アナクサゴラス(B.C.500?-B.C.428?)
生涯
若き日のソクラテスはこのアナクサゴラスの本をむさぼるように読んだ末、その学説に失望して、例の変わり者街道一直線の路線に転向したらしいです。
哲学というマイナーな分野にあって数少ない大メジャー人物であるソクラテス、その知的キャリアの中にものすごく大きな爪跡を残したのがこのアナクサゴラスなんですが、この人、なんか影が薄いんですよねぇ…。
実際、その生涯にまつわるエピソードもあんまり残っていませんし、そもそも、タレスやアナクシマンドロスなどソクラテス以前初期の人たちからみると120年ほど時代が下っているにもかかわらず、残っている資料の量が妙に少ないんですよ。
しかも、量が少ないうえに、その質もいまいちグッとくるものがないんですよね。
ものすごく成績はいいし、普通にしゃべっていてもそれなりにおもしろいし、スポーツをやらせても全般的にそつなくこなすんだけど、なぜかクラスの中で全く目立たない。そんなやつっていましたよね。
このアナクサゴラスは、そんな「優秀なんだけど目立たない人」の代表格のような人物です。
生涯の中で唯一確からしいエピソードといえば、裁判で訴えられたぐらいですね。
このアナクサゴラスも、それ以前の人たちと同様に、自然を探究の対象にしていたのですが、あるときから、空に輝く太陽について、それは我々を超越した特別な存在ではなくたんなる「熱い石」であると主張し始めます。
そして、その「太陽=熱い石」説を自分の学説として語っていたところ、不敬神の罪で訴えられてしまったんです。
そこでこのアナクサゴラスも、「それでも太陽は石だぁ!!!!!!!!」とか言いながら、ゼノンみたいに裁判官に噛み付くとかすればそれなりに歴史に残ったと思うんですが、この人の場合、友人にペリクレスという当時の大物がいて、その人が弁護に立ったもんだから比較的軽い刑で釈放されちゃうんです。
しかし、いくら軽い刑とはいっても、やっぱり訴えられた手前、なんとなく居づらくなってアテナイからランプサコスに移り住んでそこでひっそりと亡くなったらしいです。
こういう人の人生を見ていると、結局、歴史に残る人っていうのは、良かれ悪しかれ「行き過ぎた人」なんだと言うことがつくづくわかります。
何回も言いますけど、自分の体にうんこ塗ったり、宗教を作ったり、そういう、世間一般の感覚からすると「やっちゃったな……」っていう感じの、行ききった人の方が歴史の中では巨大な光を放ちますね。
学説
さて、その生き様という意味ではなんとなく地味だったアナクサゴラスですが、学説という点では、やはり哲学史上の大メジャーであるソクラテスが(最終的には退けるしろ一時は)大注目するだけのことはあって、なかなかに光るものがあります。
アナクサゴラスの学説は主に自然学に関係したものですが、彼は、エンペドクレスと同様に、万有のアルケーに当たるものと、そのアルケーを導く動因にあたるものの二つを主張します。
具体的にいうと、アナクサゴラスが万有のアルケーとして主張したのはスペルマタ(古代ギリシア語で「種子」の意味、英語で男性の精液をあらわすspermの語源ですね)という極微小の物体で、それらを司る動因として主張したのはヌース(古代ギリシア語で「知性」という意味)です。
なんか、「知性」がすべてを司るっていうあたりに哲学臭さを感じますが、ここでは例によって、ゴチャゴチャするのを防ぐために、これら二種類のものを別々に解説していきます。
1、スペルマタ
植物にしろ動物にしろ、しかるべきところに、しかるべき仕方で、「種」が撒かれれば、そこから新たな生命が……、ということに着目してのことかそうでないのかははっきりしませんが、アナクサゴラスはスペルマタというものを万有のアルケーとして提出します。
ここではそれがどのようなものであったのかをみていくわけですが、例によって以下にあげる資料をザッと見て下さい。
Fr.3抜粋
小さいものについて、これが最小であるというものはなく、どこまでもより小さいものがあり続ける
Fr.6抜粋
「大きなものを構成する部分も小さなものを構成する部分も、数量的に等しいからには、すべてのものがすべてのものに含まれている、ということになろう。また、いかなるものも分離独立したかたちで存在することはありえず、すべてのものがすべてのものの部分を分け持っている。これが最小のものというのはありえないからには、いかなるものも分離独立することは不可能であり、単独に当のもの自体となることも不可能であって、原初においてと同じく、今もまたすべてのものは渾然一体としてあるのである。すべてのものに多数のもの(要素的部分)が含まれており、より大きな事物にもより小さな事物にも、(原初の混合体から)分離してくるものどもの等しい数量のものが含まれている」。
Fr.10抜粋
「なぜなら、どうして(と彼は言う)毛髪ならざるものから毛髪が生じえようか、肉ならざるものから肉が生じえようか」。
Fr.11抜粋
「すべてのものにすべてのものの部分が含まれているが、ただし知性(ヌゥス)は別である。しかし、若干のものには知性も含まれている」。
さて、以上が、アナクサゴラスの示したスペルマタに関する情報が残っている資料です。
先ずは、少し前にみたゼノンのことを思い出しながら、Fr.3の資料を見て下さい。
ゼノンはそのパラドックスの中で、存在しているものが無限に分割された場合に生じる不都合を示しましたが、アナクサゴラスはこの無限分割を認めていたのではないかという節があります。
そして、アナクサゴラスは仮にあるものが無限に分割された場合でも、そのものが持っている「存在」という要素は決して消え去ることなく、無限に小さなものが存在し続けるのだと考えていたようです。
つまり、アナクサゴラスは無限分割を認めたうえで、その無限に分割された(もちろん、「無限」分割ですから分割が終わることはないのですが…)無限に小さな存在者を万有のアルケーであるスペルマタだと考えたのです。そして、これら無限に小さなものが寄せ集まり融合することによって、ありとあらゆる存在者が生まれると考えたんですね。
続いて、Fr.6を見て下さい。
この資料の中に書かれている「すべてのものに多数のものが含まれている」という一節はなんとなく抽象的でよくわかりませんが、じつはこの抽象的な一節こそが、無限に小さなものであるスペルマタの性質を一言で表す重要な一節なんです。
Fr.10とFr.11を見て下さい。
ここではそれぞれ「どうして毛髪ならざるものから毛髪が生じえようか、肉ならざるものから肉が生じえようか」「すべてのものにすべてのものの部分が含まれている」という表現がなされていますよね。
これはFr.6で言われている「すべてのものに多数のものが含まれている」という抽象的な表現を少しだけ具体的な表現に変えたものなのですが、ここでアナクサゴラスがどういったことを言わんとしているのか、おわかりになりますでしょうか?
例えば焼肉屋で豚トロを食べたとします。そのとき、私達の体の中では、おなかに脂肪がついたり、たんぱく質を吸収したり、ビタミンBが取り入れられたり、色々な変化が起きます。
アナクサゴラスはこのような状況に着目して、「これはおかしいぞ?」と思ったわけです。
つまり、「豚トロ(古代ギリシアに「豚トロ」は無いですけどね…)みたいにほとんど油のかたまりのようなものを食べているのに、なぜ、人間の体の中ではおなかの余分な脂身だけでなく、色々なところに変化が出るのだろう?」と考えたんです。
「豚肉の中に色々な成分が入っているから」
現代の我々ならこのように考えますよね。
実際、アナクサゴラスもそのように考えたんです。つまり、「豚トロには色々なものが含まれているから人間の体の色々なところに変化があるんだ!!」と考えたわけです。
「なにをあたりまえなことを…」と思う方もいらっしゃるかと思いますが、アナクサゴラスはここからさらにもう一歩踏み込んでこんな風に考えるんです。
すなわち、「もしかしたら、豚トロの中にはすべてのものが入っているんじゃないか?いや、豚トロだけじゃなく、すべてのものには、表には表れていないけれどもそのもの以外のすべてのものが入ってるんじゃないか?」といった具合に、「豚トロの中には色々入っているのでは?」という仮定を「すべてのものにはすべてのものが入っているのでは?」という風に拡張するんです。
なんとなくとらえどころのない考え方のように思われるかもしれませんが、要はこういうことです。
豚トロで考えてみると、豚トロというひとつのものの中には油、肉、ビタミンとかそういったものだけでなく、水、血液、髪の毛、土、水、火、木、鉄、砂、草…といった具合にありとあらゆるものが含まれているとアナクサゴラスは考えたんです。
そして、これと同様のことは豚トロだけでなく、木やら水やらそれ以外のあらゆるものにも当てはまるのではないか、つまり、水の中にも火や油、肉などありとあらゆるものが入っているし、木のなかにも髪の毛や骨やそれ以外のありとあらゆるものが入っているとそんな風に考えたんですね。
ここで「でも、すべてのものにすべてが入っているのなら、すべてのものは全部同じになるんじゃないの…?だけど、肉と木は違うよね、水と火も違うよね…?」という疑問が出てきます。
当然アナクサゴラスもこの点には気づいています。
そこで、アナクサゴラスは「あらゆるものは無限に小さなスペルマタによって構成されている」というおおもとの着想に帰ります。
仮に「金の延べ棒」を考えてみましょう。アナクサゴラスの考え方では、この「金の延べ棒」は無限に小さなスペルマタが寄せ集まってできていて、なおかつ、ありとあらゆるものがこの「金の延べ棒」の中に含まれていることになります。
しかし、すべてのものが含まれているにもかかわらず、この「金の延べ棒」は「金の延べ棒」であって「木の板」ではないのです。
そこで、アナクサゴラスは「割合」という考え方を持ち出します。つまり、すべてのものにすべてのものが入っているけれども、そのすべてのものがすべて等しい割合で入っているのではなく、それぞれに違う割合で入っているのではないかと考えたんです。
具体的にいうと、「金の延べ棒」にはありとあらゆるもののうち「金」というものが一番多く含まれていて、そうであるがゆえにそれは「金の延べ棒」なんだということです。もちろん、これと同じことは「木の板」にもいえます。つまり、「木の板」の場合はありとあらゆるものが含まれているけれどもそのなかで「木」の割合が一番多いからそれは「木の板」なんだということです。
ここまできて、「なるほど!あらゆるものはスペルマタが融合しているものだから、その融合状態の中にはすべてのスペルマタが入っているけれども、そのすべてのスペルマタの中で『金のスペルマタ』の含まれている割合が一番多いものが金になって、『木のスペルマタ』の含まれている割合が一番多いものが木になるんですね!!!!!」と考えると間違いです。
Fr.6のなかで「すべてのものがすべてのものに含まれている」といわれていましたが、この「すべてのもの」の中には無限に微小なものであり、万有のアルケーでもあるスペルマタも含まれています。
つまり、金の延べ棒、木の板、豚トロといったものだけでなく、それらのもとであるスペルマタのなかにもすべてのものが入っているのです。
ですから、「金のスペルマタ」とか「木のスペルマタ」といったものは存在しません。
すべてのスペルマタにもそれぞれのスペルマタごとに異なった割合でありとあらゆるものが入っているんです。
何を言っているのかわからないかもしれませんが、こんなふうに考えて見て下さい。
二つの物体αとβがあります。
このうち、αはA、B、Cという三つのスペルマタが融合してできており、βはD、E、F、Gという四つのスペルマタが融合してできています。
そして、αのもとになっているスペルマタの個々の成分割合は以下のとおりです。
スペルマタA(金15%、鉄8%、血液2%、水0.5%……)
スペルマタB(血液10%、金9%、肉2%、皮0.9%……)
スペルマタC(鉛10%、金9.9%、木1%、空気0.5%……)
これらの成分比率より、融合体αの成分比率は以下のとおりです。
α(金11.3%、血液4%、鉛3.333…%、……)
融合体αにおいてもっとも多い成分は金。
それゆえ、αは金。
続いて、βのもとになっているスペルマタの個々の成分表示は以下のとおりです。
スペルマタD(肉20%、木3%、水2%、火1%……)
スペルマタE(血液5%、金4.8%、鉄4.1%、鉛.0.1%……)
スペルマタF(ダイヤ80%、皮0.1%、血液0.01%、水0.002%)
スペルマタG(炭5%、火3%、塩0.2%、水0.15%……)
これらの成分比率より、融合体βの成分比率は以下のとおりです。
β(ダイヤ20%、肉5%、炭1.25%……)
融合体βにおいてもっとも多い成分はダイヤ。
それゆえ、βはダイヤ。
このように、複数のスペルマタによって構成されている融合体は、そのもととなるスペルマタの成分の合計に従って、最終的にそれらすべての成分のうちでもっとも割合の多いものになるということです。
これが、アナクサゴラスにおいていわれる「すべてのものがすべてのものに含まれている」の内実です。
ただ、ここまで書いてきてこんなことをいうのはなんですが、アナクサゴラスの学説に関しては資料がいくぶん不明確なこともあって、パルメニデス同様、解釈を固定するのが極めて困難です。
このコンテンツではおおよそ解釈の主流派であろうと思われる「混合比」の考え方をより現代的に明確化して説明していますが、この考え方に違和感をもたれた方は、実際に岩波書店から出ている『ソクラテス以前哲学者断片集』にあたってみることをお勧めします(ちなみに、全六巻のうち、アナクサゴラスは第三巻に収録されています)。
2、ヌース(知性)
ここまでの部分ではアナクサゴラスが万有のアルケーとしたスペルマタについて概観しました。
ここからは、そのアルケーを統合する原理としてアナクサゴラスが提出したヌース(知性)の概念を概観します。
エンペドクレスの自然に関する学説をみたときに、エンペドクレスは火、水、土、空気という四つのアルケーのほかに、それらを混ぜたり分離させたりする原理(動因)に当たる「愛」と「争い」というものを導入してましたよね。
アナクサゴラスが取り入れたヌースも、考え方としてはエンペドクレスの「愛」と「争い」の二つと同じような感じです。
では、例によって、以下の資料を見て下さい(ヌースという言葉は古代ギリシア語で「知性」という意味なので、ここに引用する資料の中では「ヌース」というギリシア語表記ではなく「知性」という訳語で表記されています)。
Fr.12
他のものどもはすべてのものの部分を分け持っているが、しかし知性は無限にして自律支配的であり、いかなる事物とも混じり合わず、単独にそれ自体として独立自存している。なぜなら、もし独立自存していないで何か他のものと混じり合っているとするならば、一旦何ものかと混じり合った以上は、あらゆる事物を分け持つことになるからである。なぜなら、すでに以前のところでわたしが語ったように、すべてのものにすべてのものの部分が含まれているからである。そして、一緒に混じり合ったものどもが知性を妨げ、したがってそれは、単独に独立自存している場合に行っていたのと同じようには、事物を支配することがなんらできないことになるであろう。なぜなら、知性はすべての事物のうちでもっとも軽微にして最も純粋なものであり、すべてのものについてのすべての知識を掌握し、最大の力を有しているのである。また、魂(のみ)は備えているものたちについても、より大きなものもより小さなものも、すべてを知性が支配している。そして、宇宙全体の回転運動を支配して、最初に回転を与えたのも知性であった。最初は小さなある一点から回転が始まったが、しだいに広範囲にわたって回転しており、今後なお広範囲に回転は広がっていくであろう。そして、一緒に混合し合っているものども、分離していくものども、分解していくものども――それらすべてを知性は掌握した。そしていまはもはやないものについては、それがどのようになるはずであったか、事実どのようであったかを、またいま現にあるものを、またそれがどのようになるであろうかを、知性は秩序づけたし、さらには、いま現に星々や太陽や月、空気や上層気(アイテール)などの分離しているものどもが行っている、この回転運動をも秩序づけたのである。直後に分離を行わしめるのは、この回転運動である。そして、粗なものから濃密なものが分離し、冷たいものから熱いものが、暗いものから明るいものが、湿潤なものから乾いたものが分離する。しかし、多数のものの多数の部分が存在している。あるものが別のものから完全に分離すること、分解し合うことはけっしてないが、ただし知性のみは別である。知性は、より大きなものもより小さなものも、全体が同質一様である。しかしそれ以外のものは、いずれが他のいずれとも同質的ではなく、それらのうちでもっとも多く含まれているものが、最も目立つものとして、一なる個々のものであり、あったのである。
さて、あいかわらず、古代の資料は何をいっているのかよくわかりませんが、この資料でいわれているヌース(知性)の性質は大まかにいって以下の二つです。
(1)他のものから独立していて決して混じり合うことなく純粋
(2)すべてを支配している
ここからはこれら二つの性質を検討しながらヌースについての理解を深めていくことにします。
先ずは一つ目の「純粋」という点についてみてみましょう。
スペルマタの概念を検討した際に、「すべてのものにすべてのものが含まれている」という考え方を確認しましたが、ここで言われるヌースの純粋さとは、あらゆるものの中でヌースだけが何ものも含まれていない存在だということです。
言い換えるならば、これはヌースだけがスペルマタの融合体ではないということを意味しています。
「スペルマタは『万有』のアルケーじゃないのか?」とか「『すべてのものにはすべてのものが含まれている』って言ってたのに『すべて』じゃないじゃないか!!」というご批判はあるかと思いますが、ここはねぇ……、仕方ないって言ったらいけないんでしょうけど、仕方ないんですよねぇ……
でも、一つの考え方として、「万有」や「すべて」という概念の方に着目して、これらのものを、それぞれに「自然物万有」や「自然物すべて」という仕方で「自然物」に限定されたものと考えれば、多少苦しい感はありますが(やっぱり、「すべて」っていう全称命題の拘束はきついですよね)、困難はなんとか回避できます。
そして、そのように考えた場合、このヌースという存在は「自然万有」のアルケーであるスペルマタによってできているものではないことになるので、必然的に、自然という領域を超えたところに存在するものということになります。
つまり、スペルマタによって構成されている自然界があって、その上に(別に、下でもいいですけどね)自然界とは別のレベルで、ヌースがドーンと存在しているということです。
エンペドクレスの「愛」と「争い」を思い出してもらいたいんですが、この二つの原理は、自然界を構成するアルケーである四元、すなわち、火、水、土、空気とその存在のレベルという点では区別されていませんでした。
もうちょっとわかりやすくいうと、「愛」と「争い」は確かに火、水、土、空気とは違う「動因」という性格を持っていたけれども、四元と同じく自然界の中に位置していたということです。
それに対して、アナクサゴラスのヌースは自然界を超越したところに存在しているんですね。
これこそがエンペドクレスとアナクサゴラスの違いであり、「他のものから独立していて決して混じり合うことなく純粋」というヌースの性質が持っている意味です。
次に、もう一つの性質である「すべてを支配している」についてみてみましょう。
ここでいわれている「すべて」とは、スペルマタ、もしくはスペルマタによって構成されている自然界全般のことですが、問題なのは、ヌースがそれらのものを支配する「やり方」です。
資料の中に「宇宙全体の回転運動を支配して、最初に回転を与えたのも知性であった。最初は小さなある一点から回転が始まったが、しだいに広範囲にわたって回転しており、今後なお広範囲に回転は広がっていくであろう。そして、一緒に混合し合っているものども、分離していくものども、分解していくものども――それらすべてを知性は掌握した」という部分があるので、ヌースが自然界に影響を与えてある種の回転運動を引き起こし、その回転運動によってスペルマタがそれぞれに融合して自然界の様々な事物が構成されることになるという点については、まあまあ、いいかなという感じなんです。
しかし、ここで問題となるのは、ヌースが万有を支配するやり方が、自然万有をその誕生から消滅、そして更なる誕生から消滅という仕方で、そのすべてを最初から最後まで(「最初」や「最後」っていう概念をその当時の人々が問題にしていたのか否かという問題はありますが、ここはとりあえずそういう言い方をしておいたほうがわかりやすいので、便宜上、「最初から最後まで」という言い方をしておきます)完全に支配しているという支配の仕方なのか、それとも、ドミノ倒しの最初の「チョンッ!」みたいに、、一回、何らかの影響を与えたら、あとはそこから自動的に回転運動が生じて、その回転運動によって自然界のあらゆるものが生じてくるという支配の仕方なのか、そのどっちなのかという点です。
わかりやすくいうと、ヌースが自然界を支配するやり方は、車に乗ってずっと運転し続けるドライバータイプなのか、それとも、最初にガリガリッと氷をひっかいて後はそのままそりに飛び乗って勢いに任せるボブスレータイプなのか、そのどっちなのかということです。
エンペドクレスの場合は「愛」と「争い」という原理に従って、四元がくっついたり分離したりするわけですから、最初(「最初」という概念があったかどうか、もしくは、エンペドクレスの学説において「最初」という考え方が成り立つのかどうかは一旦置いておいて…)から最後まで、この二つの原理が支配し続けるドライバータイプだと考えることができます。
しかし、ヌースの場合はどうなんでしょう?
さんざん期待を持たせておいてこんなことを言うのはあれなんですが、この問題に関しては、正直、なんともいえないんですよね。
個人的には、最初の一撃のみ食らわして後はノータッチのボブスレータイプなんじゃないかと思うんですが、「じゃあ、それを裏付ける根拠があるのか?」といわれると、「う〜ん…」って感じなんですよね。
結局、「資料がない」っていう話になるんですけど、現在残っている資料から判断できることとして、アナクサゴラスが自然界を支配するものとしてヌースというものを取り入れていたということは確かなんですが、その支配の仕方についてはなんともいえないっていうのが現実です。
なんとなく尻すぼみな感じで終わってしまいましたが、以上がアナクサゴラスのヌースの概念です。
自然界から完全に独立し、純粋な存在として自分以外の存在全てを秩序づける存在者。この手の自然的な意味合いを全く持たないある意味で無機質な存在を想定したということが、アナクサゴラス最大の功績でしょうね。