ストア派
 エピクロスがサックリ終わったところで、次に、ストア派の思想を見ていきましょう。
 一般には、「ストア派」という言葉で一括りにされがちですが、この人たちの活動は創始者であるキティオンのゼノン(当然のことながらエレア派のゼノンとは別人です)から、ストア派後期に位置づけられる哲人皇帝マルクス・アウレリウスの時代まで、おおよそ400年以上にわたって継続されました。
 ですから、一口に「ストア派」といっても、多くの場合、その活動は「初期」「中期」「後期」の三つに分けて記述されています(「初期」「中期」「後期」というわけ方じゃなくても、「ローマ時代の哲学」とか「ヘレニズム時代の哲学」とか時代によって区別されたりしていますね)。
 周知のように、プラトンが創設したアカデメイアやアリストテレスが創設したリュケイオンは、創設者が死んだあとも、脈々とその活動は受け継がれていたわけですが(活動内容の変質はあったかもしれませんが、活動事態は継続されていました)、このストア派の活動も、その影響力という意味では、それらメジャーな学派の活動と比較しても引けをとらないぐらい大きなものでした。
 ところが、やはり、その思想的な完成度がいまいちだったせいか、彼らの著作はその大部分が失われていて現在残っているのは、ソクラテス以前の自然学者たちと同様、細切れ状態の断片資料のみです。
 よく、「昔から残っているものはいいものだ」みたいな言い方がされることってあるじゃないですか。
 これって「昔から残っている」という命題から「そのものはいいものだ」っていう帰結は引き出せないので、個人的には、「別に関係ないんじゃないの…」とか思ってしまうんですが、こういうストア派のような事例を見ると、やっぱり、プラトンやアリストテレスのように「残っているもの」は完成度が高いのかなぁなんて思ってしまったりもしますね。
 このように、「影響力が強かったにもかかわらず消えてしまった」という経歴を持つストア派ですが、この「消えてしまった」原因について、その思想が「実践」の部分に重きを置きすぎていたからだという考え方があります。
 「理論」と「実践」というのはよく対立概念のように扱われていたりしますが、つまるところ、ストア派はこの二つのうち「実践」の方に偏りすぎていたから、結果として「理論」部分の完成度が低下して後世まで残らなかったということです。
 確かに、残存しているストア派関係の資料をみてみると、「実践」の分野に属しているであろう倫理的な主張が示されているものに多々出会います。
 しかし、ストア派の活動においては、自然学的探究や認識論といった純粋に学問的な探究も、決してないがしろにされていたわけではありませんでした。
 もちろん、それら学問的探究に関するストア派の主張は、プラトンやアリストテレスといった大メジャーと較べると一段も二段も落ちますが、それでも、そういった部分を完全に無視して倫理的「実践」にのみ特化していたというわけではないんですね。
 ですから、このコンテンツではストア派の学問的な部分と倫理的実践の部分の両方に焦点をあてながら、ストア派の主張を大まかに概観していこうと思います。
 あっ、それから、あらかじめ言っておきたいんですけど、これまで、哲学者の学説を概観するときには必ずその生涯から言及していましたが、ストア派に関してはそこに属している人々の「人となり」を示すような資料があんまりないので、「生涯」の部分はバッサリとカットして学説のみに特化して説明していきたいと思います。


学説
 先にも書いたように、ストア派はキティオンのゼノンという人物によって創設されました。
 ゼノンはキュプロス島のキティオンというところで生まれ、そこで幼年時代をすごした後、22歳ごろ(この年代には色々と説があるようですが、ここではディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』に書かれている年齢を採用します)にアテナイに出てきて、市内にある彩色柱廊(個人的に、この「柱廊」がどういうものなのかいまいちイメージしづらいんですが…)で弟子を集めて哲学話を繰り広げていました。
 このゼノンが哲学的活動をおこなっていた「柱廊」のことを古代ギリシア語で「ストア」といい、ここからゼノンに端を発する活動を「ストア派」という名前で呼ぶようになったそうです。
 現代の日本において、初期ストア派の活動の痕跡は、京都大学学術出版会から発行されている西洋古典叢書というシリーズに収録されている『初期ストア派断片集(全五巻)』で読むことができます。
 ディオゲネス・ラエルティオスによれば、ストア派は自分達の学説を「言論に関する学(論理学と考えていいでしょう)」「自然学」「倫理学」の三つに分けていたようですが、ここからは、先に示した『初期ストア派断片集』も参照しながら、初期ストア派の学説をこの三つの分野に分けて概観していきます。


1、ストア派の論理学
 ディオゲネス・ラエルティオスによれば、ストア派の人々は哲学全体を一体の動物になぞらえた上で、「言論に関する学」とよばれる「論理学」を、その動物の腱や骨のようなものとみなしていたようです。
 仮にこの証言が真実だとすれば、ストア派の人々にとって「論理学」は哲学全体のまさしく屋台骨であり、極めて重要なものとみなされていたことになりますが、彼らの主張する論理学とはどのようなものだったのでしょうか。
 ちょっと長くなりますけど以下の引用文を見ていただければわかるように、論理学の具体的な中身がどうこう以前に、どうやら彼らは、「論理学」という言葉で、われわれが思い描く論理学以上のかなり広い範囲を想定していたようなんです。

『初期ストア派断片集2』四八(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第七巻四一-四四)
 だがある人々は、ことばに関する部分[ことばの学]が弁論術および問答法という二つの知識に区分されると語っている。[またある人々は、これをさらに、定義にかかわる部門、および規範(カノーン)や規準(クリテーリオン)に関する部門にも区分している。だがある人々は、定義にかかわる部門を削除している。したがって彼らは、規範や規準に関する部門を真理発見のためのものと見なしていることになる。この部門において、さまざまな表象間の相違を正すのだからである。また彼らは、定義にかかわる部門をも同様に真理認識のためのものと見なしていることになる。およそことがら(プラーグマ)なるものは、観念(エンノイア)によって捉えられるのだからである。]
 <弁論術>とは、「叙述形式の言論についてよく語ることの知識」であり、問答法とは、「問いと答えの形式の言論について正しく問答することの知識」である。ここからして、彼らはまた問答法を、「真と偽、およびそのいずれでもないことがらについての知識」とも定義しているのである。〔そして、弁論術それ自体は三つの部分よりなる、と彼らは語っている。審議にかかわるもの、裁判にかかわるもの、賛辞にかかわるものである。  また、弁論術の区分には次のものもある、[主題の]発見、表現方法、[語られる事項の]配列、実演である。また弁論術に基づく言論は、序論、[事実の]陳述、反論、結論である(U二九五)。  また、彼らによれば、問答法は、表示されるもの(セーマイノメノン)にかかわる部門と音声(ポーネー、表示するもの)にかかわる部門とに区分される。そして、表示されるものにかかわる部門は、表象(パンタシアー)にかかわる部門と、表象から存立するレクトン[語られるもの]、すなわち、完結したレクトンとしての命題(アクシオーマ)、および[非完結なレクトンとしての]述語(レーマ、動詞)、能動態および受動態の類似の述語にかかわる部門、類と種にかかわる部門、同様に、議論(ロゴス)と推論の型(トロポス)、推論(シュロギスモス)、および、詭弁(ソピスマ) ―― これには音声によるものとことがらによるものとがある ―― にかかわる部門に区分される。そして詭弁には、「嘘つき」の議論、「真実を語るもの」の議論、「否定する者」の議論、「堆積」の議論、およびこれに類する議論 ―― これらのあるものは不完全なものであり、あるものは解きがたいものであり、あるものは有効なものである ―― 、さらに、「覆われたものたち」の議論、「角あるものたち」の議論、「誰も……ない」の議論、「刈り入れるものたち」の議論があるとされている。
 また問答法には、先に述べられた音声そのものにかかわる固有な部門がある。ここで示されるのは、文字として書き表すことができる音声(エングランマトス・ポーネー)、文の部分(ログー・メロス、品詞)が何であるか、破格構文(ソロイキスモス)や不当な用語法(バルバリスモス)について、詩的用語、多義性(アンピボリア)について、響きのよい音声について、音楽について、またある人々によれば、、定義、分割、表現(レクシス)についてである。〕

 この引用文で言われているのが初期ストア派において「論理学」と呼ばれている分野の全体像なんですが、これを読むと、彼らの言う「論理学」は、われわれが普段「論理学」という言葉でイメージする形式論理学の範疇には収まりきらない非常に広い範囲をカバーするものだということが分かるでしょう。
 ただ、まぁ、言葉だけでみていると、その全体像がいまいち把握しづらいですよね。ですから、これ、以下に示すように、図にしてみました。



 こうやって図にしてみると、ストア派が「論理学」という言葉でどれほど広い学問的範囲をカバーしようとしていたかがはっきり分かりますね。
 詳しい説明は後々おこないますが、「表象」であるとか「類」「種」といった概念は現代的な意味での「論理学」という言葉でイメージする「形式論理学」とはいまいち相性が悪い感じがしますし、弁論術なんていうのも、現代的な感覚からすると「論理学」とは異なるものですよね。
 ストア派の人々はなぜこういった現代的な観点からすると「論理学」という言葉となじまないように思えるものまで「論理学」の範疇に含めたのでしょうか。
 当時の人と現代人との差、なんていい方をするとそれまでになってしまうんですが、ストア派の人々は以下の引用文で示されているように、「言語を用いた純粋に思弁的な方法でなされる諸事物の『何であるか』を求める探究」と、「それらの諸事物をわれわれが実際になんと呼んでいるか」という二つの事柄全般をひっくるめた領域全体を「論理学」と呼んでいたようです。

『初期ストア派断片集2』一三〇b(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第七巻八三)
 そして、ストア派の人々は<ことばの学>においては以上のような考えをもっていたが、それは、彼らが何よりも、知者は問答法に通じた人であることを強調するためであった。なぜなら、あらゆる事物は、それが自然学の分野に属するものであれ、また倫理学の分野に属するものであれ、ことばによる考察によって洞察されるのだからである(というのも、ことばの学に属することについて何を語る必要があろうか)。彼らは、「名前の正しさ」について、知者は、さまざまな慣習[法]がいかにしてそれぞれの事物に定められたのかを語ることはありえないだろう、と主張している。なぜなら、[知者の]能力に属するものとしては二つの分野があり、その一つは個々の存在者が「何であるか」を考察し、もう一つは「何と呼ばれるか」を考察するのだから、というのである。
 〔ストア派の人々の考える<ことばの学>は、およそ以上のものである。〕

 このように、ストア派の「論理学」は「『何であるか』をもとめることばによる探究」と「諸事物が何と呼ばれるかを検討する探究」の二つに分けることができます。
 さて、ストア派の言う「論理学」の射程距離がおおよそ特定されたところで、ここからは、彼らが「論理学」と呼んでいる広い学問を現代的な呼び方に置き換えて細分化し、その全体像を把握していきましょう。


1-1、認識論としての論理学
 先ずは、ストア派の「論理学」が持っている「認識論」的側面について検討してみましょう。
 それに際して、注目してもらいたいのは、「問答法」の領域に含まれる「表象にかかわる部門」です。
 この「表象」という語は哲学の文脈では非常に多様な意味で用いられており、その概念は現代に至ってもなお固定化されているとは言い難い状況ですが、ストア派における「表象」の概念を想定するときには、「自らのうちに形成される対象の像」ぐらいに考えておけばいいと思います。
 「自らのうちに形成される対象の像」なんていう言い方をするとなんとも物々しいですが、なんとなく大ざっぱに「心に思い浮かぶ色々なものの像」のことだと考えておけば大きくハズすことはないでしょう。
 さて、ストア派においては、そんな「表象」がなぜ論理学の「問答法」の一部に組み込まれているのでしょうか。
 その問題を考えるにあたって足がかりとなるのは、以下の引用文で示されているように、ストア派の人々が「先取観念」と呼ばれるいくつかの観念をのぞいた様々な観念について、それは表象を媒介とすることで生まれたあとに一つ一つ獲得していくものだと考えていたということです。
 なんか、引用ばっかりしてますけど、一応、「証拠」を挙げていかないと胡散臭くなっちゃいますからね。ご面倒かとは思いますが、我慢して一つ一つ参照してください。

『初期ストア派断片集2』八三(アエティオス『学説誌』第四巻一一)抜粋
感覚認識、観念、[魂の]あり方としてのロゴスはいかにして生まれるのか。
 ストア派の人々の語るところによると、人間は生まれたとき、魂の主導的部分をいわば書き込みのためによく整えられた白紙として所有しており、個々の観念(エンノイア)を自らひとつひとつここに書き込むのだという。
 さて、第一の書き込みの仕方は、さまざまな感覚認識を介してのそれである。というのも、たとえば何か白いものを感覚認識する人々は、そのものがなくなってもそのものの記憶を有するが、多くの類似した記憶が生じるとき、われわれは[経験をもっている]と語るのだからである。なぜなら、経験とは、類似した表象の集積だからである。
 ところで、観念のうちのあるものは、先に述べられた仕方で、自然本性的に、非人工的に生まれるが、別の観念は、われわれが教示し注視したまさにそのときに生まれる。したがって、後者はただ観念とのみ呼ばれるが、前者はまた先取観念(プロレープシス)とも呼ばれる。

『初期ストア派断片集2』一〇五(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第七巻五四)
ストア派の人々が…中略…感覚と先取観念が真理の規準であると語っている[この先取観念とは、もろもろの普遍者についての自然本性的な観念のことである。…]

 早いとこストア派の核心部分に入りたいんですけど、ここに上げた引用文のなかに、またしてもこれまで言及してこなかった概念が現れましたね。
 「先取観念」っていうのがそれなんですけど、これって、今まで取り上げてこなかった概念ですよね。
 ですから、ここでは、ストア派の認識異論に入り前に、この「先取観念」っていう得体の知れないものについてちょっとだけ言及してから本論に入りたいと思います。
 引用文中でも「観念のうちのあるものは、先に述べられた仕方で、自然本性的に、非人工的に生まれるが、…前者はまた先取観念(プロレープシス)とも呼ばれる」という仕方で言及されているように、この「先取観念」とは人間が自然本性的に持っているとされている観念のことです。
 このように書くと、なんとなく判ってしまったような気になりますけど、それでは、この「人間が本性的に持っている」とはどういうことなのでしょうか。
 普通、われわれは、オギャー!!と産まれた赤ちゃんは、この世の中のことについてそれこそ右も左も分からないまっさらな状態でこの世界に放り出されて、生まれた後に母親と触れ合ったりしながらこの世界の様々なことを少しずつ吸収していくと思ってますよね。
 ところが、プラトンの「想起説」を思い出してみると、プラトンは魂の不死を主張すると同時に、その魂はわれわれの肉体と結びつく前に、すなわち、われわれが生まれる前にすでにイデアを見るという仕方でありとあらゆることを見知っていると考えていましたよね。
 そして、そのような考え方に基づいて、プラトンは、人間は生まれた後に感覚を「きっかけにして」あらかじめ魂が見知っていた様々なものを「思い出す」のだと主張しました。
 つまり、プラトンにおいて、オギャー!!と産まれた赤ちゃんは「何も知らないまっさらな状態」ではなく、すでにあらゆることを知っている存在だったんですね。
 さて、このような二通りの事例において、プラトンが主張するように人間が生まれながらに持っているような観念、言い換えるならば、人間が成長によって獲得するとかそういったことではなく、人間が人間であるかぎりもっているような観念のことを「先取観念」、もしくはより一般的に言えば、「生得観念」といいます。
 そして、この「人間が人間であるかぎりもっている」というのが「人間が本性的に持っている」ということです。
 さて、これでやっと道具が出揃いました。
 いよいよ、本題のストア派に入ることができます。
 ついさっき、「先取観念」(「生得観念」って言った方が分かりやすいんですけどね…)について説明したとき、「普通、われわれは、オギャー!!と産まれた赤ちゃんは、この世の中のことについてそれこそ右も左も分からないまっさらな状態でこの世界に放り出されて」ということを書きましたよね。
 このことを念頭に置きながら、ストア派における「先取観念」の考え方について書かれたこの二つの引用文をみてみると、ストア派の人々もまた「人間は生まれたとき、魂の主導的部分をいわば書き込みのためによく整えられた白紙として所有しており、個々の観念(エンノイア)を自らひとつひとつここに書き込むのだ」と主張すると同時に、「別の観念は、われわれが教示し注視したまさにそのときに生まれる」と述べて、いくつかの先取観念を除いたほとんどの観念は、われわれが生まれた後に獲得するものだと考えていたということが分かります。
 そして、その観念を獲得するその方法として示されているのが、「第一の書き込みの仕方は、さまざまな感覚認識を介してのそれである」という仕方で語られている、「感覚に起因する表象の経験」なんです。
 つまり、ストア派の人々は、人間は生まれたときには「ほぼ」白紙の状態で生まれ、生後、感覚によって形成された表象を繰り返し形成することで様々な事物に関する観念を形成すると考えていたんですね。
 そして、人間における観念形成の過程のなかで、「表象」は、観念形成のスタートである「感覚」とゴールである「観念」の間に位置する中間物のような役割を果たしているんです。
 さて、このようにみてくると、当然、「ストア派言っている表象についてはなんとなく分かったけど、それと表象が問答法に分類されている事実とどう関係しているのか」ということが疑問になりますよね。
 そもそも「問答法」とは、何であれ様々な事柄について、その事柄の真偽を論証する際に用いる方法の総称ですが、そのような論証方法と「表象」というものがストア派においてはどのように結びついているのでしょうか。
 ここに来るまでの間にも、「先取観念」など色々と本論に入る前の準備をしてきましたが、ストア派における「表象」と「問答法」の関連を明らかにするにはさらに色々な準備が必要になるので、先ずはそれらの準備を確認していきましょう。

準備1
 先に私は「表象」のことを「心に思い浮かぶ色々なものの像」という仕方で説明しましたよね。
 仮に、「表象」がそのような像のことだとすると、多くの人は、自分の中に、世の中に存在している様々なものに関する像が思い浮かんでいるのと同時に、どう考えてもこの世には存在しないようなおかしな物事に関する像も思い浮かんでいるということに同意できるでしょう。
 つまり、この段階でわれわれの抱く「表象」には二通り、つまり、「現実の世界に対応している表象」と「現実の世界には対応していない表象」の二つがあることになります。
 そして、この「表象」には二つの種類があるというのが一つ目の道具です。

準備2
『初期ストア派断片集1』六七(セクストス・エンペイリコス『学者達への論駁集』第七巻一五一-一五三)抜粋
〔彼ら[ストア派]は相互に結びついている三つ[の真偽規準]があると主張する。すなわち「知」と「思われ」とこれらの中間に位置する「把握」である。これらのうち、「知」とは安全で確実にして論理(ロゴス)により覆されることのない「把握」であり、〕思われは弱い偽りの同意であり、〔これらの中間にある「把握」は捉えうる表象への同意である。…

 この引用文では、ストア派の人々が真偽の決定が可能な「真偽規準」として「知」「把握」「思われ」という三つの段階を想定していたということを意識して置いてください。
 そして、この三つの段階が二つ目の道具立てです。

準備3
『初期ストア派断片集1』六〇(キケロ『アカデミカ後書』四一-四二)抜粋
さて、その感覚によって捉えられたこと、これをじつは感覚と呼んだのであり、もしそれが論理性によって覆されないほどに捉えられえているなら知と呼び、そうでない場合には無知と名付けた。

『初期ストア派断片集2』五四(アエティオス『学説史』第四巻一二-一)抜粋
この「表象」という語は「光(ポース)」に由来してそう言われる。というのも、「光」は自分自身と自分自身の内に把持されている別のものとの双方を示すが、「表象」もまた自分自身と表象を引き起こしたものの双方をしめすからである。

 先ず注目して貰いたいのは二つ目の『初期ストア派断片集2』五四です。ここでは「表象」が「光」というアナロジーで表現され、「表象」は「その表象が表しているもの」と「表象それ自体」の二通りのものを表すとされています。
 次に、もう一つの資料を見てみると、感覚によって捉えられたもの(「表象」のことですね)が「論理性」によって裏づけが与えられているならばそれは「知」であり、その裏づけがないならば「無知」であるとされています。
 一見すると、これら二つの断片は無関係のように見えますが、最初に取り上げた『初期ストア派断片集2』五四では、「表象」が表しているものを考察しようとした場合には、「表象」それ自体を考察の対象とすることができるということが宣言され、もう一方の『初期ストア派断片集1』六〇では、「表象」を対象にした場合の考察のされ方に対する言及がなされています。
 そして、この「表象はそれ自体考察の対象になる」ということと、その考察のされ方は「論理性による裏づけの可否」であるという点が三つ目の準備です。

準備4
『初期ストア派断片集1』六七(セクストス・エンペイリコス『学者達への論駁集』第七巻一五一-一五三)抜粋
〔これらの中間にある「把握」は捉えうる表象への同意である。捉えうる表象とは、彼らによれば、真であって偽となりえないようなものである。これら三つのうち、「知」はただ知者においてのみ成立し、「思われ」は愚者においてのみ成立するが、「把握」は両者ともにもつものであり、これも真理の規準であると彼らは言う。…〕

『初期ストア派断片集1』五九c(セクストス・エンペイリコス『学者達への論駁集』第七巻二四八)
捉えうる表象とは、実在するものから実在するものの通りに、写し取られ刻み込まれた表象であり、実在しないものからは生じえないようなものである。〔というのも、彼らは、このような表象はその対象となるものの最高度の認識であると見なし、対象となるものの固有な特徴を精巧に[技術的に]写し取っており、固有な特徴のひとつひとつを付帯性としてもっていると主張しているのである。〕

 この二つの引用文のうち、一つ目にあげた『初期ストア派断片集1』六七は「準備2」のところであげた引用文の続きにあたる部分ですが、これらの引用文中では両者共に「捉えうる表象」というものに関する言及がなされています。
 そして、この「捉えうる表象」について以下にあげる二つの特徴を挙げていますが、

1、「真であって偽とはなりえない」
2、「実在するものから実在するものの通りに、写し取られ刻み込まれた表象であり、実在しないものからは生じえない」

「捉えうる表象」にこのような二通りの性質が与えられているという事実が四つ目の準備です。

 さて、必要な道具立てはすべて出揃ったので、ようやく本題に入ることができます。
 ストア派の人々が主張する「論理学」がもっている「認識論的な側面」とはどのようなものであり、どのような仕方で「認識論」と「論理学(特に「問答法」)」が関連を持っているのでしょうか。
 先ず、準備2に注目してください。ここでは、ストア派の人たちが「真偽規準」として「知」「把握」「思われ」という三つの形態を想定していたということがいわれていましたが、これら三つのものは真理性の強さという観点から以下の図で示すように「知」「把握」「思われ」の順番で並べることができます。

知(論理による裏づけ)
真理性の度合い把握(捉えうる表象への同意)
思われ(ただの思い込み)


 準備2の主張を図式化したこの表では、「把握」の項目は「捉えうる表象への同意」という仕方で説明されています。
 この「捉えうる表象」は準備4でいわれているように「真であって偽とはなりえない」ものであると同時に「実在するものから実在するものの通りに、写し取られ刻み込まれた表象であり、実在しないものからは生じえない」ものと考えられていましたが、準備1でみたように、われわれは明らかにこの世に存在しないものも思い描きますし、その意味で、われわれの抱く表象は「真であって偽とはなりえない」ものでもありません。
 それゆえ、「われわれの抱く表象」をこの図の中に書き込むのであれば、「実在するものに対応し」ていてなおかつ「真であって偽となりえない」ものと、それ以外のものに分けられる必要があります。

知(論理による裏づけ)われわれの持つ表象?
真理性の度合い把握(捉えうる表象への同意)実在するものに対応する表象
思われ(ただの思い込み)実在しないものに関する表象


 しかし、われわれの抱く「表象」を上の図にあるような仕方で二つに分け、その二つを「対象の実在」という仕方で区別したとしても、ここに一つの問題が生じます。
 それは、「表象」が示す対象物の「実在性」をどうやって保障するのかという問題です。
 なんとなく小難しい話になってきましたが、ちょっとした具体例として「薬の副作用で幻覚を観ている人」を想定してみるととたんに問題の本質が分かりやすくなると思います。
 薬を飲んでなんとなくフワフワしている人が、何もない机の上を指差して「この財布誰の?」と問いかけてきたとき、この「薬を飲んでフワフワしている人」が抱いている「机の上にある財布」の「表象」はその対象物の実在性を伴っていません。しかし、このフワフワしている人はその財布が実在しているのか実在していないのか、自分自身では判別できませんし、むしろ、どちらかといえば「財布がそこにある」と思い込んでいるんです。
 このような状況を想定した場合、「表象」が表しているものの実在性は、その表象を抱いている当人がどう考えているのかという点に依存するため、対象の実在性を基準にして表象を区別するということ自体に無理があることになります。
 ここで思い出してもらいたいのが、準備3です。
 準備3では、「表象」はそれ自体が考察の対象になるということと、その考察のやり方は「論理による裏づけの可否」であるということが示されていましたよね。
 つまり、ストア派は「表象」が実在に対応する「捉えうる表象」であるのか、実在に対応しない単なる「思われ」としての表象であるのかを区別する際に、「表象」それ自体を対象とした考察に基づく、「論理性による裏づけの可否」によってそれらを区別しようとするんです。
 そういった区別の仕方までも組み込んで、それらを一括して図に表すと以下のようになります。

知(論理による裏づけ)われわれの持つ表象(表象それ自体を考察対象にすることが可能)論理性の裏づけ有り実在するものに対応する表象
真理性の度合い把握(捉えうる表象への同意)
思われ(ただの思い込み)論理性の裏付け無し実在しないものに関する表象


 このように、ストア派はいくつかの先取観念を除いた他の観念は「表象」を媒介として形成されるものであり、その「表象」は「論理性の裏づけの可否」という観点から区別され、「可」とされたものが実在に対応するものとされて「知」とみなされ、「不可」とみなされたものが実在に対応しないものとされて「思惑」とみなされるんです。
 「表象の実在性に関する問題をいやにあっさり片付けたじゃないか…、いいのか、そういう片付け方で?このやり方は何の解決にもなってないんじゃないのか?」というご批判は当然あると思います。
 実際、表象と実在との対応関係に関する問題は、ここで示したストア派のやり方でも本質的な解決にはなっていません。
 この問題に関してストア派が展開する主張は、後々、懐疑主義者という人たちに攻撃され、様々な批判を受けることになりますが、とりあえず今は、「ストア派の人たちはこういうふうに考えていたんだ」ということで、ストア派の解釈という限定された範囲内で納得しておいてください。
 さて、以上がストア派の主張する認識論です。
 初期ストア派の論理学に言及を始めたとき、その一番最初に引用した『初期ストア派断片集2』四八で、ストア派における問答法は「問いと答えの形式の言論について正しく問答することの知識」もしくは「真と偽、およびそのいずれでもないことがらについての知識」と定義されていましたが、ストア派の認識論において、「表象」は考察の上でそれを真と見なすべきものであるのか偽とみなすべきものであるのかが決定されていたいうことを考えると、感覚によって形成される素の「表象」は真と偽のどちらでもないものであると見なすことができます。
 つまり、ストア派における「表象」とは、真偽判定という観点から考えた場合、真になる場合、偽になる場合、そのどちらでもない場合という三つの状態を有する可能性のあるものであり、その意味で、ストア派における「問答法」が対象とするものとみなすことができます。
 さて、以上がストア派の提示する論理学の大まかな概要であり、その「認識論」が「論理学」に組み込まれている理由です。


1-2、純粋な論理学としてのストア派の論理学
 これまで散々、ストア派の論理学は幅が広いと連呼してきましたし、実際、1-1ではストア派の論理学に含まれる認識論的な側面を問題にしたので、「ストア派って普通の論理学はやってないの?」という疑問を持った方もいらっしゃると思います。
 確かにストア派が「論理学」ということばであらわしている範囲は広いです。
 でも、ストア派の人たちもちゃんと現代的な意味での「論理学」をやっていたんですよ。
 ストア派の純論理学的な主張は、内容的にみて、大きく「命題」を主題とするものと「推論」を主題とするものの二つに分けることができます。
 先にあげたストア派の論理学を大きな図で表したやつを思い出してもらいたいんですが(別ウィンドウで開いて並べて見ていただくと一番分かりやすいと思います)、この「命題」と「推論」は両者共に「問答法」のなかの「表示されるもの(レクトン)にかかわる部門」の中に位置づけられていますが、同じ部門の中に位置づけられているからといってそれらを一緒に扱ってしまうとゴチャゴチャするので、このコンテンツでは「命題」と「推論」という大きな主題ごとに分けて検討していきたいと思います。


1-2-1、ストア派における「命題」 〜「命題」の全体像〜
 ストア派の論理学に関する資料は、ディオゲネス・ラエルティオスやセクストス・エンペイリコスをはじめとした様々な人たちが残しているんですが、これらの資料はその主張内容が相互に錯綜している場合も多くて、すっきりまとめるにはかなり骨が折れます。
 ですから、ここでは、論理学の全体像を概観したときのように、引用文を提示してそこでいわれている主張を機械的に図の形式に置き換えていくという方法を用いたいと思います。
 では、早速、以下の引用文を見て下さい。

ディオゲネス・ラエルティオス第七巻六五-
 また命題(アクシオーマ)とは、真か偽かのいずれかであるもの、あるいは、クリュシッポスが『問答法による定義』のなかで述べているように、それだけで肯定または否定の言明となりうる自己完結的なもの(完全なレクトン)のことである。
〜中略〜
 ところで、命題は(つねに)真であるか偽であるかのいずれかであるが、質問や、尋問や、これらに類似のものは、真でもなければ偽でもないものである。
 さらに、クリュシッポス、アルケデモス、アテノドロス、アンティパトロス、クリニス、および彼らの門下の人たちが主張しているように、命題には、単純なものと、単純でないものとがある。
 さて、単純な命題とは、異議のない一つの命題から成り立っているもののことであって、、例えば、「昼である」というのがそれである。これに対して、単純でない(複合的な)命題とは、異議のありうる一つの命題、または一つ以上の命題から成り立っているもののことである。
(六九) すなわち、異議のありうる一つの命題から成り立っているものとは、例えば、「もし昼であるなら、昼である」というようなのがそれであり、また、一つ以上の命題から成り立っているものとは、例えば、「もし昼であるなら、光がある」というようなのがそれである。
 そして、単純な命題の中には、否定、否定的な断定、欠如、断定(肯定)、限定、および不定を表す命題が含まれる。他方、単純でない(複合的な)命題の中には、(命題間の関係が)(仮定・結論の)結合、理由・帰結、連言、選言、原因・結果、および「より多く」と「より少なく」を明らかにしているもの(比較)、というようになっているものが含まれる。

 ストア派の分類はけっこう細かいので、あんまり一気にやると全体像が把握しきれなくて逆に混乱を招いてしまいます(実際、この命題分類に関する資料を一気に読んでも、情報量が多すぎてかえってぼんやりしちゃうんですよね)。ですから、ここは一歩一歩段階を踏んで小さな図を一つずつ組み上げていくことにしましょう。



 これが、ストア派が「命題」とみなすものに含まれている様々な言明の全体像です。
 そして、このような全体像を提示した後で、ストア派の人々はこの図の一番下に位置している個々の種類の命題について、個別的にその性質を特定していきます。
 その具体的な内容については、以下の引用文を見て下さい。

ディオゲネス・ラエルティオス第七巻六九-
 さて、(単純命題のうち、)否定命題(アポパティコン)とは、(否定詞と一つの命題とから構成されているもののことであって、)例えば、「昼で(あること)はない」というようなのがそれである。またその否定命題の一種は、二重否定の命題である。そして二重否定とは、否定の否定のことであり、例えば、「昼で(あることは)ない(という)ことはない」というようなのがそれである。しかしこれは、「昼である」とすることである。
(七〇) また、否定的な断定命題(アルネーティコン)とは、否定詞を部分としてもつ語(否定代名詞)と述語とから構成されているもののことである。その例は、「誰ひとり散歩していない。」
 また、欠如命題(ステレーティコン)とは、欠如を示す小辞をその部分としてもつ語と可能的な命題とから構成されているもののことである。その例は、「この人は人間愛に欠けているものである。」
 また、断定(肯定)命題(カテーゴリオン)とは、主格形の名詞と述語とから成るもののことであり、その例は「ディオンは散歩している。」
 また、限定命題(カタゴレウティコン)とは、主格形の指示(代名)詞と述語とから成るものであり、その例は、「この人は散歩している。」
 また、不定命題(アオリストン)とは、単数または複数の不定(代名)詞と述語とから成るものであり、その例は、「ある人が散歩している」とか、「彼は動いている」とかいうようなのがそれである。
(七一) 他方、単純でない(複合)命題のうち、(仮定・結論の)結合によるもの(シュネームメノン)とは、クリュシッポスが『問答法論法』のなかで、また(バビュロニアの)ディオゲネスが『問答法教程』のなかで述べているように、「もし…なら」という結合(仮定)を示す接続詞によって両命題が結びつけられているもののことである。そしてこの接続詞は、第二の事態が第一の事態に随伴することを告げているのである。その例は、「もし昼であるなら、光がある。」
 また、理由・帰結の関係にある結合命題(パラシュネームメノン)とは、クリニスが『問答法教程』のなかで述べているように、先行命題と帰結命題とが、「…(である)から、…(な)ので」という(理由を示す)接続詞によって結びつけられているもののことである。例えば、「昼であるから、光がある」というように。そしてこの接続詞が告げているのは、第二の事態が第一の事態に随伴することと、第一の事態は実際に存在しているということである。
(七二) また、連言命題(シュムプレグメノン)とは、いくつかの連結的な接続詞(「…も…また…も」)によってつなぎ合わされているもののことである。例えば、「昼であるし、また光もある」というように。
 また、選言(離接)命題(ディエゼウグメノン)とは、「あるいは」(「それとも」、「…か、または…」)という離接的な接続詞によって(両命題が)引き離されているもののことである。例えば、「昼であるか、あるいは、夜であるかである」というように。そしてこの接続詞は、二つの命題のうちのどちらか一方は偽であることを告げているのである。
 また、原因・結果の関係にある命題(アイティオーデス)とは、「…(である)がゆえに」という(原因を示す)接続詞によって構成されているもののことである。例えば、「昼であるがゆえに、光がある」というように。というのは、第一の事態が第二の事態のいわば原因だからである。
 また、(比較によって)「より多く」ということを明らかにしている命題とは、「より多く(むしろ)」ということを示す接続詞と、(二つの)命題の中間におかれた「…よりは(よりも)」という語とによって構成されているもののことである。例えば、「夜であるよりは、むしろ(より多く)昼である」というように。
(七三) 他方、「より少なく」ということを明らかにしている命題は、(二つの命題の位置が)先の命題とは逆になっているものである。例えば、「昼であるよりは、より少なく夜である(夜であるよりは、むしろ昼である)」というように。

 ここにあげた引用文は、単純命題と複合的命題に分類される様々な種類の命題をそれぞれに特徴付けた資料です。
 でも、まぁ、このままだと分かりづらいので、例によって、この資料で言われている内容を図にまとめてみましょう。

単複の区別命題の種類命題の特徴具体例
単純命題否定単純否定否定詞と一つの命題で構成されている昼であることはない
二重否定否定の否定(肯定)昼であることはないことはない
否定的断定構成要素は否定代名詞と述語誰一人散歩していない
欠如構成要素は欠如を示す小辞(パーティクル)を持つ語と可能的な命題この人は人間愛に欠けているものである
肯定的断定構成要素は主格形の名詞と述語ディオンは散歩している
限定構成要素は主格形の指示代名詞と述語この人は散歩している
不定構成要素は単数or複数の不定代名詞と述語ある人が散歩している
複合的命題仮定・結論の結合「もし…なら」という仮定を表すの接続詞によって命題が結び付けられている。結論を表す命題が示している事態は、仮定を表す命題が示している事態に随伴するもし昼であるなら、光がある
理由・帰結先行命題と帰結命題が「…であるから」や「…なので」という理由を表す接続詞によって結び付けられている。先行命題が表している事態は実際に存在し、帰結命題が表している事態は先行命題が表している事態に随伴する昼であるから、光がある
連言「…も…また…も」という連結的な接続詞によって命題が結び付けられている。昼であるし、また光もある
選言「あるいは」「それとも」「…か、または…」といった接続詞によって二つの命題が引き離されている。二つの命題のうちのどちらかが偽であることを意味する。昼であるか、あるいは、夜であるか
原因・結果「…であるがゆえに」という原因を表す接続詞で命題が結び付けられている。先行する命題が示す事態は、それに続く命題が示す事態の原因になっている。昼であるがゆえに、光がある
比較より多い「より多く」ということを示す接続詞(「むしろ」など)と、二つの命題の中間に置かれた「…よりは(よりも)」という後で二つの命題が結び付けられている。夜であるよりは、むしろ(より多く)昼である
より少ない「より多く」ということを示す接続詞が「より少なく」を表す接続詞に変わっていることをのぞいて使われている語は同じだが、命題の前後が「より多い」の場合とは逆になっている。昼であるよりは、より少なく夜である(夜であるよりは、むしろ昼である)


 以上が、先にあげた引用文でなされていた命題の特徴づけを一覧表にしたものです。
 これで、個々の命題の種類に対する特徴づけはおおむね終了ということになるわけですが、これだけだと、純論理学的な観点から「命題」を主題とした場合に「命題」の特徴づけ以上に重要となる問題が未だ手付かずのまま残ってしまっていることになります。
 その問題とは何か。
 それは、命題の「真偽決定」の問題です。
 先にあげたストア派における命題の樹形図にも書いておきましたが、ストア派の人々にとって(ていうか、現代の論理学でもそうなんですけどね…)「命題」とは「真偽を特定できるもの」でした。
 それゆえ、命題の個々の特徴づけが終わった後には、そのような特徴を持つ個々の命題がどのような仕方で「真偽」を特定されるのかということが問題になってくるんですね。
 ストア派の人々も、当然のことながらこの点には気づいていました。
 命題には単純命題と複合的命題の二種類がありますが、ここからは、これら二つの命題それぞれに節を設けて、「単純命題」と「複合的命題」の真偽判定がストア派においてどのようにおこなわれているかを検討していきましょう。


1-2-1-1、「単純命題」の真偽判定
 命題の真偽を問題とするにあたって、ストア派の人々はまず単純命題に着目します。そして、単純命題に分類されるそれぞれの種類の命題がどのような場合に真と見なされ、どのような場合に偽と見なされるのかという問題について以下のように主張します。

『初期ストア派断片集2』二〇五(セクストス・エンペイリコス『学者達への論駁集』)抜粋
九六 <単純な命題>のうちのあるものは<確定命題>であり、あるものは<非確定命題>であり、またあるものは<中間命題>である。<確定命題>とは、<指示>として表現されるものであり、たとえば、「この人は歩いている」、「この人は座っている」がこれに該当する(なぜなら、わたしは特定の一人の人間を表示しているからである)。九七 他方、<非確定命題>とは、―― 彼らによれば、 ―― そこにおいて何か不特定の部分が支配的であるようなもので、たとえば、「誰かが座っている」がこれに該当する。また<中間命題>とは、「人間が座っている」、「ソクラテスが歩く」のようなものである。
 かくして、「誰かが歩く」は<非確定命題>である。なぜなら、歩いている人々のうちの特定の誰かを確定していないからである。というのも、この命題は歩いている人々の誰についても共通に表現可能だからである。だが「この人は歩いている」は、指示された人を表現しているのであるから、<確定命題>である。だが「ソクラテスは座っている」は、<中間命題>である。なぜなら、これは<非確定命題>でもなく(というのも特定のもの(エイドス)を限定したのであるから)、また<確定命題>でもないから(というのも、指示によって限定したのではないから)である。これはむしろ、両者の中間、つまり<非確定命題>と<確定命題>との中間のものであるように思われる。
九八 さて、彼らの語るところによれば、<非確定命題>が真となる、つまり「誰かが歩く」、「誰かが座っている」が真となるのは、<確定命題>が真として見出される場合、〔つまり「この人が座っている」、「この人が歩いている」が真として見いだされる場合である。というのも、いかなる特定の人も座ってはいない場合には、「誰かが座っている」という<非確定命題>は真とはなりえないからである。…中略…〕
一〇〇 さて、問答法にかかわる人々の主張によれば、この<確定命題>が真となる、つまり「この人は座っている」や「この人は歩いている」が真となるのは、これらの命題の述語、つまり「座っている」や「歩いている」が、指示によって的中する対象に帰属する、そのときである。…

 この引用文はほぼ京都大学学術出版会から出ている『初期ストア派断片集2』からとったものですが、この学術出版会版で「限定命題」「不定命題」とされている二種類の命題の名前をこのコンテンツではそれぞれ「確定命題」と「非確定命題」という仕方に言い換えています。
 また、本文中の「なぜなら、歩いている人々のうちの特定の誰かを確定していないからである」という部分で使われている「確定」という言葉は、学術出版会版では「限定」ですが、この語に関してもこのコンテンツでは命題の名前を変更したものにあわせて「確定」という語に変えています。
 これは、学術出版会版で使われている「限定命題」「不定命題」という語が、先に示した命題の分類表に含まれている命題の種類の中にすでに存在していたため、それとの混同を避けるために取った措置ですのでその点はご了承ください。
 さて、この引用文中に示されているのが、ストア派が考える単純命題の真偽判断の基準です。
 ストア派の人々は先に六つの仕方で分類した単純命題を、そこで使われている言葉ごとに「確定命題」「非確定命題」「中間命題」の三つに分けます。
 「確定命題」とは「この机」や「この人」といった指示語をその主語として持っている命題であり、「非確定命題」は「誰か」とか「どれか」といった不定代名詞を主語として持つ命題です。そして、最後に残されているのが「中間命題」で、これは「ソクラテス」などの名前もしくは「人」といったその事物が属する「種」を主語として持つものとされていますが、この「中間命題」と「非確定命題」の違いがちょっと分かりにくいかもしれませんね。
 実際、ストア派における「非確定命題」と「中間命題」の違いに関しては、その分かりづらさの原因として、以下にあげる二つの問題が想定できるんです。

問題1…「ソクラテス」は固有名であり、その意味で対象を確定しているのだから、結果として「ソクラテスは散歩している」といった命題は「確定命題」なのではないか?

問題2…「誰かが散歩している」(非確定命題)と「人が散歩している」(中間命題)は何が違うのか?

 私個人としては、この問題が提起しているような主張の方がストア派の主張よりも正しいような気がするんですが、しかし、一応、ストア派からの反論として以下のようなものが考えられます。

問題1に対して…「ソクラテス」という語は現代では固有名のように扱われているが、実際には、昔も今も「ソクラテス」という名前を持つ人はたくさんいるはずであり、その意味で、「ソクラテス」という語はその「ソクラテス」という名前を持つ人々という仕方では対象を確定するけれども、「確定命題」のように「この人」「この机」というような指示語によって「確定」の範囲を個々の個物にまで限定することはできない。それゆえ、「ソクラテスは散歩している」のような命題は、指示の確定性の強さという点で「確定命題」に劣っており、そうであるがゆえに、「確定命題」と「非確定命題」の中間に位置しているとみなすことができる。

問題2に対して…引用文中にもあるように、「人」という語は「誰か」という不定詞と違って、あきらかに「人」という形相(エイドス)を特定している。その意味で、「人が散歩している」という命題は「誰かが散歩している」という不定詞を用いた命題と較べて対象の確定製が高い。よって、「人が散歩している」という命題は「確定命題」と「非確定命題」の中間に位置しているとみなすことができる。

 問題2に対する反論はかなり苦しいですが、先の引用文を見るかぎり、恐らくストア派の人ならこのような反論をして「中間命題」の存在を維持したと思います。
 さて、このように見てくると、この単純命題の区別というレベルで、ストア派の人々が「指示代名詞」と「不定代名詞」という品詞についてかなり厳格な考え方を持っていたということが伺えます。
 「指示代名詞」とは読んで字のごとく「これ」とか「それ」という仕方で「指示」できる対象を表すものですが、ストア派においては、「指示代名詞」がもつ「対象の指示が可能である」という事実に、対象の確定性という意味でかなりの重点が置かれていたと考えられます。
 また、「誰か」や「何か」といった「不定代名詞」についても、それを用いて表される対象はまさしく「不定」であって、例え「誰か」といわれても、その不定代名詞に「人」という種における限定といった要素は読み込んでいなかったようです。
 このように、「指示代名詞」の確定性に対する信頼と「不定代名詞」における不定性の徹底に基づいて、ストア派による単純命題の三分類が成立しているわけですが、この分類を確定した後、ストア派はこれら三種類の単純命題の真偽判定における依存関係を明示します。
 彼らの議論によれば、「非確定命題」が「真」となるのは「確定命題」が「真」と見なされたときに限られます。言い換えれば、「非確定命題」の真偽は「確定命題」の真偽に依存しているということになりますが、これは特に問題ないですよね。
 「誰かが歩いている」という命題が真であるのは、「この人が歩いている」という命題が真であるという事実が少なくとも一度は確認されたときに限られますし、「誰かが歩いている」という命題が偽である場合を考えても、それは「この人が歩いている」という命題を真と見なしてもいいような事例が一度も発見できなかったということが証明されないかぎり「偽」と見なすことはできません。
 それゆえ、「非確定命題」の真偽は「確定命題」の真偽に依存するということがいえます。
 このように、「確定命題」と「非確定命題」の間の真偽依存関係は引用文中から読み取ることができるんですが、問題なのは「中間命題」の真偽が何に依存しているかです。
 これについては、引用う文中にも書いていませんし、残存する資料をみても目ぼしい証言はありません。
 ですから、この問題について答えを出すためにはある程度の考察を必要としますが、最終的には「非確定命題」と同じように、その真偽は「確定命題」に依存すると考えていいと思います。
 仮に、「ソクラテスは散歩している」という中間命題を考えた場合、この命題が真であるためには「誰かが散歩している」という「非確定命題」が真である必要があります(誰も散歩してなかったら当然ソクラテスも散歩してないですよね)。そして、ストア派において「非確定命題」の真偽は「確定命題」の真偽に依存すると見なされていたわけですから、必然的に、「中間命題」の真偽も「確定命題」の真偽に依存することになります。
 先にも書いたように、「中間命題」に関しては残存資料の中に目ぼしい記述がないのであんまり断定的なことはいえないんですが、しかし、普通に考えれば、「中間命題」の真偽もストア派においては「確定命題」の真偽に依存していると考えて問題ないと思います。
 このように見てくると、ストア派における単純命題の真偽判定では「確定命題」が非常に大きな役割を担っていると考えることができますが、では、この「確定命題」の真偽はどのように確定されるのでしょうか。
 引用文中では、この「確定命題」の真偽判定について、「この<確定命題>が真となる、つまり「この人は座っている」や「この人は歩いている」が真となるのは、これらの命題の述語、つまり「座っている」や「歩いている」が、指示によって的中する対象に帰属する、そのときである」と述べられていますが、これはいったいどういうことなのでしょうか?
 「どういうことなんでしょうか?」なんてもったいぶっておいてあれなんですけども、これ、ものすごく簡単なことなんです。
 つまり、「この人」や「このトンボ」といった「確定命題中の中の主語」が、「歩いている」とか「飛んでいる」といった「確定命題中の述語」にちゃんと対応しているかどうかによって真偽が決まるということです。
 もっと砕けた言い方をすると、「この人は寝ている」という確定命題の真偽を特定する際には、先ず、「この人」という仕方で表される対象を特定し、次に当の「この人」が実際に寝ているかどうかをチェックして、寝ていればその命題は真、寝ていなければその命題は偽という仕方で真偽を特定するということです。
 なんとなく、使われている言葉が物々しいので身構えてしまいますけど、何のことはない当たり前の話ですよね。
 ただ、この当たり前の話が、後々ちょっと重要になってくるので、頭の片隅に少しでいいんで置いておいてください。
 さて、以上のように、ストア派の人々は単純命題を、命題内の主語の「確定性」という観点から、「確定命題」「非確定命題」「中間命題」の三つに分類し、それらの命題の真偽依存関係を「確定命題」の真偽に収斂させるような仕方で結論付けたわけですが、このような状況を図にまとめるとおおよそ以下のようになります。

単純命題の三分類特徴真偽依存の関係単純命題それぞれの振り分け備考
確定命題「この机」や「この人」といった指示語をその主語として持っている命題世界を直接的に把握して命題の主語にその述語が属しているかどうかを確認することで真偽を判断する「限定」「否定」と「欠如」はその主語よっていずれの種類にも属し得る
非確定命題「誰か」とか「どれか」といった不定代名詞を主語として持つ命題確定命題の真偽に依存する「否定的断定」「不定」
中間命題「ソクラテス」などの名前もしくは「人」といったその事物が属する「種」を主語として持つ命題非確定命題の真偽を前提とする。それゆえ、最終的には確定命題の真偽に依存する「肯定的断定」


 さて、以上が、ストア派における「単純命題」の真偽判定の全体像です。
 なかなか複雑で分かりづらいかもしれませんが、続いて、これらの単純命題で構成される複合的命題について、その真偽判定のやりかたを見ていきましょう。


1-2-1-2、「複合的命題」の真偽判定
 ストア派における「単純命題」の真偽判定を概観したところで、今度はその「単純命題」で構成されている「複合的命題」の真偽判定について検討していきましょう。
 「検討していきましょう」なんていう言い方をしておいてこんなことを言うのはあれなんですけども、実は、この「複合的命題」の真偽判定は、1-2-1で「命題」を分類したときに作った表のなかでチラッと示されているんですよね。
 先に作った表の「複合的命題」にかかわる部分だけを抜粋してみると以下のようになりますが、

単複の区別命題の種類命題の特徴具体例
複合的命題仮定・結論の結合「もし…なら」という仮定を表すの接続詞によって命題が結び付けられている。結論を表す命題が示している事態は、仮定を表す命題が示している事態に随伴するもし昼であるなら、光がある
理由・帰結先行命題と帰結命題が「…であるから」や「…なので」という理由を表す接続詞によって結び付けられている。先行命題が表している事態は実際に存在し、帰結命題が表している事態は先行命題が表している事態に随伴する昼であるから、光がある
連言「…も…また…も」という連結的な接続詞によって命題が結び付けられている。昼であるし、また光もある
選言「あるいは」「それとも」「…か、または…」といった接続詞によって二つの命題が引き離されている。二つの命題のうちのどちらかが偽であることを意味する。昼であるか、あるいは、夜であるか
原因・結果「…であるがゆえに」という原因を表す接続詞で命題が結び付けられている。先行する命題が示す事態は、それに続く命題が示す事態の原因になっている。昼であるがゆえに、光がある
比較より多い「より多く」ということを示す接続詞(「むしろ」など)と、二つの命題の中間に置かれた「…よりは(よりも)」という後で二つの命題が結び付けられている。夜であるよりは、むしろ(より多く)昼である
より少ない「より多く」ということを示す接続詞が「より少なく」を表す接続詞に変わっていることをのぞいて使われている語は同じだが、命題の前後が「より多い」の場合とは逆になっている。昼であるよりは、より少なく夜である(夜であるよりは、むしろ昼である)


注目してもらいたいのは、「命題の特徴」という見出しがつけられた部分に書かれている内容です。
 ここに書かれているのは、それぞれの複合命題に含まれている前件(接続詞の前の部分に来るもののことです)と後件(接続詞の後に来るもののことです)の関係がどのようなものであれば、その複合命題が真になるかということが示されています。
 つまり、前件と後件(この「後件」って、一発変換できないんですよね…)の関係がこの表に書かれているのとは違うあり方である場合には、その複合命題は偽ということになるわけです。
 そして、このようなストア派における「複合命題」真理判定を、記号を使って表にまとめると以下のようになります。
 論理記号の読み方やその使い方に関しては論理学関係の入門書を読んでいただくのが一番いいと思うんですが、でも、ここではそういった論理記号に関する知識が全くない方でも読むことができるように、今ここで必要となる論理記号の読み方をまとめたちょっとした表を作っておきますので、記号が出てきたからといって脱落せずにその表を参照した上で、日本語に置き換えて考えて見て下さい。

記号記号の読み方意味
ならば条件法
且つ連言
または選言

ストア派における複合命題の記号化
複合命題の種類記号で表した場合の形式
仮定・結論の結合p⇒q
理由・帰結or原因・結果(p⇒q)∧p
連言p∧q
選言p∨q
比較?

ストア派における複合命題の真理値表
前件後件仮定・結論の結合理由・帰結or原因・結果連言選言比較
pqp⇒q(p⇒q)∧pp∧qp∨q?
?
?
?
?


 さて、以上が、ストア派における「複合命題」の真理値表ですが、パッと見た感じ先ず目に留まるのは「比較」の項目に打たれた「?」でしょう。
 これは、ストア派の示す複合命題の中にあって、この「比較」だけがその真偽判定を、前件と後件の関係性に依存するのではなく、実際に世界を見た結果に依存するということであり、そうであるがゆえに、ここではその真偽を「?」で表しているんです。
 そして、論理学の知識がある型であれば、その「?」に続いて、「選言」の真理値、すなわち、「pまたはq」を意味する複合命題の真理値に疑問を抱くと思います。
 現代の論理学だと、「選言」の真理値は以下のようになっています。

選言の真理値(現代)
前件後件選言
pqp∨q


 しかし、それに対して、ストア派は前件と後件の両方が真である場合には選言命題をを「偽」と見なします。
 ストア派の人々が主張するような「選言」のことを、現代では「排他的選言」といいますが、「pまたはq」という形式の命題に対して、彼らがなぜ現代的な選言の真理値ではなく、この排他的選言の真理値を用いたのかは残念ながら資料的な問題があってはっきりしたことはわかりません。
 しかし、この選言命題における「排他的選言」の採用が、ストア派の人々が主張する「複合的命題」と現代の人々が主張する「複合的命題」の最も大きな違いだと思います。
 さて、以上で、ストア派における「命題」の概念は一通り説明し終えたことになります。


1-2-2、ストア派における「推論」 〜五つの妥当な論証形式〜
 続いて、ここから先は、1-2の冒頭で予告したとおり、ストア派の純論理学におけるもう一方の主題、すなわち「推論」について検討していきましょう。
 まずは、そうですね、何も言わずに以下の引用文を見て下さい。

セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』第二巻一五七-一五八
一五七 彼らが夢想している証明不可能な議論は多数あるが、なかでも次の五つを彼らはとくに持ち出している。それらは、残りの証明不可能な議論がすべてそこへと還元されるように思われる議論である。
 第一は、仮言命題(仮定・結論の結合)と前件から、後件を導出する議論である ―― 例、「もしも昼であるなら、光がある。しかるに、昼である。従って光がある」。
 第二は、仮言命題(仮定・結論の結合)と後件の対立[矛盾]命題から、前件の対立[矛盾]命題を導出する議論である ―― 例、「もしも昼であるなら、光がある。しかし、否・光がある。したがって、否・昼である」。
一五八 第三は、連言の否定と一方の連言肢から、もう一方の連言肢の対立[矛盾]命題を導出する議論である ―― 例、「否・昼であり、かつ、夜である。しかし、昼である。したがって、否・夜である」。
 第四は選言命題と一方の選言肢から、もう一方の選言肢の対立[矛盾]命題を導出する議論である ―― 例、「昼であるか、あるいは、夜であるかのいずれかである。しかし、昼である。従って、否・夜である」。
 第五は、選言命題と一方の選言肢の対立[矛盾]命題から、もう一方の選言肢を導出する議論である ―― 例、「昼であるか、あるいは、夜であるかのいずれかである。しかし、否・夜である。したがって、昼である」。

 この引用文は京都大学学術出版会の『ピュロン主義哲学の概要』から引いてきたものですが、そちらの方では、仮言命題の後の(仮定・結論の結合)というやつがついていません。今、この引用文のなかで付け加えられている(仮定・結論の結合)という括弧付けの説明は私がこのコンテンツ内での記述にあわせて付け加えたものです。その点、ご了承ください。
 さて、この引用文に従うと、ストア派の人々はたくさんある「証明不可能な議論」を五つのものに還元しているということになりますが、これら五つの議論について検討する前に、そもそも、ストア派の人々が言う「証明不可能な議論」とはどのようなものなのでしょうか。
 この点に関しては資料の不足など色々と問題があって、今日でも共通見解となりうるような回答は提出されていないようなんですが、恐らく、この「証明不可能な議論」とは、「妥当な論証のなかでもトートロジーになるもの」のことだと思います。
 まぁ、私ごときが偉そうに「だと思います」なんていっても何の説得力も無いんですが、仮に、これを単に「妥当な論証」のことだとすると前提の真偽が問題となるのでそこに何らかの議論が介入する余地があるはずなんですね。ですから、そういったものに対して「証明不可能」という言い方はしないと思うんですよ。
 それに対してトートロジーであれば、前提の真理値に関係なく論理の形式だけで「真」になりますから、「証明不可能」という言い方でも、まぁまぁ、いいのかなぁという気がします。
 あっ、ちなみに、「妥当な論証」と「トートロジー」の違いですが、「妥当な論証」っていうのは「前提がすべて真になるときに結論が真になるもの」のことで、「トートロジー」っていうのは「前提が真であろうが偽であろうが論理の形式だけで常に真になるもの」のことです。
 この辺の細かいことは、野矢茂樹とか戸田山和久あたりが書いた論理学の本を読んでいただくともっとしっかり説明されていると思います。
 話がちょっと横にそれましたが、実際、このストア派が言う五つの「証明不可能な議論」って、トートロジーになってるんですよ。
 ちなみに、これら五つの議論を例のごとく表にまとめると以下のようになります。

五つの「証明不可能な議論」
番号原文の表現現代的な表現論理式
1仮言命題(仮定・結論の結合)と前件から、後件を導出する議論pならばq。pである。したがってq。{(p⇒q)∧p}⇒q
2仮言命題(仮定・結論の結合)と後件の対立[矛盾]命題から、前件の対立[矛盾]命題を導出する議論pならばq。qでない。従ってpでない。{(p⇒q)∧¬q}⇒¬p
3連言の否定と一方の連言肢から、もう一方の連言肢の対立[矛盾]命題を導出する議論(pかつq)でない。pである。したがって、qでない。{¬(p∧q)∧p}⇒¬q
4選言命題と一方の選言肢から、もう一方の選言肢の対立[矛盾]命題を導出する議論pかqである。pである。したがってqでない。{(p∨q)∧p}⇒¬q
5選言命題と一方の選言肢の対立[矛盾]命題から、もう一方の選言肢を導出する議論pかqである。qでない。したがってp{(p∨q)∧¬q}⇒p

五つの「証明不可能な議論」の真理値
証明不可能な議論1
pqp⇒q(p⇒q)∧p{(p⇒q)∧p}⇒q
証明不可能な議論2
pqp⇒q¬q¬p(p⇒q)∧¬q{(p⇒q)∧¬q}⇒¬p
証明不可能な議論3
pq¬qp∧q¬(p∧q){¬(p∧q)∧p}{¬(p∧q)∧p}⇒¬q
証明不可能な議論4
pq¬qp∨q(ストア派なので排他的選言)(p∨q)∧p{(p∨q)∧p}⇒¬q
証明不可能な議論5
pq¬qp∨q(ストア派なので排他的選言){(p∨q)∧¬q}{(p∨q)∧¬q}⇒p


 さて、以上がストア派の示した五つの「証明不可能な議論」ですが、ストア派の人たちは複雑な議論を分析する際に、これら五つの議論に照らし合わせながら検討対象となる議論の正当性をしらべたらしいです。
 「らしい」っていう言い方がなんとも自信なさげなんですが、これら五つの議論に関しては、こういう議論があったっていう資料はけっこう残ってるんですが、それの使い方などに関する資料があんまり残ってないんですよね。
 でも、まぁ、「あんまり残ってない」とはいっても「全く残ってない」わけじゃないですから、最後に、ストア派がこの推論の形式を用いてどのような事例を分析していたのかを示してストア派の推論に関する言及を終わりにしたいと思います。

セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』第一巻六九
また、クリュシッポスは非理性的な動物にことほか敵対していた人であるけれども、その彼によると、犬はかの有名な問答法をさえ与り知っているのである。ともかく上述のこの人は、十字路に到達した犬が、獣が通っていかなかった二つの道を嗅いだのち、第三の道は嗅ぎもしないでただちにその道を突進していくときには、多数の選言肢を持った第五の証明不可能な議論[推論]を会得している、と主張しているからである。すなわちこの昔の人の主張によれば、犬は実質的に次のような推論を行っているというのである ―― 「獣が行った道は、この道か、あるいは、この道か、あるいは、この道かのいずれかである。しかるに、この道でも、この道でもない。したがって、この道である」。

 さて、この引用文の中で示されているのは、「三又の分かれ道に差し掛かった犬が、三つの道の中から一つの道を選んで進む」という事例に対して、ストア派の人々がどのような主張を展開しているのかということの説明です。
 この引用文によれば、ストア派の人たちは「三又の道に差し掛かったときに一本の道を選んだ犬」は、先にあげた五つの「証明不可能な議論」のうち、五番目の議論を用いて三つの道の中から一本の道を選んだと主張しているんです。
 つまり、ストア派の人々は、犬は三叉路に差し掛かったとき、「A、B、C三つの道がある。しかし、AではないしBでもない。それゆえCである」という判断を行ったのだと主張しているんです。
 現代の我々からすると、「何もそこまで…」みたいな感じなんですけど、しかし、現実問題、ストア派の人々は「三叉路に差し掛かった犬」に対してこのような考察をめぐらせていたようです。
 このことは、ストア派の人々が「現実の世界」と「論理」とを密接にリンクさせて考えていたということを意味しています。
 現代の論理学だと、「論理的には正しい」という考え方が可能です。
 しかし、ストア派の人々にとってこの「論理的には正しい」という考え方はありませんでした。より厳密に言うと、ストア派の人々にとって「論理」と「現実」が遊離した状態で「正しい」といわれることはないということです。
 ストア派の人々にとって「論理」とは「世界」に内在しているものであり、その意味で、「論理的に正しい」とはその論理が「世界のあり方を適切に表している」ということを意味しています。
 そして、ストア派における「論理」と「世界」の関係がそのようなものであるとするならば、「論理」とは「世界」の全体にあまねくいきわたっているものですから、ストア派の論理学が1の冒頭で示した「論理学の全体像」のように、ものすごく広い範囲にまで拡張されていたことの理由がわかるでしょう。
 以上で、このコンテンツで取り上げるストア派の論理学に関する記述は終わりです。
 先にあげた「論理学の全体像」を考えると、まだまだ書くべきことはあるんですが、それらの部門を取り上げるには今の私は明らかに力不足です。
 ですが、一応、ここまで書いてきた部分だけでも、ストア派の論理学の核心部分を解説するものとしては十分だと思います。


2、ストア派の自然学
 ストア派の学説を検討する際に、彼らの学説は「論理学」「自然学」「倫理学」の三つに分かれていると主張しましたが、ここからは「自然学」について検討していきましょう。
 「論理学」がそうであったように、ストア派の「自然学」もかなり広範囲に色々なものを扱っているんですが、このコンテンツでは様々な個別的な事例について検討する前に、まずはストア派が「自然」というものに対してどのような考えを持っていたのかを概観することからはじめましょう。


2-1、ストア派による「自然」の定義づけ
 そもそもストア派において「自然」というものはどのようなものとして扱われていたのでしょうか。
 それを知るに際して、まずは以下にあげる五つの資料を見て下さい。

資料1、『初期ストア派断片集3』第二巻第一部九三七(プルタルコス『ストア派の自己矛盾について』三四)抜粋
 クリュシッポスは、悪徳が必然的で宿命にしたがっているだけでなく、神のロゴスや最善の自然にもしたがっていると認めるときには、それに無制限の自由を認めている。このことは次のような言い方から見てとられる。「なぜなら共通の自然があらゆるものにのび広がっているので、宇宙全体の中で、あるいはそのどの部分においてであれ、何らかの仕方で起こるものはすべて、その自然と自然のロゴスとに基づいて、妨げられることなく順序にしたがって生じているが、それは、その統御の邪魔になるものが外にあることもなく、諸部分のどれも共通の自然にしたがって動いたり静止したりすることしかできないからである」。

資料2、『初期ストア派断片集3』第二巻第一部五四九(キケロ『神々の本性について』第二巻一一五)
 宇宙は、もっと密着したものが考えられないほどに、安定しているとともに存続するために結びついている。というのは、それのすべての部分はあらゆる方向から中間の場所に向かって等しい傾動をもっているのだからである。しかるに、物体がとりわけ相互に結びついて存続するのは、いわば何か縛るものが取り囲むことによってまとめられる場合である。そのはたらきをなすのは、万物を精神とことわり(ラティオ)によって仕上げつつ、宇宙全体に広がって、最端ののものを中心に向けて引っぱって来る、あの自然なのである。

資料3、『初期ストア派断片集3』第二巻第一部一一三三(偽ガレノス『医術上の定義』九五)
 ピュシスとは「生成に向かって筋道だてて進み、自分から活動的に動く技術的な火である」。……別の[規定の]仕方では、ピュシスは自分から動き、種子的な能力に基づいて人間を生み出し完成させ維持する、うちに熱を持った気息である。……<これとよく似たいくつかの定義が続く>……
 混合もピュシスと呼ばれ、持前もピュシスと呼ばれ、衝動にしたがった動きもピュシスと呼ばれる。動物を支配する力もピュシスと言われる。

資料4、『初期ストア派断片集3』第二巻第一部九一三(ストバイオス『雑録集』第一巻五-一五)抜粋
 クリュシッポスは宿命の実質のことを「秩序にしたがって万有を統御する気息の力」だと言うが、これは『宇宙について』第二巻でのことであり、『定義について』第二巻と『宿命について』や、他の著作のあちこちでは様々な言い方でその考えを示している。いわく、「宿命とは宇宙のロゴスである」とか、「宇宙において摂理によって統御されるもののロゴスである」とか、「それに基づいて、過去に起こったことが起こったし、いま起こりつつあることが起こり、将来起こるであろうことが起こることになるところのロゴスである」というように。また彼は「ロゴス」の代りに「真理」とか「原因」とか「自然」とか「必然」という言い方や、さらに加えて別の呼び方もしていて、それらは彼のつもりでは同じ実体に別々の視点から当てはめられているのである。

資料5、『初期ストア派断片集1』第一巻第一部一七六b(テオドレトス『ギリシア人の病いの癒し』第六巻一四)
〔ストア派のクリュシッポスは、運命は必然と何ら異なるところはなく、運命は、永遠の連続的な秩序ある動であると言った。〕キティオンのゼノンは運命を、質料を動かすことのできる力であると呼び、この同じものを摂理とも自然とも名付けた。〔彼の弟子たちは、運命を宇宙の中の、摂理により秩序正しく支配されていることがらのロゴスであると主張し、また、別の著作では運命をさまざまな原因の連鎖と呼んだ。〕

 ここにあげたのは、ストア派の人々が「自然」についてそれをどのようなものとみなしていたのかを簡潔に言い表している資料です。これらの資料をみると、一言で「自然」といっても、ストア派が用いていた「自然」という言葉にはじつに多様な意味がこめられていたということが分かるでしょう。
 実際、ここに挙げたそれぞれの資料でなされている「自然」の特徴づけを簡単に図にまとめると以下のようになります。

ストア派における自然の定義
資料番号「自然」の定義
1自然万有がそれに従うもの
2自然万有をまとめるもの
3自ら動いて、他のものを生み出す火。技術者的な火
4過去、現在、未来を規定するもの。必然。運命
5質料を動かすことのできる力、摂理。


 「自然」に対するここに挙げたような特徴づけをみて「なんとなく神さまっぽいな…」と思った方は、ストア派における「自然」の概念の解釈として、かなりいい線いってると思います。
 実際、ストア派の人々は「自然」を、「ありとあらゆる事物に何らかの仕方で行き渡り、それらの事物を支配するもの」と考えていたようなんですが、これって、確かにちょっと神様っぽいですよね。
 もちろん、「神」をどのように捉えるのかというテーマは個々の宗教によっても、個々のの哲学者においても、個々の人々によっても違うものだとは思いますが、このストア派が提示している「自然」のあり方は、どの宗教、どの哲学者、どの人々に説明しても、「神」のありかたとして、全ては許容しないまでも「部分的には同意する」と言ってもらえそうな感じがします。
 このように、ストア派の人々は「自然」と呼ばれるものの最も基本的な性格として「万物に行き渡ってそれらを司る」という要素を見ていたんですが、こういった考え方はストア派に独自のものではありませんでした。
 このウェブサイトが提供している哲学史のコンテンツを「ソクラテス以前」の項目から読み始めた方には、おおよそご理解いただけると思うんですが、古代ギリシアにおいてはストア派が現れるずっと前に「アルケー(始源)」と呼ばれる概念が提示されていました。
 具体的にはソクラテス以前の項目を参照してもらうと判りやすいと思うんですが、ここでもサッと説明しておくと、この「アルケー」というのは「あらゆるものがそこから生じてそこへと滅んでいくもの」のことです。
 つまり、ソクラテス以前においては、この世に存在するありとあらゆるものは「アルケー」を共通項として持っているとされていたんですね。
 それゆえ、ストア派が「自然」に対して抱く考え方の原型および源泉は、そういった、ソクラテス以前の人々が行ったアルケー探求の中に求めることができるでしょう。
 ただ、もちろん、ここで言われるソクラテス以前の人々のストア派に対する影響は限定的なものであって、ストア派の人々がソクラテス以前の人々が行ったアルケー探求の営みをそのまんま復元したと考えるのは誤りです。
 実際、ソクラテス以前とストア派の間には、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲学史上の大メジャーがドッシリと腰を下ろしているわけですし、とりわけアリストテレスからは四原因説(とりわけ「目的因」や「形相因」)をはじめとした自然学的な方面で多大な影響を受けていると考えられます。
 さて、以上のことから、ストア派が「自然」というものに対して抱いていた最も基本的な考え方はご理解いただけたと思います。「あらゆるものに行き渡って、それらを司るもの」。それがストア派にとっての「自然」なんですね。


2-2、ロゴスとして現れる自然
 2-1で示したように、ストア派にとって「自然」とは「あらゆるものに行き渡って、それらを司るもの」を意味していました。
 では、この「自然」は人間にとってはどのように現れるのでしょうか?
 まぁ、小見出しに「ロゴスとしての自然」って書いてますから、ここで筆者が人間にとって自然はロゴスとして現れると主張しようとしているということはみえみえですよね。
 でも、一言で「ロゴス」といっても、いまいちどういうものなのかはっきりしませんよね。
 ストア派において「自然」は人間に「ロゴス」として現れると主張した場合、その「ロゴス」はどのような意味なのでしょうか?
 この「ロゴス」という言葉は古代ギリシアにおいてはじつに多様な文脈で使用されますし、それぞれの文脈で使われているこの「ロゴス」という言葉を現代語に翻訳する場合には、洋の東西を問わず「理性」「言葉」「論理」「議論」「言明」「思考」などじつに多様な訳語が当てられます。
 このように多様な意味を持つ「ロゴス」ですが、人間に現れてくる「自然」としての「ロゴス」はどのような意味で用いられている「ロゴス」なのでしょうか?
 結論から言うと、人間に現れてくる「ロゴス」は、ある種の「秩序」です。
 しかも、ある種の論理形式として把握される「秩序」です。
 1-2-2でストア派における「推論」を概観したときに、彼らが現実の世界と論理を結びつけて、その現実の世界を五つの「証明不可能な議論」によって判定したということをみましたよね。
 このことはストア派の人々が、自然世界万有をなんらかの論理的なものとして把握できるものであるとみなしていたということを意味しています。
 この点について、ちょっと以下の資料を見て下さい。

『初期ストア派断片集3』第一部第二章七一四(アレクサンドリアのクレメンス『雑録集』第二巻四八七)
しかしロゴス的能力は、人間の魂に固有のものであるので、それはロゴスなき動物と同じ仕方で衝動をはたらかせる必要はなく、もろもろの表象に判断を下して、それらの表象と一緒に引きずられずにいるべきだという。

『初期ストア派断片集3』第一部第二章七一五(ガレノス『ヒッポクラテス「流行病」第六巻への注解』五)
植物がそれによって支配されるところのものを生育力と呼び、動物がそれによって支配されるところのものを魂と呼ぶのが、ストア派の習慣である。だが彼らは、それら両者の実質は、生まれついた気息(プネウマ)であるとし、それらはお互いに性質の点で異なっていると考えている。というのは、魂の気息のほうが比較的乾いていて、生育力の気息の方が湿っているが、存続のためには両方とも養分だけでなく空気も必要とするのである。

 この二つの資料をみると、ストア派においては植物、動物、人間の三者が従うそれぞれの内的なものについて、「植物が支配されているもの=生育力」「動物が支配されているもの=魂」「人間が支配されているもの=ロゴス」という関係性が確立されているということが見て取れるでしょう。
 これ、一見すると、植物、動物、人間の三者の内的な相違を示しているだけのように思えますが、これは、先に示した、人間による世界把握の仕方とも関連しています。
 つまり、ストア派にとって、植物と動物は非理性的な生き物であって、自分達の内なる自然である生育能力と魂に左右されるまま「ただ生きている」だけの存在ですが、人間は自分の内に支配原理として「ロゴス」を内包し、それと対応させる仕方で、外側の自然界にあまねく広がっている「自然」を検証しながら、それについて判断を下して生きていくということです。
 これ、かなりややこしい仕組みになっているんですが、まず、ストア派にとって「自然」というのは「あらゆるものに行き渡って、それらを司るもの」でしたよね。そして、そうであるがゆえに、この「自然」はそれを認識する認識者の内に認識者を支配する原理として内在していますし、その認識者によって認識される「自然万有」の内にも同じように「自然」は内在しているんですね。
 つまり、この段階で、認識者と認識対象の両方に同じ「自然」が共有されていることになるんです。
 そして、ここで植物、動物、人間という三者の区別が効いてきます。
 動物と植物は、先にも書いたように自分の内なる「自然」である「生育力」と「魂」に従って「ただ生きている」存在ですが、それは、あらゆるものに行き渡っている「自然」が動物と植物のうちには「支配原理」としてしか内在していないからなんです。
 他方、外部の「自然」を五つの「証明不可能な議論」に従って判断する人間の場合は、あらゆるものに行き渡っている「自然」が、自分の内側に「支配原理」としてだけでなく、高度な認識能力を持つ「ロゴス」としても内在しているんです。そして、その内在している「ロゴス」が持つ高度な認識能力によって外部の「自然」をある種の「秩序」として認識し、その「秩序」に対して内的「ロゴス」によってなんらかの判断を下しながら、人間は行為していくんですね。
 この判断を下すとき、人間は1-2-2で示した「証明不可能な議論」という論理的な形式に従って、外部の「自然」を判断するわけですが、その判断のやり方は2-1であげた「三叉路に差し掛かった犬」の資料が示していたように、外部の「自然」を論理形式に置き換えた上で判断していましたよね。
 つまり、ストア派において自然世界万有にあまねく行き渡っているとされている「自然」は、人間には論理的な形式によって把握可能な「ロゴス」すなわち論理的に把握可能な「秩序」として現れてくるんですね。


2-3、「自然」と「自然をそのうちに宿すことができるもの」と「自然を内在しているもの」との関係
 2-1と2-2では、ストア派における「自然」を「あらゆるものに行き渡って、それらを司るもの」として捉え、それは人間にとって「ロゴス」すなわち「論理的な形式によって把握可能な秩序」という仕方で現れると主張しました。
 ここでは、それらの議論を踏まえた上で、これまでただ単に「支配するもの」と「支配されるもの」とだけ表現してきた「自然」と「自然をそのうちに宿すことができるもの」の関係をもう少し掘り下げてみましょう。
 まずは以下の資料を見て下さい。

『初期ストア派断片集3』第二巻第一部五二五(プルタルコス『共通概念について』三〇)
一般に、何かがありながら非存在であるというのは不合理であり共通観念に反しているが、他のものではあるのに存在ではないと彼らが言う場合、万有について言われることは不合理のきわみである。というのは、彼らは宇宙の外側に無限の空虚を置いて、万有が物体であるとも非物体であるともいわないからである。そのことからは、万有が非存在であるという帰結が生じる。何らかの作用をなしたり受けたりすることは存在に属することなので、彼らは物体だけを存在と呼ぶからである。だが、万有は存在ではないので、万有はいかなる作用も及ぼすことも受けることもないであろう。

 この断片にみられる「万有」の概念は一旦置いておいて、注目してもらいたいのは「彼らは物体だけを存在と呼ぶからである」の部分です。
 ここでいわれる「彼ら」とは当然ストア派のことですが、この資料の主張に従うならばストア派は「存在しているものは物体のみだ!!」と考えていたことになります。
 これを読んで「今まで散々、自然やら秩序やらロゴスやら書いてきたのはいったい何だったんだ!!」と思う方がたくさんいらっしゃると思います。
 そんな皆さんの「怒り」の原因はどこにあるのでしょうか?
 当然のことながら、それは、「今まで書いてきた自然やら秩序やらは、存在していないのか?」という点でしょう。
 ここで、「ストア派においてはあらゆるものに『自然』が行き渡っているとされていた」という点と、「アリストテレスの個物の概念」の二つを思い出してください。
 結論を先に言いますけど、ストア派において存在者とされていた「物体」は、アリストテレスにおける「個物」の概念に類似しています。
 アリストテレスにおける「個物」の概念は「形相」と「質料」の結合体というものでしたが、これと同様のことがストア派における「物体」の概念にもいえます。
 エレア派の人々とは違って、ストア派の人々は自分達の周りにある普通の諸事物も存在者とみなしていました。
 つまり、先の資料で存在者とみなされている「物体」とは我々の周りにある通常の諸事物と考えることができるんですが、ストア派においてはこれら通常のありとあらゆる諸事物に「自然」が行き渡っているとされていました。
 ここで、アリストテレスであれば、この「あらゆるものに自然が行き渡っている」という状態を、「自然を内在しているもの」(個物)、「自然をそのうちに宿すことができるもの」(質料)、「自然」(形相)の三つに分けた上で、それぞれに「自然を内在しているもの(個物)=第一実体」、「自然をそのうちに宿すことができるもの(質料)=第二実体」、「自然(形相)=第二実体」という仕方で三者それぞれに「存在者」としての身分を認めるんです。
 ストア派の人々も、「あらゆるものに自然が行き渡っている」と主張するとき、「自然を内在しているもの」、「自然をそのうちに宿すことができるもの」、「自然」という三つを区別します。この点まではストア派とアリストテレスは一致しています。
 しかし、ストア派はこれら三者を区別はしますが、それらに独立の存在者としての身分を認めないんです。
 つまり、ストア派はこれら三者を“概念上”区別しますが、“存在者として”は区別しないんですね。
 ですから、これまで、「自然」と「自然をそのうちに宿すことのできるもの」とを区別して説明してきましたが、この区別はあくまでも“概念上”の区別であって“存在者として”の区別ではないんですね。
 先に示したように、ストア派が存在者とみなしているものは「物体」と呼ばれる様々な諸事物でした。
 そしてまた、ストア派においてはあらゆるものに「自然」が行き渡っていたわけですから、ストア派が「物体」と呼んでいるものは先の三者の区別で言うところの「自然を内在しているもの」ということになり、この「自然を内在しているもの」は“概念上”「自然」と「自然を内在することができるもの」に区別できますが、“存在者”としてみとめられているものは「自然を内在しているもの」だけなんです。
 以上が、ストア派における「自然」と「自然をその内に宿すことができるもの」と「自然を内在しているもの」との関係です。
 これら三者はアリストテレスのように“存在者”として区別はされておらず、「自然を内在しているもの」すなわち「物体」と呼ばれているものだけが“存在者”として認められていたんですね。
 もちろん、何回も言いますけど、この三者はコインの表と裏みたいに“概念上”は区別できるんですよ。それでも“存在者”としての身分は三者のうちでも「自然を内在しているもの」にしかみとめられておらず、その点がストア派とアリストテレスとの大きな違いです。


2-4、ストア派のカテゴリー論
 これまでストア派の自然学を概観してきましたが、最後に、ストア派の「カテゴリー論」を検討して彼らの自然学に対する言及を終わりにしたいと思います。
 古代哲学で「カテゴリー」といえば、すぐにアリストテレスの名前が思い浮かびます。
 このウェブサイトのアリストテレスの項目を参照してもらってもいいかと思いますが、アリストテレスは「AはBである」という形式の命題で述語に当たる「B」の部分に来るものを10のカテゴリーに分類し、その10のカテゴリーのうち、主語Aの本質として機能するものがどれであるのかを見極めようとしました。
 つまり、アリストテレスは諸事物の本質探究のために「カテゴリー」という概念を用いたんですね。
 それに対して、ストア派のカテゴリーの使い方は、アリストテレスのそれとはちょっと違います。
 アリストテレスは「本質探究」という動機がありますから、カテゴリーの範囲はあらゆる種類の述語に広がっています。
 しかし、ストア派がカテゴリーの考え方を導入した理由は、2-3で言及した「自然」と「自然を内在することができるもの」の概念を厳密に規定し、それらがどのように関係しているのかを明らかにするためでした。
 それゆえ、彼らが用いるカテゴリーも、アリストテレスのように広い範囲にわたるものではなく、ごく狭い範囲、具体的には、「基体」「性質的形容」「様態」「関係的様態」の四つだけです。
 これら四つのカテゴリーは、それぞれにどのようなものとして規定されているのでしょうか。一つ一つ検討していきましょう。


2-4-1、基体
 先ずは、「基体」の概念から検討してみましょう。以下の資料を見て下さい。

『初期ストア派断片集2』三七三(プロティネス『エネアデス』第六巻一-二五)抜粋
その区分そのものを検討しなければならない。なぜなら、彼らは基体を第一のものとして配列し、他のものに先んじて質料をそこに位置づけたことによって、彼らが第一の原理であると考えるものを、彼らの原理より後のものと一緒に配置しているからである。……彼ら自身もまた、わたしが思うに、あるということは質料から他のものにそなわるのだと主張しているのであろう。

 この資料に関してはそれほど説明を必要としないと思いますが、要するに、ストア派の人々はアリストテレスでいうところの「質料」を「基体」という名前で呼び、それを第一のカテゴリーとして位置づけたということです。
 この「基体」を2-3で私が使った言葉であらわすと、「自然を内在することができるもの」ということになります。
 つまり、ストア派における「基体」は「自然」を内包していない状態のものということになりますが、2-3で主張したように、ストア派においてはこの「自然」と「基体」の区別はあくまで概念上の区別であり、存在者としての立場を認められているものは「自然」と「基体」が結びついている「自然を内在しているもの」、すなわち、「物体」のみでした。
 ですから、この一番目のカテゴリーとしてストア派が提示している「基体」というのも、それは存在として認められているわけではなく、あくまで、存在者である「物体」を概念として厳密に規定するために用意したものと考えるべきでしょう。


2-4-2、性質的形容
 次に「性質的形容」についてみてみましょう。例によって、以下の資料を見て下さい。

『初期ストア派断片集2』三九五(シンプリキオス『アリストテレス「魂について」注解』二一七-二一八)
具体的なものの場合にも、[質料と]統一された形相があるなら、ストア派の人々の間では、性質的形容は固有の仕方ではそれに基づいて語られ、それがまた、一挙につけ加わったりまた離れたりして、具体的なものの全寿命を通じて同じものとして存続するのだが、他の諸部分は時によって生じたり滅んだりする。

 アリストテレスにおける「形相」と「質料」の考えを思い出してみると、「形相」は「材料」である「質料」に対して、それらが「何であるか」を付与するものでした。
 そのことを考慮に入れながら、この資料をみてみると、ストア派が考えていたこの「性質的形容」もアリストテレスにおける「形相」と同じように、2-4-1でみた「基体」にそれが「何であるか」を付与するものであると考えることができます。
 また、資料の後半で、「それがまた、一挙につけ加わったりまた離れたりして、具体的なものの全寿命を通じて同じものとして存続するのだが、他の諸部分は時によって生じたり滅んだりする」と言われていることから、この「性質的形容」は「物体」が存続し続ける限り、その「物体」の性質として認めることができる本質的なものとみなされていたと考えることができるでしょう。
 このようにアリストテレスと対比してみると、ストア派の「性質的形容」は非常に分かりやすいように思えるんですが、よくよく見てみると、アリストテレスの「形相」とストア派の「性質的形容」の間には大きな差異があります。
 最大の違いは存在者として認められていたか否かです。
 アリストテレスの項目でみたように、アリストテレスにおいては「形相」は第二実体として存在者とみなされていました。
 それに対して、ストア派において存在者とみなされていたのは2-3でみたように、「自然」と「基体」が結びついた「物体」だけでした。
 それを考えると、この「性質的形容」の立場がいまいちはっきりしません。
 また、「基体」に性質を付与しているものという点で、「基体」と結びついている「自然」と「性質的形容」を同一視しようとしても、ストア派において「自然」が「性質」と結びついた概念であるかどうかはいまいちはっきりしません。
 このように、ストア派における「性質的形容」はそれに対してどのように考えればよいのか極めて不明瞭です。ですから、「性質的形容」に関しては、あくまでも存在者と認められている「物体」を分析する際に用いられている一つの道具とだけ考えておくのが無難でしょう。


2-4-3、様態
 続いて、「様態」についてみてみましょう。

『初期ストア派断片集2』三九九(デクシッポス『アリストテレス「カテゴリー論」注解』三四)
もしひとが、ストア派がそうしているように、大部分のカテゴリーを『あるあり方[様態]』に分類するなら、彼らは存在するものの大部分 ―― 場所のうちにあるもの、時間のうちにあるもの、数や大きさにおける量的なもの、履物をつけていることや、その他それに類したもの ―― を取り残すことになるということを、彼らに示してやらなければならない。それらのうちのどれひとつとして「あるあり方をしている」ものに包括されるものはないからである。

 この資料は、なんとなくのほほんと読んでいると、ストア派の人たちはアリストテレスのカテゴリーで言うところの「場所」やら「時間」やらといったものを放棄していたと読んでしまいがちです。
 しかし、よくよく見ると、冒頭で「ストア派がそうしているように、大部分のカテゴリーを『あるあり方[様態]』に分類するなら」といわれていることに気づくでしょう。
 つまり、ストア派は、アリストテレスのカテゴリーに属しているかなりの部分を「様態」という一つのカテゴリーで括っていたと考えることができます。
 では、この「様態」にまとめられた様々な性質はストア派においてどのようなものとして考えられていたのでしょうか。
 2-4-2でみた「性質的形容」と比べてみると分かりやすいと思うんですが、「性質的形容」はある「物体」にとって本質的な性質を表すものとされていました。
 しかし、それに対して、この「様態」は、先の資料のなかで「取り残す」といわれている「場所」「時間」「数」といった諸性質とそれが対比されているということから考えても、ある特定の「物体」の本質的なものではなく、その「物体」の一時的な性質を表すものであると考えることができるでしょう。
 しかし、ここで一つ気をつけなければならないのは、この「様態」にまとめられる一時的な性質も、その性質がある特定の「物体」に属している間は、「性質的形容」といわれる本質的性質と同様に「物体」と不可分に結びついているということです。
 イチローがセーフコフィールドのバッターボックスに立っているとします。
 このとき、イチローという「物体」に属している「場所(セーフコフィールドのバッターボックス)」の性質は、イチローがヒットを打って一塁に走り出した瞬間になくなってしまいます。
 しかし、バッターボックスに立っている間は、この「セーフコフィールドのバッターボックス」という「場所」的性質はイチローという「物体」と不可分であり、「セーフコフィールドのバッターボックス」に立っていないイチローというあり方は存在しません。
 つまり、この「様態」というカテゴリーでまとめられている様々な非本質的性質も、それが「物体」に属している間は「性質的形容」と同様に「物体」と不可分なものなんですね。


2-4-4、関係的様態
 最後に「関係的様態」についてみてみましょう。

『初期ストア派断片集2』四〇三(シンプリキオス『アリストテレス「カテゴリー論」注解』一六五-一六六)抜粋
ところで、ストア派の人々はその論拠によって、一つの類を二つに数えている ―― あるものは関係的なもののうちに分類し、あるものは関係的様態に入れることによって。そして関係的なものは自体的なものに対する分類項とし、関係的様態は差異に基づくものに対して区分している。そのさい彼らが関係的なものに入れているのは、甘い・辛いとか、それに類したもので、そのような性状をもっているものであり、関係的様態に入れているのは、右とか父とか、それと同様のものである。何らかの形相に基づいて特徴づけられるもののことを、彼らは差異に基づくものと呼んでいる。そのようにして、自体的なものの概念と差異に基づくものの概念が別々であるように、関係的なものと関係的様態とは別のものなのである。

 なんか、小難しいことが書いてある資料ですが、ここでいわれている「関係的なもの」と「関係的様態」の区別などはちょっと置いておいて、注目してもらいたいのは「彼らが…関係的様態に入れているのは、右とか父とか、それと同様のものである」の部分です。
 同じ「様態」という言葉が使われていることでもわかるように、この「関係的様態」は2-4-3でみた「様態」の一種です。
 ストア派の人たちが、なぜ、この「関係的様態」と「様態」を区別したのかは定かではありませんが、とにかく、この「関係的様態」とはある「物体」が他の「物体」とどのような関係にあるかを示すものです。
 資料の中であげられている「父」という例が示すように、父と子であれ、妻と夫であれ、大臣と秘書であれ、右と左であれ、何であれ、ある特定の「物体」が他の「物体」とどのようにあるかで確定される性質が「関係的様態」です。
 また、この「関係的様態」も「様態」と同じようにその「物体」の本質的な性質を表すものではありません。
 ですから、「関係的様態」の基本的な性格は「様態」と同様のものと考えてけっこうです。
 そして、その「様態」のなかでも複数の「物体」にかかわるものだけが別個に扱われていると考えれば大きくはずすこともないでしょう。

 さて、以上がストア派のカテゴリーです。アリストテレスのカテゴリーと比べると、かなりざっくりしたカテゴリーですが、それは、2-4の冒頭でもチョロッと書いたように、そもそもストア派がカテゴリーを自然学に取り入れた理由がアリストテレスとは異なり、単純に「物体」の分析をするための道具として利用するためであったということを考慮すればおおよそ納得できるでしょう。


3、ストア派の倫理学
 これまで、ストア派の学説として論理学と自然学をみてきましたが、ストア派を締めくくるに当たって、最後にストア派の「倫理学」をみてみましょう。
 ストア派の冒頭で、彼らの学説は実践的な方向に偏りすぎていたために、理論的な部分の完成度がプラトンやアリストテレスよりも低下して結果的に後世にまとまった形で残らなかったということを主張しました。
 それを考えると、実践的な要素であるこの「倫理学」という分野は、ストア派の本領が最も発揮されている部分とみなすことができます。
 では、彼らは倫理という分野において具体的にどのような主張を展開したのでしょうか?


3-1、決定論(運命論)と人間の自由 〜「倫理」に先立って〜
 自然学や論理学などは、その分野について言及するとなれば、すぐさまその分野について書き始めることができるんですが、「倫理」という分野に限っては、それについて言及する前に、その倫理的学説を主張する人たちが想定している世界観のなかでそもそも「倫理」というものが成立する余地があるのかということが問題になります。
 具体的には、「その倫理的な主張を展開している人が決定論的な世界観を持っているかどうか」いいかえるならば「その倫理的な主張を展開している人の世界観の中には『自由意志』もしくは『偶然』が成立する可能性があるのかどうか」という点が問題になるんです。3-1では、ストア派が主張する倫理の具体的な内容に踏み込む前に、ストア派において彼らが因果関係という点においてどのような世界観を持ち、その世界観の中に「偶然」が介入する余地があるのか否かを検討します。


3-1-1、ストア派の決定論
 ストア派の人々が有していた世界観が決定論的なものであるか否かを検討するに当たって、まずは、以下の引用文を見て下さい。

『初期ストア派断片集3』九四四(キケロ『卜占について』第一巻一二七)
そのうえ、あらゆるものは宿命によって生じるので、……誰か死すべき者でありながらあらゆる原因の結びつきを心の眼で見通す人がありうるなら、何ごともその人を誤らせることはないだろう。なぜなら、未来の物事の原因を理解している人は、あることになる事柄をすべて理解していることが必然だからである。だが神でなければ誰もこのことをすることができないので、人間に残されるのは、続いて起こることを示す何らかのしるし[兆候]を用いて未来のことを前もって感知することである。というのは、将来起こることは突然に起こるのではなくて、時の経過は[帆を巻く]綱をときほぐすようなものであって、時は何も新しいものを作り出さず、最初からあるものを展開しているだけなのである。

『初期ストア派断片集4』九四五(アプロディシアスのアレクサンドロス『宿命について』二二-一九一-一九三)
彼ら[ストア派]は、この宇宙が一つであり、あらゆる存在を自らのうちに包括していて、生命的でロゴス的で知的な自然によって統御されており、それらの存在の統御は永遠的で、ある種の系列と順序にしたがって進行するものだと主張する。最初のものがそのあとに生じるものにとって原因となるという仕方で、あらゆるものは相互に結びついている。そして宇宙のうちに何が生じる場合でも、それと別のものが必ずそれに無条件にしたがって、それと因果的に結びつくような仕方で生じないことはないし、また後で生じたもののどれかが、先に生じたものどれからも結び合わされているかのように結果することがないような仕方で先行するものから切り離されていることもなくて、生じたものからはすべて何か別のものが結果し、結果したものは先のものを原因としてそれに必然的に結びついており、生じるものはすべてそれに先立つ何かを原因として持っていて、それと結びついていると言うのである。なぜなら、宇宙のうちにあるもので、先に生じたものすべてから切り離されへだてられてしまっているものは何一つないので、そこにあるものはどれも、原因なしにあるわけでも生じているわけでもないからである。…中略…あらゆる存在がよりあとのもののどれかの原因になっており、そのことによって、先のものに後のものが鎖のように結びついているという仕方で、物事は相互に結びついているという、最初に言われたこと、それを彼らは、宿命のいわば実質であると想定している。

 ちょっとややこしい書かれ方をしていますが、この資料で言われていることは、「ストア派の人々は、世界は原因と結果の連鎖でなりたっていると主張した」ということです。
 つまり、ストア派の人々の考えでは世界の中に「偶然」という要素は存在していないということなんですが、このように、「世の中のありとあらゆる出来事は原因と結果の連鎖でつながっており、そこから逸脱するものは存在しない」という考え方を「決定論」もしくは「運命論」といいます。
 先にエピクロスについて検討したときに、エピクロスは、原子論という物体だけで成立している世界観のなかで物理的な因果関係の連鎖から逸脱するアトムの「逸れ」という概念を想定していたということをみましたよね。
 これは、エピクロスが人間の自由意志の起源をその「逸れ」にもとめ、そこに「偶然性」が生じる余地を残したということを意味しているんですが、このエピクロスの学説に対して、ストア派の学説にはこの「偶然性」が生じる余地が残されていません。
 「別にいいんじゃないの…」と思う方もいらっしゃるかと思いますが、これ、けっこう困ったことなんです。
 もちろん、個々人の人生観として「すべては運命」と思っていたとしてもそれはそれで別にいいんですけど、この「すべては運命」と思っている人がその主張と同時に「倫理」というものを主張し始めると、かなり厄介なことになるんです。
 普通、倫理的な主張というのは「これこれの方がいいから、こういうふうにしなさい!!」という仕方で為されます。しかし、仮に、世の中のありとあらゆる事柄がすべて因果関係の連鎖で連なっていて、そこに偶然が存在しないとすると、「こういうふうにしなさい!!」と言われたところで、言われた側の行為は何らかの原因によって特定されているわけですから、その行為が変わるということはないんです。
 もちろん、この「こういうふうにしなさい!!」という主張が原因となり、その結果として、言われた側から善き行為が出力される場合もあります。
 しかし、そのような事例を根拠にして、「決定論のなかでも倫理的主張は効力を持っている」と主張するのは大きな間違いです。
 倫理的な主張は、その主張をいわれた側の人が、A、B、C、D、E、……、という具合にものすごく多様な行為をする可能性がある中で、悪しき行為ではない善き行為であるDを選択したときにはじめて、その主張は倫理的な主張として効力を持っているとみなされます。
 また、そのように多様な可能性のなかで一つの行為を選択させるということができるという前提に立った上で初めて、倫理的な主張というのは意味のあるものとみなされるんです。
 しかし、ストア派のように

α(原因)→β(αの結果、γの原因)→γ(βの結果、Xによる倫理的主張の原因)→Xによる倫理的主張(γの結果、行為者Yの行為の原因)→Yの行為δ→ε

という一本に連なった因果関係の連鎖を想定している場合、Xによる倫理的主張からは必ずYの行為δが生じるわけですから、この因果関係の連鎖の中に行為者Yの行為を「変える」という要素は存在せず、その意味で「倫理的主張」は意味を成さないんです。
 もちろん、「もしも、Xの倫理的主張の中身が違っていたらYの行為も変わっているんじゃないのか?」という反論もあるでしょう。
 しかし、ストア派的な一本の因果関係の連鎖においては、「Xの倫理的主張」にもまたγという原因があるわけですから、この反論に含まれる「もしも、Xの倫理的主張の中身が違っていたら…」の「もしも」が存在しないんです。
 つまり、「Xの倫理的主張の中身が変わる」ということもなければ、「Yの行為が変わる」ということもないんです。
 そして、このように、この世のありとあらゆる出来事がすべて一本の因果関係の連鎖で特定されているとすれば、何らかの主張によってその後に続く行為が変化する可能性も無いわけですから、そもそも「倫理」というものが成立しなくなります。
 この「決定論」という考え方は、比較的ゆるやかなものからガチガチのハードなものまで、ある程度広がりのある考え方なのですが、先の引用文を見る限り、ストア派の主張する決定論はかなりハードな決定論であるということが見て取れます。
 このように、ストア派の世界観は「因果関係」というものにガッツリ縛られた決定論的な世界観であったと考えられます。
 しかし、2-2で検討したように、ストア派においては、「自然」が生命体のうちに「支配原理」として内在しているとされていました。
 つまり、ストア派の人々の学説においては、「因果関係」という支配原理と、「自然」という支配原理の二つが想定されていたことになります。
 さらに、ストア派は「倫理」を主張するわけですから、ここには前提として因果関係の連鎖によって生じる決定論から脱却する要素が想定されていたことになります。
 このことから、「決定論」という観点からストア派の世界観を検討した場合、そこでは、

1、支配原理としての「因果関係」
2、支配原理としての「自然」
3、「因果関係」からの脱却

という三者が共存できる世界観を見出さなければなりません。
 二つの「支配原理」というダブルスタンダードと、「決定論」と「自由」という矛盾のすべてに折り合いをつけるというのは普通に考えるとどう考えても無理なんですが、ストア派の人たちはどのような仕方でこれら三者が共存できる世界観を作り上げたのでしょうか?


3-1-2、「因果関係」の支配から脱却するものとしての「自然」 〜「動物」と「植物」の行為〜
 支配原理としての「因果関係」、支配原理としての「自然」、「因果関係」からの脱却、この三者の折り合いをつけるにあたって、ストア派は生命体の行為を支配する原理としての「自然」に着目します。
 2-2でみたように、ストア派の人々は生命体のうちに支配原理として内在する「自然」という概念を持っていました。
 しかし、それと同時に、彼らはこの内なる「自然」に「衝動」というプログラムをあらかじめ組み込んでおいたんです。まずは以下の引用文を見て下さい。
 
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第七巻第一章85
(85)さて、彼らの主張によれば、生きものは、自己自身を保存することへと向かう根源的な衝動(ホルメー)をもっている。というのは、クリュシッポスが『目的について』第一巻のなかで述べているように、自然はそもそもの初めから、生きものが自分自身と親近なものとなるようにしているからである。すなわち彼は、「すべての生きものにとって何よりも一番に親近なもの(オイケイオン)は、自分自身の(身体の)成り立ちと、それについての意識である」と言っているのである。というのも、生きものが自分で自分と疎遠なものとなるように自然がした、ということはありそうにもないことであるし、また自然は、生きものを作っておきながら、これをそれ自身に対して疎遠なものにも親近なものにもしなかった、ということもありそうにもないことだというわけである。だから、残るところは、自然は、生きものを形作ったときに、これをそれ自身に対して親近なものとなるようにしたのだ、と言うより他はないのである。事実、そうであるからこそ、生きものは自分に害をなすものは押しのけて、自分に親近なものへと向かって進んで行くのである。…中略…(86)…また、彼らの言うところでは、自然はもともと植物の場合と動物の場合とで何の差別も設けはしなかったのである。というのは、自然は、植物に対しても、衝動や感覚がないままでうまく行くようにしているのであるが、われわれ動物の場合にも、ある部分は植物的な営みをしているからである。だが、動物の場合には、衝動がその上につけ加わって生じ、動物たちがこれを用いて自分に親近なものへと向かって進むようになると、これら動物たちにとっては、「自然に従って」(カタ・ピュシン)生きるということは、衝動に従って導かれるということなのである。

 この引用文は「動物」と「植物」が自らの「内なる自然」に導かれて行為するやり方を説明したものです。
 この資料によると、動物は「自分自身を保存することへと向かう衝動」を持っているとされており、この「自分自身を保存することへと向かう衝動」は「自然はそもそもの初めから、生きものが自分自身と親近なものとなるようにしているからである」という言い方で説明され、あらかじめ「自然」の内にこの自己保存の「衝動」が組み込まれていたとされています。
 つまり、「動物」は自らの支配原理である「内なる自然」に組み込まれている「自己保存の衝動」に従って行為しているということです。また、2-2であげた資料では、ここでいわれている動物の「内なる自然」が「魂」という言葉で表されていましたが、そのように言い換えたとしても事情は同じです。動物は支配原理である「内なる自然」、すなわち、「魂」に組み込まれている「自己保存の衝動」に従うということですね。
 さて、ここでいわれている動物の「自己保存の衝動」は、「決定論」との関連からどのような意味を持っているのでしょうか。
 3-1-1でみたように、ストア派の世界観は原因と結果の連鎖が延々と続く決定論的なものでした。
 しかし、この因果関係の連鎖のなかであっても、ある事柄を原因として動物の内に「自己保存の衝動」が生じた場合、その瞬間、動物は因果関係の連鎖から脱却して自らの内なる支配原理である「魂」という自然に従って行為するんです。
 3-1-1の最後で、ストア派の自然観においては「因果関係」と「自然」という二つの支配原理がダブルスタンダード的に用意されているということを見ましたが、この動物の行為は「自然」という支配原理に従って発動されることで、「因果関係」というもう一つの支配原理から脱却するはたらきとみなすことができます。
 ここでちょっと考えてみましょう。
 確かに、動物は「自然」に組み込まれた「衝動」に従うことで「因果関係」から脱却します。
 しかし、この動物の行為は結局のところ「自然」に支配されているのであって、その意味で、因果関係に支配されてはいないけれども「自由」とはいえないという主張が成り立ちます。
 結論を言うと、その通りです。
 動物の行為を最終的に決定付ける「衝動」は「自然」にあらかじめ組み込まれているプログラムですから、動物は「因果関係」からは脱却できますが、「自然」の支配からは決して脱却できません。
 それゆえ、動物の行為においては、例えそれが「因果関係」から脱却できたとしても、そこで「倫理」というものを問題とすることができないんですね。
 続いて、先にあげた引用文の後半で述べられている「植物」の事例をみてみましょう。
 引用文の中では、「自然はもともと植物の場合と動物の場合とで何の差別も設けはしなかった」といわれると同時に、「動物の場合には、衝動がその上につけ加わって生じ、動物たちがこれを用いて自分に親近なものへと向かって進むようになる」という言い方がされています。
 この記述に従うと、「植物」のあり方がまずベースとして存在していて、そのベースに「衝動」という要素が付け加わったものが「動物」のあり方ということになります。
 バニラソフトありきのチョコバニラミックスみたいなことなんですが、つまり、ストア派における植物のあり方は動物のあり方から「衝動」を差し引いたものということになります。
 2-2であげた引用文では、「植物」に支配原理として内在している「自然」が「生育力」という言葉で表されていましたが、これまでの議論から言えば、この「生育力」という支配原理は「衝動」という因果関係から脱却する原動力にはならないものだと考えることができます。
 つまり、ストア派において「植物」は「自然」というものによって支配されながらも因果関係から抜け出ることのない存在とみなされていたと考えることができるでしょう。
 「生育力」が支配原理としての力を発揮しないから植物がそのようなものとみなされているのか、それとも、「生育力」が支配原理としての力を発揮しているからこそ植物がそのようなものとみなされていたのか、そのどちらであるのかは資料的な制約があってわかりませんが、いずれにせよ、植物の行為においても、それが因果関係に支配されているという点で「倫理」というものは問題になりません。
 このように、ストア派においては「動物」も「植物」も前者は「自然」に支配され後者は「因果関係」に支配されているという点で、その行為に自発性はなく、その意味で「倫理」を問題にできる存在ではありませんでした。
 では、「動物」の一種とみなされる「人間」はどうなのでしょうか?
 当然のことながら「人間」は「倫理」が問題となる存在です。
 それゆえ、ストア派も「人間」には「自然」と「因果関係」という両方の支配原理から脱却できる要素を想定しておかなければなりません。
 次の3-1-3ではその点について検討してみましょう。


3-1-3、ストア派における人間の行為
 前節では「動物」も「植物」も、前者は「自然」に、後者は「因果関係」に支配されているという点で、「倫理」を問題にすることができるような存在ではないということを確認しました。
 では、「倫理」の対象となる「人間」の行為について、ストア派の人々はどのように考えていたのでしょうか。
 当然のことながら、「人間」も「動物」の一種です。このような考え方は現代に独特のものではなく、ストア派の人々も同じように考えていました。
 2-2でみたように、ストア派の人々は「動物」の「支配原理」を「魂」と呼び、「人間」の「支配原理」を「ロゴス」と呼びましたが、人間も動物の一種ですので、動物の「魂」と人間の「ロゴス」は呼び方こそ違えど「自己保存の衝動」という要素は共有しています。
 それゆえ、人間も、基本的には「ロゴス」に組み込まれている「自己保存の衝動」に従って行為します。
 そして、その意味で、人間の行為は「因果関係」から脱却しているんです。
 しかし、3-1-2でみたように、ただ「自己保存の衝動」に従うだけだと、それは「自然」に盲目的に従っていることになってしまい、結局のところその支配原理を宿す生命体の行為に自発性は見出せませんでした。
 ですから、「人間」の行為には、「因果関係」から脱却する「衝動」にさらにプラスして、「自然」からも脱却できる何らかの要素が想定されていなければなりません。
 では、「人間」の「ロゴス」に備わっている「自然」から脱却する要素とはいったい何なのでしょうか?
 以下の引用文を見て下さい。

セネカ(『手紙』113、18)
ロゴスを持った動物はすべて、まず何らかの認識に触発され、ついで衝動を得、さらにこの衝動に同意を与えてからでなければ、何ごとも行わない。

ディオゲネス・ラエルティオス(『ギリシア哲学者列伝』第七巻第一章86)
というのは、この理性は、衝動を取り扱うことを心得ている技術者(テクニテース)として、あとから付け加わって生じるものだからである。

 一つ目に挙げた引用文の出所であるセネカとはローマ時代のストア主義者なんですが、この引用文をみてみると、「人間」の行為が成立する手順が簡潔に示されています。
 つまり、ある対象物に対する認識(表象)によって認識者が触発され、その認識者の内に「衝動」が発生し、そして、その「衝動」に「同意」が与えられて初めて行為が出力されるということです。
 「衝動」が形成された後に発生する「同意」という要素の有無が、行為における「人間」と「動物」の差なんですが、ここで、「『同意』も結局は『内なる自然』に組み込まれているものなんだから人間も動物と同じように『自然』に支配されているんじゃないの?」という反論が考えられます。
 確かにその通りです。
 「同意」も「内なる自然」に組み込まれているものであり、その「同意」によって人間は行為するわけですから、この反論の内容には正当性があります。
 しかし、ここで問題となるのは「同意」というものが「どこに向かって発動されるものなのか?」という点です。
 先にも書いたように、「同意」は「認識」によって形成される「衝動」に対して発動されます。
 そして、この「衝動」も「同意」も「人間」の支配原理である「内なる自然」、即ち、「ロゴス」に内在しているものであるとすると、「同意」は自分自身の出所に対して発動されるものであると考えることができます。
 つまり、「同意」は自分自身に対して自己批判的に発動される「機能」なんです。
 ここに、「人間」の行為が「自然」から脱却する可能性を見出すことができます。
 何度も書きますが、「動物」の場合は「衝動」が生じたらただそれに従うだけであり、その意味で「動物」は「自然」に支配された存在でした。
 しかし、「人間」の場合は「衝動」が生じてもその「衝動」に「同意」を与えるべきか否か、言い換えるならば、「自然」に従うべきか否かを判断することができるということです。
 夜、ものすごくおなかが減った状態でスーパーのお惣菜売り場に行ったら、いかにも高カロリーでボリューム満点な「トンカツ弁当」と、アッサリしていて体によさそうな「バランス弁当」の二つがおいてあるとします。
 目の前にこれら二つの弁当があるという認識に触発されて、認識者の内には「動物」的な「自己保存の衝動」が発生し、この「自己保存の衝動」に従った場合、明らかに「トンカツ弁当」の方が魅力的に見えます。
 しかし、ここで「人間」の中では「トンカツ弁当を買え!!」という「自己保存の衝動」を生み出した元凶でもある「内なる自然」、即ち、「ロゴス」が、その「衝動」に対して「本当にトンカツ弁当でいいのか…?」という自己批判的な活動を発動します。
 そして最終的に、「ロゴス」が「よし!!トンカツ弁当でいこう!!!」と「衝動」に「同意」した場合、二つの弁当を認識した認識者は「トンカツ弁当を買う」という行為を出力します。
 しかし、「ロゴス」が「もう夜も遅いし、やっぱり、バランス弁当だな…」という仕方で「衝動」に「同意」を与えなかった場合には、認識者は「自己保存の衝動」を振り切って「バランス弁当」を購入するんです。
 このように、人間に「支配原理」として備わっている「ロゴス」は、「動物」の「魂」のように、自らの内に組み込まれている「自己保存の衝動」に盲目的に従うのではなく、それを自己批判的に吟味した上で「同意」を与え、その結果として行為を出力するんですね。
 さて、これまでみてきたように「人間」と「動物」における行為の違いは、それが出力される際に生じる自己批判的な「同意」の有無にありました。
 しかし、「人間」と「動物」の行為にそのような違いがあったからといって、それがそのまま「自然」の支配から脱却していることになるのでしょうか?
 実際、「『同意』も『内なる自然』である『ロゴス』に組み込まれているものなのだから結局は『自然』に従っていることになるのではないか?」という反論が成り立ちます。
 しかも、結論をいうと、この反論は正しいです。
 つまり、ストア派においては「倫理」が対象とする「人間」の行為でさえも「自然」によって支配されているものであり、その意味で、ストア派の「自然」は、2-1でみたように、まさしく「あらゆるものに行き渡ってすべてを支配するもの」なんですね。
 しかし、仮に「人間」の行為が「自然」に支配されているとするならば、そこに「倫理」が発生する可能性はなくなってしまうのでしょうか?
 答えはNOです。
 3-1-1で「倫理的な主張は、その主張をいわれた側の人が、A、B、C、D、E、……、という多様な行為をする可能性がある中で、悪しき行為ではない善き行為であるDを選択したときにはじめて、その主張は倫理的な主張として効力を持っているとみなされる」ということが言われていたのを覚えていらっしゃいますでしょうか?
 もう一度確認すると、「倫理」とは、行為者の行為に多様性が認められる中で、その行為者が他者からの主張に影響を受けて多様な選択肢の中から善き行為を選択するということが可能になる場合において、はじめて主張することができるということです。
 そして、このことからもわかるように、「倫理」が意味を持つものとなる場合にクリアすべき条件となるのは、「行為者の行為に多様性がある」ということと「行為者が多様な行為の中から一つを選択して行う」ということの二点なんですね。
 ここで、さっき挙げた「トンカツ弁当」と「バランス弁当」の例に戻って見ましょう。
 これら二つの弁当を前にしたとき、人間の行為として「トンカツ弁当を選ぶ」と「バランス弁当を選ぶ」という二つの行為が想定可能です。
 このことは、先にあげた二つの条件のうちの前者、すなわち、「行為者の行為に多様性がある」という条件をクリアしているということを意味します。
 続いて、このときに「人間」の「ロゴス」は「トンカツ弁当が食べたい!!!」という「自己保存の法則」に「同意」を与えるか否かを自己批判的に検討可能であり、この検討に基づいてどちらの弁当を選択するかを決定します。
 このことは、二つ目の条件である「行為者が多様な行為の中から一つを選択して行う」をクリアしているということを意味します。
 つまり、「内なる自然」である「ロゴス」に支配された人間の行為は、例えそれが自然に支配されているものであったとしても、そこに「倫理」を適応させることができるんです。
 ここで、「えっ、動物は?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、「動物」の場合、その行為は「自己保存の衝動」に従うだけですから「トンカツ弁当が食べたい!!」という衝動が生じたら、ただひたすら「トンカツ弁当」「トンカツ弁当」になってしまうので、そこに「行為の多様性」や「選択」という余地は存在しません。
 それゆえ、ストア派が想定する自然観の中に生きる生命体のなかで、唯一「人間」の行為にだけは「倫理」というものを問題とすることが可能であり、その意味で、残存するストア派の倫理的な主張は自然学における「決定論」と対立して無意味なものとなることなく、「決定論」と共存して生き残ることができるんですね。


3-2、ストア派における倫理
 3-1で展開した一連の議論で、ストア派において、あらゆる生命体は「自然」か「因果関係」によって支配されているけれども、「人間」の「ロゴス」だけは「自己保存の衝動」に対する自己吟味的な活動である「同意」という機能を有しているがゆえに、「人間」の行為には「多様性」と「選択」が保障され、そうであるがゆえに、「倫理」を問題とすることができるということを確認しました。
 この段階に至ってはじめて、「倫理」を本格的に取り上げることができるようになったわけですが、では、ストア派は人間のどのようなあり方を理想的な状態とみなし、その理想的な状態に至るためにはどのように行為することがふさわしいと考えていたのでしょうか?
 この3-2ではこれら2つの点について検討することでストア派の主張する倫理学の全体像を概観します。


3-2-1、ストア派が理想とする人間のあり方
 通常、「倫理」的な主張は、ある特定の理想的な状態を想定した上で、その理想的な状態に接近していく方法を提示して「そのようにせよ!!」と述べることで行われます。
 この3-2-1では、ストア派が理想像として提示する人間のあり方がどのようなものであったのかを検討してみましょう。
 それに際して、まずは以下の資料を見て下さい。

『初期ストア派断片集3』九七五(ヒッポリュトス『全異端派論駁』第一巻21-2)
彼ら[ゼノンとクリュシッポス]もまた、すべてのことが宿命によって支配されていると、次のような例を用いて言い張っている――犬が乗り物のようなものにつながれている場合、ついて行こうと欲するならば、引かれもし、ついても行っており、必然とともに自由をも行使しているが、ついて行こうと欲しなくても、どっちみちついて行くよう強いられるだろう。かくて人間の場合も同じで、ついて行こうと欲しない人びとは、いずれにせよ宿命づけられたところに入るよう強いられるだろう、と言うのである。

 この引用文では、生命体が従う「支配原理」である「因果関係」と「自然」が「乗り物」に例えられ、その「支配原理」に従いながら生きる生命体(たんに「人間」と言い換えてもいいでしょう)の生き様が「乗り物に引きずられる犬」に例えられています。
 先にみたように、ストア派においては「人間」も「倫理」を問題にできるけれども、「内なる自然」である「ロゴス」に従って生きる存在でした。
 それゆえ、この「ロゴス」との関係を考慮した上で想定される「人間」の生き方は、ここに挙げた引用文に書かれている犬のあり方、つまり、「散々嫌がりながら乗り物に引きずられていく生き方」と「素直に乗り物についていく生き方」の二通りです。
 この二通りの生き様を、「トンカツ弁当」と「バランス弁当」の例で考えてみましょう。
 「人間」がその内なる支配原理である「ロゴス」に従うあり方は、「衝動」に対する吟味と「同意」という仕方で行われるものでした。
 「人間」も動物の一種ですからある「認識」に対して「人間」のうちでは「自己保存の衝動」が発生します。仮に、この「衝動」に従うのであれば、それは「動物」のありかたであり「ロゴス」に従う「人間」のあり方ではありません。「人間」のあり方は「ロゴス」の機能である「衝動」に対する「同意」という部分に本質があるんです。
 この「ロゴス」に従うという点を踏まえて「弁当」の例に戻りましょう。
 深夜、お腹をすかせたAさんがコンビニに弁当を買いに行ったとします。
 コンビニの棚には「トンカツ弁当」と「バランス弁当」が置いてあります。
 この二つを見た瞬間、Aさんの内側には「トンカツ弁当が食べたい!!」という「自己保存の衝動」が生じます。
 しかし、Aさんの「ロゴス」が「トンカツ弁当が食べたいけれども、ここはバランス弁当でいこう!!」という仕方で「衝動」とは異なる「同意」を与えたとします。
 このとき、Aさんも人間であり「内なる支配原理」に従う存在ですから、「ロゴス」が出した「同意」には従わなければなりません。
 そして、この状況において、Aさんが「バランス弁当もいいね!!」と考えて「バランス弁当」を持ってスッとレジに向かったとすれば、このAさんの状況は先の犬の例で言うところの「素直に乗り物についていく生き方」ということになります。
 しかし、同じ状況で、Aさんが「バランス弁当か……」と考えて、シブシブ「バランス弁当」を持ってレジに向かったとすれば、このAさんの状況は先の犬の例で言うところの「散々嫌がりながら乗り物に引きずられていく生き方」ということになります。
 もちろん、Aさんの「ロゴス」が「自己保存の衝動」と同調して「よし、トンカツ弁当でいこう!!」という「同意」を出した場合、Aさんがその「同意」に従って「トンカツ弁当」をレジに持っていったとしても、このAさんの行為は、同じ「トンカツ弁当」を持っていくという行為でも、「ロゴス」による「同意」に従っているという点で、「素直に乗り物についていく生き方」とみなされます。
 このように、先の引用文で言われている「素直に乗り物についていく生き方」とは、「動物」の「支配原理」である「自己保存の衝動」に従う生き方ではなく、その「衝動」に対して「ロゴス」が提出した「同意」に従う生き方であると考えることができます。
 さて、ストア派は人間の生き方としてこれら二つの生き方を提示するわけですが、彼らはそれら二つのうち「ロゴス」に素直に従う生き方をよいものとして採用し、それと同時に、「ロゴス」の同意を素直に受け入れない生き方を悪しきものとして退けます。
 つまり、「ロゴス」が提出した「同意」が、それに先立つ「自己保存の衝動」に同調するものであろうとそうでなかろうと、「内なる自然」である「ロゴス」にジタバタしないで素直に従うということ、これこそがストア派の理想とする人間の生き方なんですね。


3-2-2、理想的な生き方を実現するには… 〜「アパテイア」という方法〜
 前節では、ストア派の思い描く人間の理想的な生き方は「ロゴスに素直に従う生き方」であるということを示しました。
 では、ストア派の人々は、この「ロゴスに素直に従う生き方」を実現するために、人間はどのように振舞うべきだと考えていたのでしょうか。
 3-2-1で示した「乗り物につながれている犬」の事例が示しているように、人間は結局のところ「内なる自然」である「ロゴス」に従わざるを得ない存在でした。
 それゆえ、ストア派が人間の生き方の善し悪しという観点から問題とするのは、その「従い方」ということになります。
 より具体的に言うと、「素直に従う」のが「よい生き方」であり、「いやいや従う」のが「悪しき生き方」ということです。
 ここで「ロゴス」にいやいや従っているときの人間の内面を振り返ってみると、彼らの内面では「自己保存の衝動」に「ロゴス」が「NO!!」を突きつけているということに対する反感が生じていました。
 いいかえると、彼らの内面では、自らの支配原理である「ロゴス」にではなく、動物的な「衝動」の方に従いたいという欲求が強くなっているということなんですが、そうだとすれば、この「衝動」に向かう欲求こそが「ロゴスにいやいや従う」という人間の悪しき生き方の元凶であると考えることができます。
 つまり、この「衝動に従おうとする欲求」さえ取っ払ってしまえば、人間は「ロゴスに素直に従う」という善き生き方を実現できるわけです。
 では、ストア派の人々はどのようにしてこの「衝動に従う欲求」を取り払おうとしたのでしょうか。
 それについて、以下の引用文をみてください。

『初期ストア派断片集4』443(セネカ『書簡』116-1)
パトスを適度にもつ方がいいのか、まったくもたない方がいいのかについては、何度も問題にされてきた。われわれ(ストア派の人々)はそれを追放しようとするのに対して、ペリパトス派の人々はそれを穏やかにしようとする。

『初期ストア派断片集4』444(ラクタンティウス『信仰提要』6-14)
ストア派は、あらゆるパトスを――魂はそれの衝動によって動揺させられるのだが――人間から除き去るのである。パトスとは、欲望、快楽、恐怖、苦痛であるが、そのうちの前二者は、将来あるいは現在の善きものから生じ、後二者は将来あるいは現在の悪しきものから生じてある。同様に、彼らはこれらを、すでに述べたように、病気と呼んでいるが、それは自然によって植えつけられているだけでなく、歪んだ思惑によって受け入れられるものでもある。そのために、善悪についての間違った思惑が取り去られるなら、根本から絶やすことができると彼らは考えるのだ。なぜなら、知者は何ものをも善とは判断せず、何ものをも悪とは判断せずに、欲望に燃えることもなければ、快楽で有頂天になることもなく、恐怖で怯えることも、苦痛で萎縮することもないのだからである。

『初期ストア派断片集4』446(フィロン『七つの祭日について』第二巻348)
すべてパトスは非難されるべきものである。あらゆる度外れで過度の衝動も、魂の、ロゴスを欠いた、自然に反する動きも攻められるべきものなのだから。

 これら三つの資料は、ストア派の人々のパトスに対する態度を示しているものです。
 「パトス」とは、「〜を受ける、〜を被る(to receive、to suffe)」を意味するギリシア語の動詞「パスコー(pascho^)」から派生した名詞です。
 通常、日本語に訳す場合、この言葉には「情念」という訳語が当てられています。
 日本語で「情念」ていうと、なんていうか、こう、「日本海をバックに着物姿の女が泣いている」みたいなド演歌的イメージがありますが、ギリシア語で「パトス」というと、二つ目の資料にあげられている、欲望、快楽、恐怖、苦痛といった四つの事例が表しているように、「負の方向に偏っているものすごく強い感情」ぐらいの意味です。
 ストア派の人々は、先に見た「衝動」の生成に、この「パトス」が密接にかかわっていると考えて、「ロゴス」に従うために「パトス」の排除を主張しました。
 先に見たように、ストア派にとって悪しき生き方である「ロゴスにいやいや従う」というあり方は、「ロゴス」ではなく「衝動」に従おうとする意欲が強くなっていることによって生じるものでした。
 それゆえ、「ロゴスに素直に従う」ことをよしとするストア派にとって、ロゴスへの従属を妨げるものは可能な限り排除すべき対象でした。
 そのような思考過程を経て、ストア派の人々は「パトス」の排除に向かいます。
 そして、「衝動」に関係するありとあらゆる「パトス」を排除した結果として、ストア派は「アパテイア(無感動)」という状態を、人間の理想的なものとして提示します。
 この「アパテイア」とは、自分が行為するに当たって、一切の「パトス」を考慮しないシレーッとした状態のことです。
 つまり、ストア派の人々にとっては、「アパテイア」の状態に至ってシレーッとしたまんま「内なる支配原理」である「ロゴス」に坦々と従って生きていく生き方こそが最も善い生き方とされていたんですね。
 映画や漫画などを観てみても、現代では、この感情を表に出さないシレーッとしたタイプのキャラクターって悪役として登場しますよね。
 むしろ、どちらかといえば、それとは真逆の性格を持つ「俺の…!、俺の…!!、この思いが…、拳に…力を与えてくれるんだぜーーーーーーーー!!!!!!!」みたいなキャラクターが主人公として活躍する傾向にあります。
 具体的に言うと、クリリンや亀仙人が殺されたことに激怒してピッコロ大魔王に戦いを挑む悟空のようなキャラクターがこの手の激情型主人公として考えられますが、ストア派の人々にとっては、こういった激情型主人公のような生き方は取るに足らないおろかな生き方だったんですね。
 このように考えてみると、「アパテイア」の状態を徹底させることで坦々と「ロゴス」に従うあり方を理想とするストア派の倫理学は、現代的な観点からするとかなり特異なものにみえます。
 しかし、現代的な視点から見て「特異」であるとか「奇妙」であるからといって、それを安易に現代の倫理観に沿った仕方で解釈するのは間違いだと思います。
 ストア派の人々が展開する倫理的な主張の背景には、あらゆるものに行き渡ってすべてを支配する「自然」という自然学的な要素が前提とされていたのであり、以下に現代的な考え方にそぐわないからといって、思想的な前提を異にする現代人の枠組みにストア派の思想を無理やりねじ込むべきではありません。
 ストア派に限ったことではなく、これまでみてきた哲学者の主張であっても、現代のわれわれからすれば首をかしげるものが多々あったと思います。
 しかし、彼らの主張は彼らなりの世界観に基づいた上でなされている主張であって、現代人であるわれわれの主張も、われわれの世界観に基づいた主張であるという点で彼らの主張と内容こそ違えどそれが出力される経緯に大差ありません。
 ですから、ここで示したストア派の主張のように、明らかに現代的な観点からすると奇妙な主張に出くわしたとしても、それはそのようなものとして大きく受け入れることが大事だと思います。
 もちろん、解釈の一つのやり方として、これまで行われてきた解釈の方法と全く別の観点からその思想を解釈して、その思想があらかじめ持っていたこれまでとはまったく別の側面を新たに提示して見せるという方法はあると思いますし、その手のやり口は決して否定されるべきではないんですけどね…

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