アナクシメネス(B.C.506?-没年不明)
生涯
 一応、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスの順に時代が新しくなっているので、本来であれば、この順番で残っている資料の量が増えていてもいいような気がするのですが、このアナクシメネスはミレトス派と呼ばれる3人の哲学者のうちで最も資料が少ない人物です。
 ですから、その生涯に関しては、全くわかりません。
 「アナクシマンドロスの弟子であった」ということだけは恐らく正しいのではないかと思うのですが、他のことに関しては、いっさいの記述が残っていない(父親の名前ぐらいは残っているのですが、それも正しいのかどうか定かではありません)ので、推測することも不可能です。


学説
 アナクシメネスの場合、生涯に関する記述がほとんど残っていないのに比べて、学説に関する資料は比較的多く残されています。
 むしろ、アナクシメネスがらみで残っている資料はそのほとんどが学説がらみのもので、なおかつ、それら諸々の資料はどれも皆異口同音に「アナクシメネスは空気をアルケーであると主張した」と述べています。
 ここでいわれる「空気」は古代ギリシア語で言うところの「アエール」というものなのですが、この空気、即ち、アエールが現代の我々が考えているような空気であるのか、それとも、何か全く別のものであるのかは正直なところ、定かではありません。
 そもそも、空気がどうこう以前に、このアエールが何らかの気体の一種として認識されていたのかどうかもはっきりしたことはわかりません。
 ですから、日本語の翻訳上便宜的に「空気」という訳が与えれれていますが、この「空気」を我々が普段考えているような「空気」と同じ意味で取ってしまうと、ちょっと、「どうなのかなぁ…」という感じがします。
 さて、これまで見てきたアナクシメネス以前の二人を思い出してみると、先ずはタレスが「アルケーは水である」と主張し、その主張を受けてアナクシマンドロスが「アルケーは無限定なものである」と主張していましたよね。
 そして、この「無限定」なものというのは、「世の中には相互に矛盾するものがたくさんある」という観察から獲得された知識をもとに、その観察的知識に「相互に矛盾するものが両方とも一つのものから生まれるには、その対立を超え出た何ものでもないものから生まれるべきだ」という推論を加えて生まれた、「一ひねりある考え方」だということを確認しました。
 では、アナクシメネスはどうでしょう。
 一見すると、アナクシメネスの主張は「アルケーは空気である」という仕方でアルケーを限定しているという点で、せっかく一ひねりしたアナクシマンドロスの主張を、もう一度タレスの頃まで戻してしまったような印象を受けます。
 しかし、本当にそうなのでしょうか…
 そもそも、アナクシマンドロスがタレスの主張にダメを出して自分の意見を述べたのは、「限定されているものがアルケーだとすると、自然界にある対立するものが両方ともその限定されたものから生まれるというのはおかしいのではないか」という疑問を自分なりに解決するためでした。
 ここで、アナクシメネスの主張するアルケーを考えてみると、確かにそれは「空気」という仕方で限定されています。しかし、では、その「空気」というものは対立する二つのもののどちらか片一方に入るようなものなのでしょうか…?
 わかりやすい話、「空気の反対って何?」と聞かれたらなんと答えますか?
 もしもそれが「水」だったら、なんとなく「火」とか答えられますよね(「火と水が対立するってどういう状況だ?」とか、「そもそも対立って何だ」といった問題はとりあえず置いておいて、あくまで感覚的な話です。「感覚的」っていう曖昧さが納得いかなければ、「火は水をかければ消える」ぐらいのことでもけっこうです。この「火は水をかければ消える」の場合、そこにはそれまで「あった」ものが「なくなる」という対立構造が存在しますから)。
 では、「空気」は何に対立するのでしょう…?
 ちょっと思いつかないですよね。
 つまり、アナクシメネスの「空気」は、確かに名前をつけて限定はしているけれども、「熱いVS冷たい」とか「硬いVSやわらかい」とか「湿ってるVS乾いてる」のような単純な対立構造の中には入らないものだと考えることができます。
 ましてや、先にも書いたように、アナクシメネスの「空気」は我々が考えるような「空気」ではなく、なにやら得体の知れない「空気」です。
 ですから、アナクシメネスの場合、「アルケーは空気である」と主張したからといって、それを安易にタレスに戻ったと考えるのは間違いということになります。
 むしろ、アナクシマンドロスが主張した「無限定なもの」にちょっとした呼び名を与えたと考えたほうがより適切なのかもしれません。
 ですが、これだけだと、ただ「無限定なもの」に名前をつけただけで、アナクシマンドロスから全然進歩していないことになります。
 しかし、以下にあげる資料をみてみると、そこには明確な「進歩」の痕跡を見出すことができます。

DK13A5抜粋
アナクシメネスは、エウリュストラトスを父とするミレトスの人で、アナクシマンドロスの一門であった。彼自身もまた、師と同じく基体となるものが単一かつ無限であると言ったが、しかし、アナクシマンドロスのようにそれを無限定なものとはせず、限定されたものであると言い、空気がそれであると述べた。そして、それは、希薄さと濃密さの違いによって、あり方を異にする、という。すなわち、薄くなると火となり、濃くなると風となり、次いで雲となり、さらに濃くなると水となり、そして土となり石となり、また、この他のものもこれらから生ずる、というのである。

 これがアナクシメネスにおける自然学の「進歩」を表している資料なんですが、いったいどの点が「進歩」しているのでしょうか。
 比較検討するため、ちょっとだけアナクシマンドロスのことを思い出してみましょう。
 アナクシマンドロスは「相互に矛盾するものの両方を同時に生み出すものは限定されていてはならない」という発想は持っていましたが、では実際に、その「無限定なもの」からどのようにして相互矛盾するものが生まれてくるのかという点については何も語っていませんでした(もちろん、語ってはいたけれども現代までその資料が残っていなかったという可能性は十分に考えられますし、恐らくそちらの方が真実に近いでしょう)。
 しかし、アナクシメネスはそのアナクシマンドロスをさらに一歩進めて、自然界に存在している様々なもの(対立物も当然含む)がどうやって生じてくるのかを、「空気の濃度の変化」によって説明しようとしたんです。
 これだけだと「それで…?」と思う方がたくさんいらっしゃると思います。
 実際、現代の我々の眼から見ると、アナクシメネスがやったことは「それで…?」と思う程度の些細なことかもしれません。
 しかし、よくよく考えてみると、この発想は非常に画期的なものなんです。
 「空気の濃度の変化」によって、様々なものが生まれると考えたということは、見方を変えると、「質の違い」を「濃度の違い」というものに置き換えて説明しているということです。
 「熱い=薄い」「冷たい=濃い」といった具合ですね。
 このことは、ともすれば主観的な判断になりがちな「質」というものを、「量」という客観的な(「主観と客観という相違はあるのか?」という大きな問題はありますが、それは置いておいて…)ものによって説明しようとしたということを意味します。
 突然ですが、こんな状況を考えてみましょう。ある人が醤油ラーメンを食べたとします。そしてその人が「なんか、味薄いよね…」と言ったとします。でも、隣に座っていた人がたまたま塩分濃度を測定する機械を持っていてそのラーメンの濃度を測ってみたら、ものすごく高い数値が出たので、その値をその人に伝えたとします。
 恐らくそこでは、「これ、味、薄いよね…?」「塩分濃度高いよ」「えっ!?俺の舌がおかしいのかな…」といった会話が交わされたことでしょう。
 これは、「しょっぱい」という質が濃度というものに置き換えられている具体例です。
 主観的なものを何らかの客観的なものに還元するという営みは、現代においてもクオリアなどをはじめとした科学的な分野で大きな問題として取り扱われています。
 そのことを思うと、アナクシメネスが行った「質」の「濃度」への還元は「主観」を「客観」へ還元しようとした営みの端緒として高く評価できるでしょう。

補足…現代において「主観」と「客観」の区別は大きく揺らいでいます。その揺らぎは主に「客観」というものの成立可能性という観点から生じたものですが、少なくとも、このアナクシメネスの時代においては「主観」と「客観」は明確に区別可能なものとみなされていました。

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