パイドン』を思い出してみましょう。
2-2-1で『パイドン』の文章を引用した際、その中にはこんな一節があったことを覚えてますでしょうか?
『パイドン』
「では、シミアス、次の点についてはどうだ。われわれは、何か正義そのものが存在する、と言うのかね、それとも、言わないのかね」
「ゼウスにかけて、確かに言います」
「さらに、また、美や善は」
「もちろんです」
「では、今までに、こういうものの何かを君は目で見たことがあるか」
「けっして、ありません」
「では、君は、目以外の他の肉体的な感覚によってそれらを把握したことがあるか。僕は、全ての物事について語っているのだ。たとえば、大きさ、健康、力、一言でいえば、他のすべてのこういうものごとの本質、それぞれのものごとが正にそれであるところのもの、について語っているのである。いったい、これらのもののもっとも真実な姿が肉体を通して見られるであろうか。それとも、こういう事情なのではないか。われわれのうちの誰にもせよ、自分が自分が考察するものごとについて、そのもの自体をもっとも充分にそしてそしてもっとも厳密に思考しようと準備する者が、それぞれのものを知ることにもっとも接近するのではないか」
「まったく、その通りです。」
同じ箇所を2回引用するというのはちょっと気がひけるんですが、いちいちスクロールさせてその場所を確認してからここに戻ってくるっていう作業も面倒ですからここに再引用しておきます。
で、この引用文のどこに注目して欲しいかというと、「さらに、また、美や善は」と「僕は、全ての物事について語っているのだ。たとえば、大きさ、健康、力、一言でいえば、他のすべてのこういうものごとの本質、それぞれのものごとが正にそれであるところのもの、について語っているのである」の部分です。
そもそも、ここに引証した箇所は「〜そのもの」という概念が『饗宴』で提出された「美そのもの」以外のものにも拡張されていることが示されている箇所なんですが、このなかで「善そのもの」(「善のイデア」と読み替えてもらってもけっこうです)は他の「〜そのもの」と同レベルのものとして扱われていました。
ところが、『国家』から引いてきた以下の箇所を見てみると、『国家』における「善のイデア」の扱いがちょっと他のイデアとは違うということがわかります。
『国家』第6巻505a
「さあ、君もまたたずねたまえ。どっちみち君は、たしかにそれを一度ならず聞いたことがあるのだが、いまはそれに気づかないのか、あるいは、またしても、しつこくつかまえて僕を困らせてやろうという魂胆なのか、どちらかなのだ。ぼくの思うには、きっと後者のほうだろう。げんに君は、<善>の実相(イデア)こそは学ぶべき最大のものであるということは、何度も聞いているはずだからね―-この<善>の実相がつけ加わってはじめて、正しい事柄もその他の事柄も、有用・有益なものとなるのだ、と。…」
この箇所と同じような仕方で「善のイデア」が語られている箇所は他にもあるんですが、どうでしょう、明らかに『パイドン』のときと「善のイデア」に対する扱いが違うと思いませんか?
つまり、『パイドン』のころはまだ「善のイデア」が他のイデアと同じレベルのものとして扱われているのに対して、『国家』になるとそれが「学ぶべき最大のもの」とか「この<善>の実相がつけ加わってはじめて、正しい事柄もその他の事柄も、有用・有益なものとなる」と呼ばれて、ちょっとワンランク上な感じで扱われるようになっているんですね。
『パイドン』と『国家』の間では同じ「善のイデア」をめぐってなぜこのような扱いの差が生じたのでしょうか?
ここからは、この扱いの差に着目することを通じて、プラトンの思想におけるイデア論の完成を見て行きたいと思います。
2-3-2、「太陽の比喩」
2-3-1では『国家』における「善のイデア」について、それが「学ぶべき最大のもの」とか「この<善>の実相がつけ加わってはじめて、正しい事柄もその他の事柄も、有用・有益なものとなる」と呼ばれているということを示しましたが、これだけだと、『国家』における「善のイデア」がどういうものなのかちょっとわかりづらいですよね。
ですから、この2-3-2から先は『国家』における「善のイデア」の概念について、『国家』のなかで実際に使われている三つの比喩を用いて検討していきます。そして、これら三つの比喩をすべて検討し終わったとき、そこには、イデア論の完成があるはずです。
先ずは『国家』の第6巻で登場する「太陽の比喩」を見てみましょう。
「太陽の比喩」を導入する際、先ずプラトンは、この世界のあり方として「見られる世界(感覚によって把握される世界)」と「思惟によって知られる世界」の二つを提示します。
そして、これら二つの世界を提示したうえで、プラトンは、「見られる世界」において成立しているイデア論の仕組みを確認し、そのイデア論の仕組みをわれわれの視覚が成立する仕組みになぞらえて以下のような仕方で説明します。
○イデア論の仕組み
○視覚が成立する仕組み
これら二つの仕組みのうち、一方のイデア論においては認識者の魂が自分からイデアを観に行くのであり、もう一方の視覚が成立する仕組みにおいては視覚が受動的に光を受け取るわけですから、その点において両者は異なっています。
しかし、前者の仕組みが認識者とその対象という二者だけでは成立せず、それら二つのものとは別の第三者としてイデアを必要とするのであり、また、後者も同様に「見るもの」である視覚と「見られるもの」であるその対象という二者だけでは成立せず、第三者のものとして「光」というものが必要になるという点で、同じ原理を共有するものであると考えることができるでしょう。
そして、これら二つの仕組みのように、「見るもの」と「見られるもの」という二つのものプラスそれらの両方に共通して影響を与える第三者が必要となる仕組みを提示したうえで、プラトンは話題を感覚によって把握される「見られる世界」から「思惟によって知られる世界」に転換します。
先に『パイドン』について概観したときに、そこではイデアは「感覚」をきっかけにして「魂」によって知られるものとされていましたが、ここでいう「思惟によって知られる世界」とは魂が直接的にイデアを認識する領域のことです。
魂が直接的にイデアを認識する世界というと、「想起」に関する議論を概観したときに「生前の魂がイデアを見知る」という要素がありましたから、そのような世界を単純に「死後の世界」もしくは「魂が人間の肉体に宿る前の世界」と考えがちだとおもいます。
しかし、人間の肉体に魂が宿った後(すなわち、その魂を持つ人にとっては「産まれた後」ということになります)であっても、感覚に依存せずに純粋に魂だけを用いた思惟活動ができるのであれば(プラトンがそのような活動に対して「できる」と考えていたのか「出来ない」と考えていたのかは定かではありませんが…)、別に生まれる前や死んだ後でなくても「魂」が直接的に「イデア」を把握するということは可能でしょう。
ですから、ここでプラトンが主張する「思惟によって知られる世界」というのを一概に「生前」や「死後」と結び付けてしまうのは間違いでしょう。
さて、話を「見られる世界」から「思惟によって知られる世界」に転換したプラトンですが、通常、「魂」が直接的にイデアを認識するというのであれば、その図式は以下のようなものであると考えられます。
○魂によるイデアの認識モデル…その1
しかし、プラトンは上で示したような認識モデルでは不十分であり、実際には以下のようなものであると主張します。
○魂によるイデアの認識モデル…その2
つまり、プラトンは認識者である「魂」と認識対象である「イデア」の上に「善」が存在し、その「善」が両者に対して何らかの作用を及ぼしているからこそ「魂」による「イデア」の認識が成立すると主張するんです。
その場合に問題となるのは、「善」が両者に対して及ぼす作用としてプラトンがどのようなものを想定していたのかという点です。それに関しては、私が下手に説明するよりも、プラトンが『国家』のなかで実にうまいこと表現しているので、その該当箇所を以下に引用します。
『国家』第6巻508c
「目というものは」とぼくは言った、「君も知っているように、もはやこれを、白昼の光が表面の色どりいっぱいに広がっているような事物には向けずに、夜の薄明かりに蔽われている事物に向けるときには、ぼんやりとにぶって、盲目に近いような状態となり、純粋の視力を内にもっていないかのようにみえるものだ。」
「大いにそのとおりです」と彼。
「けれども、思うに、陽光に明るく照らされている事物であれば、はっきりと見えて、同じその目の内に純粋の視力が宿っていることが明らかになるのだ。」
「たしかにそうです」
「それでは、同様にして魂の場合についても、次のことを心に留めてくれたまえ。――魂が、<真>と<有>が照らしているものへと向けられてそこに落ち着くときには、知が目覚めてそのものを認識し、その魂は知性をもっているとみられる。けれども、暗闇と入り混じったもの、すなわち、生成し消滅するものへと向けられるときは、魂は思惑するばかりで、様々の思惑を上へ下へと転変させるなかで、ぼんやりとしかわからず、こんどは知性をもっていないのと同じようなことになる」
「たしかにそういうことになります」
「それでは、このように、認識される対象には真理性を提供し、認識する主体には認識機能を提供するものこそが、<善>の実相(イデア)にほかならないのだと、確言してくれたまえ。それは知識と真理の原因(根拠)なのであって、たしかにそれ自身認識の対象となるものと考えなければならないが、しかし、認識と真理とはどちらもかくも美しいものではあるけれども、<善>はこの両者とは別のものであり、これらよりもさらに美しいものと考えてこそ、君の考えは正しいことになるだろう。これに対して知識と真理とは、ちょうど先の場合に、光と視覚を太陽に似たものとみなすのは正しいけれども、それがそのまま太陽であると考えるのは正しくなかったのと同じように、この場合も、この両者を<善>に似たものとみなすのは正しいけれども、しかし両者のどちらかでも、これをそのまま<善>にほかならないと考えるのは正しくないのであって、<善>のあり方はもっと貴重なものとしなければならないのだ」
〜中略〜
「ぼくの思うには、太陽は、見られる事物に対して、ただその見られるというはたらきを与えるだけではなく、さらに、それらを生成させ、成長させ、養い育むものでもあると、君は言うだろう――ただし、それ自身がそのまま生成ではないけれども」
「ええ、むろん生成ではありません」
「それなら同様にして、認識の対象となるもろもろのものにとっても、ただその認識されるということが、<善>によって確保されるだけでなく、さらに、あるということ・その実在性もまた、<善>によってこそ、それらのものにそなわるようになるのだと言わなければならない――ただし、<善>は実在とそのまま同じではなく、位においても力においても、その実在のさらにかなたに超越してあるのだが」
さて、以上が、「思惟によって知られる世界」で「善」が認識者とその認識対象の両方に与えている影響に関するプラトンの見解です。
そして、この主張に基づいて「魂によるイデアの認識モデル…その2」を書き換えると以下のようになります。
○魂によるイデアの認識モデル…その3
つまり、プラトンは「魂」と「イデア」の上に「善」が存在し、その「善」が「魂」の側には「認識機能」を与え、「イデア」の側にはその「実在性」と「真理性」を提供しているということを主張し、さらに、「善」から両者にそれらのものが提供されるがゆえに「魂」による「イデア」の認識が成立すると主張したんです。
さて、以上が、「太陽の比喩」によって提示されている「善」(「善のイデア」と思っていただいてけっこうです)の役割です。
プラトンにとって「善」とは、「見られる世界」において視覚とその認識対象との間に感覚的認識を成立させている「太陽」と同じように、「思惟によって知られる世界」において認識者である「魂」と認識対象である「イデア」とのあいだに認識関係を成立させているものだったんですね。
2-3-3、「線分の比喩」
2-3-2では、「善」は「魂」と「イデア」との間に認識関係を成立させるために必要なものとされていたということを概観しましたが、ここへ来てプラトンは「線分の比喩」という新たな比喩を提出して人間の認識を四種類に分類します。
その「線分の比喩」がこの2-3-3の考察対象になるわけですが「線分の比喩」は、人間の認識を四種類に分類するという性格上、「善のイデア」に関する記述はそれほどなされません。ですから、2-3の冒頭で「ここでは善のイデアの概念について検討する」的なことを言いましたけど、ここではそのことは一旦忘れてくださってもけっこうです。
さて、プラトンと対話篇を一読されたことのある方はわかると思うんですが、プラトンの文章って読みやすいですし、そのなかで展開される議論もスッキリしていてわかりやすいんですが、この「線分の比喩」はどうも…、わかりづらいんですよね……。
まぁ、でも、なにはともあれ、何も言わずに以下の図を見てください。
○線分…その1
ちょっと思い出して欲しいんですが、「太陽の比喩」を取り入れたときにプラトンは「見られる世界」と「思惟によって知られる世界」という二つの世界を提出しましたよね。
プラトンは「線分の比喩」を取り入れる際にも、議論の前提としてこの二つの世界を取り入れます。
そして、上に示した線分ABをACとCBに分けて、ACの部分を感覚的に把握される「見られる世界」に、CBの部分を「思惟によって知られる世界」に割り当てます。
続いて、このABをACとCBにわけた割合と同じ割合で、AC(「見られる世界」)をADとDCに分けます。そして、このADをわれわれが感覚的に把握する鏡像や似顔絵のような「似姿」と呼ばれるものに、もう一方のDCを「似姿」の「実物」に割り当てます。
さらに、今度は「思惟によって知られる世界」に割り当てられているCBの部分をCEとEBに分割し、このCEの部分を、「見られる世界」に存在する「実物」を手掛かりにして考察されるものに、もう一方のEBをイデアそのものに割り当てます。
CEとEBのそれぞれに割り当てられているものの説明がいまいちわかりづらいかもしれませんが、実際にプラトンが『国家』のなかで用いている例え話にならってこんなふうに考えて見て下さい。
つまり、CEに割り当てられている「『実物』を手掛かりにして考察されるもの」を、学校の授業で習った図形の応用問題のようなものと考えて、EBに割り当てられている部分を同じ図形を使うものであっても「三角形とは何か」とか「四角形とは何か」といった定義を問題とするようなものだと考えて見て下さい。
学校の算数の時間に勉強する図形の応用問題は、三角形や四角形については「それはそういうものである」ということを前提としたうえで、その三角形の性質を使ってA地点からB地点までの長さを明らかにしたり、特定の空間の面積を求めたりします。
それに対して、図形それ自体を問題にする思考は、補助線などを用いて「三角形そのもの」について「内角の和は180度である」といった定義的なことを探究します。
このように、それぞれ探究の対象を異にするものをCEとEBに割り当てるんです。
また、プラトンはAD、DC、CE、EBの四つの範囲でそれぞれに働く認識作用を、AD=映像知覚(間接的知覚)、DC=確信(直接的知覚)、CE=悟性的思考(間接知)、EB=知性的思惟(直接知)と呼んで分類しています。
これまでの部分って、なんとなく文章だけだとわかりづらいですけど、いま説明してきたようなことを加味して再度プラトンの線分を図で表すと以下のようになります。
○線分…その2
以上が、「線分の比喩」を用いてなされた人間の認識の分類です。
さて、これまでの議論をまとめると、プラトンは「太陽の比喩」によって「思惟によって知られる世界」における認識のあり方を明らかにし、「線分の比喩」によって「見られる世界」と「思惟によって知られる世界」の両方でなされる人間の認識すべてを四つに分類しました。
この二つの比喩は、最終的に「洞窟の比喩」という有名な比喩に纏め上げられることになります。
次の項目では、その「洞窟の比喩」について概観します。
長かったプラトンのコンテンツですが、ようやく、イデア論の完成を見るところまで来ました…
2-3-4、「洞窟の比喩」
中期対話篇の議論もいよいよ終盤に差し掛かってきました。
これまで、2-3-2では「太陽の比喩」によって示されるイデア論における善のイデアの位置を確認し、2-3-3では「線分の比喩」によって示される人間の認識の分類を確認しました。
この2-3-4では、それら二つの比喩を統合し、イデア論の完成形が表現されている「洞窟の比喩」を概観します。
この「洞窟の比喩」は『国家』第七巻の冒頭にいきなり登場します。
色々と説明されているんですが、まぁ、何はともあれ、以下の図を見て下さい。
○洞窟の比喩
画像のサイズがデカくてちょっと申し訳ないんですが、ウィンドウのサイズを大きめにして見て下さい。
この図に描かれている洞窟の中では、奥の方に囚人が縛り付けられています。
この囚人は生まれてからずっと洞窟の奥の壁だけを見るように強制されていて、それ以外の方向に顔を動かすことはできません。
その囚人のずっと後ろでは松明が煌々と燃えています。
そして、その囚人のすぐ後ろのところで、看守(?)がその松明の光を使って様々なものの影を、洞窟の奥の壁に映し出しています。
つまり、洞窟の奥にとらわれている囚人は生まれてからずっと洞窟の奥の壁に映る影しか見たことが無いんですね。
あるとき、そんな囚人に壁とは反対方向を向くように命令します。
すると、当然のことながら、その囚人は、看守とその看守が持っている様々なものを見ることになります。
しかし、この囚人は生まれたときから影しか見たことがないので、看守が「お前が今まで見ていたものは俺が持っているこの色々なものの影なんだよ!!」と説明したとしても、「いいや、俺が今まで見ていた黒いフワフワしたやつが本物だよ、なんだよ、そのガラクタは?」と主張して、自分が今まで見ていたものは影であり、その看守が持っているものこそが影の実物であるということを理解しません。
つまり、このむりやり後ろを見るように仕向けられた囚人は、より真実性のあるものを認識しているのに、その新しく認識した影の実物を自分がそれまで見ていたものよりもより高いレベルの真実性を持つものだとは考えられないんですね。
さて、急に後ろを見るように仕向けられた囚人は、ここからさらに、看守のはるか後ろにある松明の火を直接見るように強制されます。
すると、今までずっと薄暗い影しか見たことのない囚人は「目が痛い!目が痛い!」と言って、自分がそれまで見ていた洞窟の奥の壁に向き直ろうとします。
しかし、サディスティックな素質を多分に持っている看守は、そんな苦しんでいる囚人をさらに無理やり引っ張っていって、太陽がガンガン照っている地上まで引っ張っていこうとします。
ところが、この囚人は目が「明るさ」や「光」というものにまったく慣れていないため、実際に、地上に連れて行かれても、太陽のあまりのまぶしさに目がくらんでしまって何も見ることができません。
そんなかわいそうな囚人ですが、目が少しずつ少しずつ「光」になれていくに連れて、地上にある様々な色とりどりの事物を見ることができるようになりますし、最終的には、天上に輝く太陽それ自体も見ることができるようになり、地上の事物や太陽についていろいろ知りたがるようになります。
そんな具合に、めっきり普通の人と同じように暮らせるようになった囚人ですが、あるとき、この囚人はふと自分が昔暮らしていた洞窟の中の生活を思い出します。
すると、かつてあれほど「目が痛い!目が痛い!」と言っていたにもかかわらず、「あの頃の俺って、アリかナシかでいったらナシだよなぁ…」といった具合に、過去の自分自身に対して憐れみを抱くようになります。
そして、ある日、以前洞窟の中で過ごしていたときの仲間たちを哀れんで、「いっちょ、戻ってみるか…」と思い、明るい地上から再び洞窟の中へ入っていきました。
洞窟に入ったばかりの彼は、地上の明るさに慣れているため、洞窟の中の暗さに目が慣れずにとまどいます。
しかし、目が少しずつ洞窟の暗さに慣れていくにしたがって、囚人はどんどん奥へ進んでいくことができるようになります。
やっとの思いで洞窟の奥へ辿り着いた囚人は、そこでかつての自分の仲間達と再会します。
仲間達は以前の自分と同じように、ずっと洞窟の奥の壁ばかりを見て暮らしていますが、そんな仲間達に地上からやってきた囚人は自分がこれまで見てきたことを包み隠さず全部話して聞かせ、「お前達が見てるのはただの影で、本物はぜんぜん違うんだよ!!」と訴えます。
しかし、そんな話ばかりする囚人のことをかつての仲間達はいぶかります。
「こいつはなにを言っているんだ?俺達が見ている黒いフワフワしたやつが本物に決まってるじゃないか!!」
かつて、地上に出る前の囚人がそうだったように、仲間達もこの囚人の言っていることを信じようとしません。
そして、最終的に、この囚人は仲間達から、「こいつは地上に出ておかしくなった。このままここにおいておくと我々の秩序を乱す!!」とみなされて、リンチを受けて殺されてしまいます。
さて、なんともかわいそうな囚人の話でしたが、これがプラトンが示す「洞窟の比喩」の全容です。
「太陽の比喩」と「線分の比喩」を検討したときに、プラトンがこの世界を感覚によって把握される「見られる世界」と知性によって把握される「思惟によって知られる世界」の二つに分けたことを覚えていますでしょうか?
「洞窟の比喩」において、これら二つの世界はそれぞれ
「見られる世界」=「洞窟の中」
「思惟によって知られる世界」=「地上」
という仕方で対応付けられています。
そして、この比喩に登場する哀れな囚人こそが、我々自身です。
つまり、プラトンにとって普段暮らしている我々は、認識の真理性という意味では洞窟の中で暮らしている囚人と同じであり、洞窟の外にある自然界の様々な事物やそのはるか上に輝く太陽については何も知らないということです。
この「洞窟の比喩」を「線分の比喩」で解析してみると以下のようになります。
線分AD(映像知覚):洞窟の奥で囚人が影を見ている状態
線分DC(確信):洞窟のなかで囚人が看守の持っている様々なものや松明を見ている状態
線分CE(悟性的思考):洞窟から出て行く途中や地上に出たときに囚人が「目が痛い!目が痛い!」と言っている状態
線分EB(知性的思惟):地上の明るさに慣れて囚人が地上のものや太陽そのものについて色々と知りたがり、実際にそれらについて様々な知識を獲得している状態
また、この「洞窟の比喩」でいわれている地上の世界の状態を細かく表現しているのが「太陽の比喩」です。
つまり、この「洞窟の比喩」はそれまでプラトンが築き上げてきた二つの比喩を総括するもので、この「洞窟の比喩」でいわれているような仕組みが、イデアの認識ひいては太陽にたとえられる「善のイデア」の認識のモデルとして提示されたことで、プラトンのイデア論は完成したと考えられます。
しかし、これまでこの長いコンテンツを延々と読んでこられた方の中には、「結局、太陽の比喩と線分の比喩でイデア論の概念は出揃っていて、洞窟の比喩はそれらをまとめただけじゃないか!!」と考える方もいらっしゃるかと思います。
実際、確かに、諸々の「イデア」や「善」を認識するという点、すなわち、囚人が地上を目指して洞窟から外へと出て行く部分に関しては、「太陽の比喩」と「線分の比喩」だけを見てもイデア論はおおよそ完成していると考えられるでしょう。
しかし、この「洞窟の比喩」の真価は、地上に出て様々な事物や太陽を見た囚人が再び洞窟の中へ戻っていく点にあります。
次の項目では、イデア論という認識のモデル(存在のモデルでもあるんですけどね)が完成したことを受けて展開されるプラトンの更なる主張について検討してみましょう。
2-3-5、哲人王 〜「洞窟の比喩」のもう一つの側面〜
何せ長いコンテンツなので、もう、はじめから読んでくれている方は最初の部分に書いてあったプラトンの生涯に関することなんてとっくに忘れていることと思います。
でも、敢えてお願いします。
思い出してみてください。プラトンがその生涯にわたって三度もシケリアに旅行をし、その地で哲学を修めた王様を誕生させようとしていたことを…
なぜプラトンは「哲学を修めた王様」を誕生させようとしていたんでしょうか?
ていうか、そもそも、プラトンにとって「哲学を修める」ってどういうことなんでしょうか?
プラトンにとって「哲学を修める」とは諸々の「イデア」や「善のイデア」を認識するということでした。
つまり、ありとあらゆる事物について「それは何であるか」もしくは「〜そのもの」を認識しており、ひいては、「善」に対して「善そのもの」を認識しているような状態。
そんな状態のことをプラトンは「哲学を修め」た状態とみなします。
そして、そういう状態に至った人物こそが王にふさわしいとプラトンは考えるわけです。
では、その「哲学を修めた王様」って具体的にはどんな人なんでしょうか?
「洞窟の比喩」を紹介したとき、その比喩の中に、地上に出た囚人が洞窟の中に戻っていって最終的にはタコ殴りにされて殺されたという箇所がありましたよね。
このタコ殴りにされて殺された囚人、この人物こそが「哲学を修めた王様」です。
「死んじゃだめじゃん…」って思うかもしれませんが(実際、死んだらダメなんですが)、プラトンは、イデアや善を認識して哲学を修めた人物はそのような浮世離れした高いところに留まらず、殺されることも覚悟の上で、再び、洞窟の中でおぼろげな影と戯れるかつての仲間たちのところへ戻っていかなければならないと主張します。
「殺される」という残酷な比喩が物語っているように、プラトンが考えているようなことを実現させるには大変な困難がともないます。
実際、三度にわたってシケリアに出向いたにもかかわらず、結局、プラトンは自らの理想をこの地上に実現させることはできませんでした。
国家の統治に対するプラトンのこのような考え方をどう考えるかは個々人の自由です(実際、私は哲学者が王様なんかになったら最悪だろうと思うんですが…)。
しかし、現実問題、プラトンは国家統治のあり方としてそういった仕組みを理想とし、イデア論の完成形の表現である「洞窟の比喩」の一つの側面として、その理想が困難であることを表現したんですね。
さて、以上、2-3-4と2-3-5で概観したことが「洞窟の比喩」の全てです。
しかし、この「洞窟の比喩」を概観したときに(もっと遡って「太陽の比喩」を概観したときでもいいんですが…)、ものすごく素朴な疑問として、「なんで善が一番上なんだろう」と思った方もいるかと思います。
次の2-3-6では中期対話篇を扱う最後のコンテンツとしてこの「なんで善が…」という点について検討します。
2-3-6、なぜ「善」なのか?
「太陽の比喩」を概観したときに、「太陽」に例えられている「善」は、認識者である「魂」の側にも認識対象である「イデア」の側にも、それぞれ認識能力と真理性を付与するものとして登場していました。
この考え方は「洞窟の比喩」にも受け継がれ、実際に、「洞窟の比喩」ではイデア界にあたる地上世界を照らし出す存在として太陽のポジションに位置づけられていました。
しかし、プラトンはなぜ「善」をこのポジションにもってきたのでしょうか?
プラトンを扱う前に、ソクラテスについて概観したんですが、そのときに、ソクラテスが自分が牢獄に座っている理由について、ソクラテス以前の人々が展開しているような自然学的な理由付けではなく、「自分やアテナイ市民がソクラテスはここで座っているほうが善いと判断したから自分はここに座っている」という非自然学的な理由を提示していました。
つまり、ソクラテスは自らの振る舞いの全てを「善」ということに原因づけて考えていたということなんですが、プラトンもこの考え方を自分なりの仕方で引き継いでいるんです。
プラトンにとって「イデア」とは、その問題意識がもっとも素朴かつ明確に提示されていた初期対話篇に見られるように、「〜とは何であるか?」という問いの答えとなるものであり、その意味で、「そのものがそのものであることの根拠」とみなすことができるものでした。
そして、このような考え方を用いることで、プラトンは現実の諸事物に対応する様々なイデアを想定したわけですが、ここでそれら諸々のイデアが「イデアである」ということを保障する原因が必要となりました。
つまり、「イデアのイデア」、言い換えるならば、「それに起因しているがゆえにイデアがイデアであるところのもの」です。
プラトンはこの究極の原因のところに、ソクラテスが提示した「善」という原因を持ってきたんです。
このように考えてみると、プラトンが考え抜いた末に誕生したイデア論の頂点には、そのイでアロンを支える究極の根拠としてソクラテスの「善」が輝いているということになります。
ソクラテスとプラトンの師弟関係を考えると、「善のイデア」と「イデア界」の関係はどことなくその師弟関係を象徴しているようでドラマチックな雰囲気が漂いますよね。
さて、以上が中期対話篇に関する考察です。
いやぁ〜、長かった。
読んでる方はどうだかわかりませんが、書いているほうとしては、正直、疲れました…
でもねぇ、哲学の歴史は長いです。
こんなところで息切れをしている場合ではありません。
次からは、イデア論が完成したことを受けて展開されるプラトン自身の自己批判的な主張について検討します。
難解な著作群として知られる後期対話篇が我々を待っています。
3、イデア論に対する自己批判
初期対話篇から中期対話篇にかけてイデア論を完成させる道を歩んできたプラトンですが、『国家』に至って実際にイデア論を完成させた後、プラトンは自らが作りあげたイデア論の自己批判に向かいます。
後期対話篇
『パルメニデス』 ―イデアについて―
『テアイテトス』 ―知識について―
『ソピステス』 ――
『ポリティコス』 ――
『ピレボス』 ―快楽について―
『ティマイオス』 ――
『クリティアス』 ――
『法律』 ――
『エピノミス』 ――
『書簡集』 ――
ここにあげたのは一般に後期対話篇に属するとみなされている著作群ですが、プラトンによるイデア論の自己批判は主にこの後期対話篇の中で行われています。
本来であれば、これらの著作に一つ一つ言及していくのが筋なんでしょうが、残念ながら、今の私にはこれらの著作をすべて扱うだけの力量はありません。
ですから、ここではこれらの中から主に『パルメニデス』篇をメインにすえて、そのなかで展開されているイデア論批判を検討していきたいと思います。
3-1、イデア論論駁 ―『パルメニデス』―
この3-1では、「諸事物がイデアを分け持つ」という考え方に対するプラトンの自己批判を検討していきます。
でも、その前に、そもそも「諸事物がイデアを分け持つ」とはどういうことだったか復習しておきましょう。
2-3-2で『太陽の比喩』について言及したときに、私が以下のような図を示してイデア論について検討したことを覚えていらっしゃるでしょうか?
○イデア論の仕組み
この図は認識者が花を見て「きれいだなぁ…」と思う仕組みを説明したものですが、「認識者が花を見てきれいだと思う」という事態が成立するためには、認識者の魂が生前に「美のイデア」を見知っており、なおかつ、認識される側の花も「美のイデア」を分け持っている必要がありました。
つまり、認識者は、自分の魂がかつてみたことのある「美のイデア」を分有している花を見ることをきっかけにして、「美のイデア」を思い出し、最終的に、「美のイデア」を分有している花に対して「美しい」という感情を抱くということですね。
この仕組みのなかで、プラトンが問題を見出す箇所は、認識される側の花が「美のイデア」を「分け持っている」という点です。
『パルメニデス』篇は若きソクラテスとパルメニデスがイデアを主題に対話を繰り広げる作品ですが、このなかでプラトンは、「一である」という性質を持つ存在の概念を提示したパルメニデスの口を借りて自らのイデア論を批判します。
『パルメニデス』は比較的大きな対話篇ですが(『メノン』よりも長いですよね…)、なかでもイデア論に対する具体的な論駁がなされている箇所は、127d-136eの部分です。
この範囲で展開される議論は大まかに分けて〜つあるので、説明のゴチャゴチャ感を避けるため、ここから先はそれぞれの議論ごとに一つ一つ説明していきたいと思います。
3-1-1、議論1、両者の立場の確認 〜議論の前提〜
一つ目の議論は、若きソクラテスが「多」を否定するゼノンの議論について、「普通に言われていることのすべてにそむいて」いるという観点から批判を展開することから始まります。
先ず、ソクラテスは、ゼノンの議論を以下のような仕方で確認します。
「ゼノンよ、あなたのこの議論の意味はどういうことになるのですか。もし存在が多ならば、果然それは似ていて似ていないということにならなければならない。しかしそれは不可能である。なぜなら、似ていないものが似ているということもありえないし、似ているものが似ていないということもありえないから、というのかしら?あなたの言われるのは、こういうことではありませんか」
「その通り」とゼノンは答えた。
このような仕方で、ソクラテスはゼノンの議論を確認するわけですが、何の前触れもなくいきなり「存在が多であるならば、それは似ていて似ていないということになる」といわれてもよくわかりませんよね。実際、ゼノンについて言及したところでみたように、ゼノンはパルメニデスの学説を補強するにあたって、「多」を仮定した場合に生じる二律背反として「存在者は無限に大であり無限に小である」という不都合を提示していましたが、この「似ていて似ていない」というのは何の検討もされていませんでしたね。
いったいなざ、存在が多だとそれは似ていて似ていないことになるのでしょうか?
考え方は色々あると思うんですが、これは、恐らく、仮に存在が多であるならば、存在者Aは他の存在者Bには似ているけれども、別の存在者Cには似ていないという意味で、Aは似ていてかつ似ていないものになるということだと思います。
もっと具体的にいうと、プリティ長嶋は長嶋茂雄には似ているけれども王貞治には似ていない、それゆえ、プリティ長嶋は似ていてかつ似ていない存在者であるということです。
さて、この『パルメニデス』篇のなかで、ソクラテスはイデア論という多様な実在の存在を想定する側に立っていますから、ゼノンの展開する議論によって存在の「多」が否定されると困るわけです。
それゆえ、ソクラテスはイデア論的な考え方を使ってなんとかゼノンの議論を論駁しようと試みます。
「そこで答えていただきたいのです。あなたは<似る>ということ(類似性)が何らかの種目(形相)としてそれ自体で独立に存在することを認めませんか。またさらにこのようなものに反対の何か他のもの、すなわちまさにそれこそ<似ない>のであるというもの(不類似性)の存在を。そして、この二つの存在に対して、わたしやあなたやその他の、雑多とわれわれが呼ぶところのものが、組をなしていっしょにこれを所有(共有・分有)するようになる(=分取する)ということを。そしてあるものはその<似る>という形相を分取することによって似るものとなり、あるものは<似ない>の分取によって似ないものとなり、またあるものは両者とも分取することによって両方になる、ただしそれはそのように分取する限りにおいて、またどれだけ分取するかに応じてそうなるのだということも。そしてもし万物が相反する二つのものを分取するとして、もしそれらがその二つの分有によって直接相互に似たり、似なかったりするものとしてあるとしても、何の驚くことがありましょう。」
つまり、ソクラテスは「類似性のイデア」「不類似性のイデア」といったイデアを想定し、これら二つのイデアを両方分有しているのであれば、「似ていて似ていないもの」が存在することは十分に可能であり、「多」を否定するゼノンの議論は成り立たない、言い換えるならば、諸々のイデアといった多様な実体やそれを分有様々な存在者を想定しても大丈夫だということを主張するんです。
この段階で、対立する両陣営の主張が余すところなく提示されたことになります。
つまり、パルメニデス・ゼノン連合の側は「多」を否定する立場、ソクラテスの側は諸々のイデアやらそれらを分有する存在者など「多」を肯定する立場です。
ここで引用したソクラテスの主張によって、ゼノンの主張が論駁されたかどうかは一旦置いておいて、ここから、『パルメニデス』で展開される議論は、異なる立場に立つ両陣営の主張を戦わせる仕方で本格的なイデア論批判に向かうことになります。
3-1-2、議論2、イデア論批判その1 〜イデアの分有〜
『パルメニデス』で実際に議論を展開する両陣営の立場が確認されたことを受けて、パルメニデス・ゼノン陣営の側から本格的にイデア論批判が始まります。
イデア論批判の本論に入る前に、パルメニデスは以下のように主張してソクラテスは多種多様なイデアを想定しているという事実と、そのイデアが持つある一つの特徴を確認します。
「そこで私に言ってもらいたいのだが、君の言っているその区別、つまり一方では形相がそれ自体で別に存在し、他方ではこれを分有するものがまた別にあるというのは、きみ自身がそう考えてのことなのかね。そして<類似>そのものが、われわれの持っている類似性とは別の何ものかとして存在すると、きみには思われるわけなのかね。また一と多など、今しがたゼノンから聞いたものすべてについても」
「はい、わたしはそう考えています」とソクラテスは答えた。
「きっとまた次のようなものも?」とパルメニデスは言った。「例えば<正>の何か形相といったものが、それ自体として独立に(それ自体だけで)あるし、<美>や<善>など、またそういったすべてのものの形相も?」
「はい」と彼は答えた。
「ではどうかね、人間の形相は?われわれやわれわれ同様のすべての人間とは別の、何か自体的な<人間>の形相は?あるいはまた火や水のも?」
「それらについては、パルメニデス、どちらともきめられずに、何度も迷いました、さっきの場合と同じように、これを認むべきか、それともちがうかと」
〜中略〜
「しかしまあそれはそれとして、どうかぼくに次の点を答えてくれたまえ。つまりきみの主張だと、何か形相といったものが存在するときみには思われるというのかね。そしてここ(われわれの周囲)にあるもの、すなわち形相とは違う他のものは、その形相を分取することによって、その形相が持っている呼称を[自分たちも]もつようになる。例えば<似>を分取することによって似、<大>を分取すれば大、<美>や<正義>を分取すれば正あるいは美となるというのかね」
「ええ、すっかりその通りです」とソクラテスが答えた。
つまり、パルメニデスは、ソクラテスが「イデア」として多種多様なものを想定しているということと、その「イデア」はそれを分有するものをそのイデアと同じ名前で述語付けるという性質を持っているということの二点を確認するんです。
そして、この確認作業を終えた後、パルメニデスは本格的に一つ目のイデア論批判を展開します。
その際、パルメニデスが目をつけるのは諸々の事物がイデアを「分有する」という点です。
パルメニデスは以下のように主張して、「イデア」と「分有」相互間の相性の悪さを指摘します。
「分有」とは読んで字のごとく「分かれた状態で有る」すなわち「分け持つ」ということなんですが、不可分で一なる存在者を想定するパルメニデスは以下のように主張して「分有」の概念からイデアを論駁しにかかります。
「してみると、ソクラテスよ」とかれは言った。「形相そのものが部分に別れてあることになる。そして形相を分有するものも、形相の部分を分有することになるだろう。そして各々のもののうちに内在しているのは、もはや全体ではなくて、各形相の部分であるということになるだろう」
「ええ、そう見えます、少なくともそういうふうに見る限りは」
「すると、ソクラテス、そもそもきみが主張しようとするのは、われわれにとっては一つのものとしてある形相が、本当は部分に分けられるということなのかね。そしてそれでも形相はなお一つのものなのだろうか」
「いいえ、けっして」と言った。
さて、ソクラテスの側としては「イデア」を分有することで諸々の存在者がそのイデアによって特徴付けられるものになるというイデア論の基本的な考え方を堅守したいわけですが、そんなソクラテスに対して、パルメニデスは、「一」であるはずの「イデア」が仮に分有されるとしたら、それは部分を持っているのであり、その「部分を持っている」という点で「イデア」は「一」ではなくなると主張します。
ソクラテスが「いいえ、けっして」と述べていることからも明らかなように、ソクラテスはイデアが部分を持っているということをきっぱり否定するわけですが、この時点で、仮に部分を持たないのであれば「分有」という概念は成立しないことになりますし、また、仮にソクラテスが「うん、部分を持つよ!!」と主張してパルメニデスの批判を受け入れてしまうのであれば、イデアそれ自体よりも劣ったものであるイデアの部分によって特徴付けられる諸事物が、イデアそれ自体と同じ性質を共有するという不都合が生じます。
表現が抽象的なので何をいっているのかよくわからないかもしれませんが、対話篇の本編で示されているように、「大そのもの」や「小そのもの」といった事例で考えるとわかりやすいです。
「大そのものの部分」は当然のことながら「大そのもの」よりも小さいはずです。ところが、その「大そのものの部分」を分有している事物は「大そのもの」よりも小さい「大そのものの部分」を分有しているはずなのに、「大そのもの」と同じように「大」になってしまいます。
このような不都合が生じてしまうので、パルメニデスは「一」である「イデア」は「部分を持たない」がゆえに「分有されない」という観点からイデア論の不備を指摘します。
これが『パルメニデス』篇における一つ目のイデア論批判です。
3-1-3、議論3、イデア論批判その2 〜第三の人間〜
「イデアの分有」という観点から一つ目のイデア論批判が展開された後、間髪入れずにパルメニデスは二つ目のイデア論批判を展開します。
この二つ目の批判は後にアリストテレスによって「第三人間論」として定式化され、イデア論批判の中でも最も強固なものとして提示されることになります。
で、その具体的な批判内容ですが、この『パルメニデス』篇のなかでは「人間」という例を用いては提示されておらず、ここでは「大」という事例を用いて提出されています。
「ところで、その<大>自体とそれ以外のもろもろの大だが、これらを[大自体ももろもろの大も一括して]今と同じように向こうにまわして心で見るとしたら、どうなるかね。そこにまた、これらすべてが大と見られる所以の、何か一つの<大>といったものが現れて来ることになるのではないかね」
「かも知れません」
「してみると、もう一つ別の<大>の形相が立ち現れて、すでにこれまでにあった大自体とこれを分有している[もろもろの大なる]ものとの外側に並ぶということになるだろう。そしてさらにまたこれらすべての上にもう一つ別の形相が現れ、今度はこれによってそれらすべてが大であることになるだろう。そしてだ、きみのいう形相なるものは、どれももはや一つではなくて、むしろ無限に多いということになるだろう」
イデア論の仕組みは先に図で説明しましたが、このパルメニデスの批判を理解するためにもう一度図で書き換えると、通常のイデア論の仕組みは以下のように図示することができます。
○通常のイデア論の仕組み
つまり、A、B、C、Dといった「大きいもの」は「大のイデア」を分有しているがゆえに大きいということです。
しかし、この仕組みに加えて、対話編中のパルメニデスは、この図で描かれている全体像を俯瞰してみた場合、「大のイデア」それ自体を「大」であるとし、なおかつ、諸々の「大きなもの」をも大とするようなもう一つの「大」が必要だと主張するんです。
そして、このパルメニデスの主張する新たな「大」を取り入れたものを図式化すると以下のようになります。
○パルメニデスが主張する仕組み
「大のイデア」を分有している「大きいもの」は大きいわけですが、当然のことながら、「大のイデア」も大きいわけです。
パルメニデスはこの点に着目して「大のイデア」を「大きい」とする根拠、すなわち、「もう一つの大のイデア」を想定するわけです。
しかし、このような考え方は、本編の中でも登場の人物のパルメニデスが指摘しているように無限に続きます。
つまり、「大のイデア」が「大」であるために分有する「もう一つの大のイデア」は、その「もう一つの大のイデア」が「大」であるために「さらにもう一つの大のイデア」を分有している必要がありますし、その「さらにもう一つの大のイデア」が「大」であるためには「さらにさらにもう一つの大のイデア」を分有して……、といった具合に無限に続くことになります。
無限に続くとなってしまうともうこれは対処のしようがありませんから、パルメニデスはこのイデアの無限後退という観点からイデア論を批判するんです。
さっきも書きましたが、アリストテレスはこの批判の形式を「大のイデア」ではなく「人間のイデア」を用いて、再度、定式化します。
このアリストテレスバージョンのイデア論批判も基本的な考え方はいっしょです。
つまり、人間は人間のイデアを分有しているから人間だけれども、人間のイデアが人間であるためには、人間のイデアがそれを分有するもう一つ第三の人間が必要になるというものです。
一般に「第三の人間論」と呼ばれるこの形式のイデア論批判が、イデア論批判としては最も有名なものだと思います。
3-1-4、議論4、イデア論批判その3 〜ソクラテスの反論とそれに対するパルメニデスの更なる反論〜
「イデアの分有」から展開されるイデア論批判と、「第三の人間論」とよばれるもう一つのイデア論批判、それら二つの批判によってイデア論はかなりのダメージを負ってしまいます。
しかし、ここでソクラテスは一発逆転を狙って「似像」という概念を用いた新たな主張を展開します。
「むしろパルメニデス、次のようなことになるのだと、わたしにはいま至極はっきりと見えているのです。つまりこれらの形相は、ちょうどお手本(原型)のようなものとして、自然のうちに不動のあり方をしているのであって、それ以外のものはこれに似たあり方をするもの、複写物(同じように似せてつくられたもの)としてあるのだということです。そしてこの限りにおいて、形相に対する他の事物の分有(共有)関係というのは、他の事物が形相に似たあり方をさせられる(似せられる)ということにほかならないということになるのです」
この引用文中に示されているように、ソクラテスは「分有」という考え方を放棄して(引用文中では「分有」という語が使われていますが、その内実は「分有」ではないです)、新たに「似ている」という考え方を導入します。
つまり、イデアと諸々の事物の関係は、手本とそれに習ったものの関係であって、その手本にあたるものを分有しているわけではないと主張するんです。
確かに、この考え方だと、個々の事物はイデアの「似像」ということになるので、イデアによる定義という考え方を維持したまま「分有」によって生じる困難を克服することができます。
ですが、そんなソクラテスの主張も、以下に示すパルメニデスの主張によってバッサリと切り捨てられてしまいます。
「すると、いまもし何かが」とかれは言った。「形相に似ているとしたら、その形相の方がその複写物(似せてつくられたもの)に類似していないということがありうるだろうか、とにかくそれに類似するものとして複写された限りにおいてだがね。それとも類似しているものが類似しているものに類似していないなんて法があるだろうか」
「ありません」
「ところで、その類似している方のものが類似している他方のものと同じ一つの形相を共有(分有)するということは、大いなる必然ではないのか」
「必然です」
「そしてそれら類似するものが、それを共有(分有)することによって類似していることになる当のものとは、ちょうどかの形相そのものであるということになるのではないか」
「まったくその通りです」
「したがって、何かが形相に類似するということも、不可能ということになる。そうでないと、形相のほかにいつもまた別の形相が立ち現れることになるだろう。そしてまたその形相が何かに類似するとなれば、またもや別の形相がということになるだろう。そして形相が自分を分有(共有)するものに類似することになりさえすれば、いつも新しく形相が生ずることになって、いつまでもけっしてやむことはないだろう」
つまり、パルメニデスは、イデアに似せてつくられたものとそのイデアとが互いに似ているのであれば、その両方がそれに似ている何か別のもう一つのイデアが必要になると主張しているわけです。
これは、「第三の人間論」でパルメニデスが展開した主張と同じ形式の議論です。
以上のことから、ソクラテスはこの「似像」という考え方によって、「分有」に基づく困難は回避できましたが、「第三の人間論」で提示されるようなイデアのイデアが必要になるのではないかという批判は回避できなかったことになります。
ここで、これまで熱心にこのコンテンツを読んできてくださった方の中には、「イデアのイデアにあたる概念は善のイデアという仕方でイデア論の中にすでに組み込まれていたのではないか」と思う方もいらっしゃるでしょう。
確かに、「善のイデア」はイデアの世界の上で輝く太陽にも例えられているように、諸々のイデアをイデアとして成立させているものでした。
しかし、「太陽の比喩」を紹介した項目で「善のイデア」について検討したときのことをも思い出してもらいたいんですが、「善のイデア」が諸々のイデアに与えていたのは「真理性」と「実在性」だけでした。
つまり、「善のイデア」には「〜である」という仕方でそれを分有するものを特徴付ける要素は含まれていなかったんですね。
以上のことから、ソクラテスが一発逆転を狙って繰り出したパンチも不発に終わったとみなしていいと思います。
そして、この『パルメニデス』篇で提示されたこれら三つの批判によって、一旦は完成したとみなされた「イデア論」には、まだいくつかの問題が残されていたということが明らかになりました。
プラトンは、これらの批判によって自ら提示したイデア論の問題を改めて修正することはありませんでした。
現代の我々には、プラトンが自らのイデア論を修正しなかった理由を特定することは不可能でしょう。
また、イデア論が修正されないまま今日に伝えられた方がよかったのか、それともプラトン本人の手によって修正されたうえで伝えられてほうがよかったのかも、今となってはわかりません。
ですから、今日の我々が言えることといえば、プラトンがイデア論に対して自己批判的な吟味を展開し、その結果として、自らその問題点を明らかにしていたということだけだと思います。
さて、以上を持ちまして、プラトンの哲学に関する言及は終わりにしたいと思います。
いやぁ〜、長かった……。
ひたすら長かった…。
今回、このコンテンツでは、プラトンのイデア論に焦点を当てて、プラトンの著作群を前期対話篇から後期対話篇まで通観したわけですが、対話編中で展開されているプラトンの議論はここに示したイデア論に関する議論だけではありません。
ていうか、むしろ、イデア論に直接言及したものよりも、間接的に言及したものや、もしくは、別の主題について検討している対話篇の方が残存資料の分量としては多いです。
実際、一般的に流通しているプラトンの入門書などで取り上げられている「魂の三部分説」や、「製作者(デーミウルゴス)」という概念が登場するプラトンの自然学が取り上げられている『ティマイオス』篇も、このコンテンツでは扱っていません。
「なぜ、それらの諸問題を扱わないのか?」という疑問は、当然、湧いてくると思うんですが、それらの諸問題を扱っていないのは、それは単に、私自身の力不足が原因です。
ですから、そっち方面のテーマに関しては、今後、私が知識を得たら順次UPしていきたいと思います。
長い長いプラトンのコンテンツでしたが、最後まで読んでいただいてありがとうございました。
「まとめろよ、もっと……」と思っている方も多数いらっしゃるでしょうが、その点に関しては、私の要約能力の乏しさが原因ですのでどうしようもありません。
今後もこの長々としたまとまりのない記述が続きますがご了承ください。
さあ!!次はアリストテレスです!!!プラトンの弟子にして万学の祖と呼ばれる天才の思想をみてみましょう。