メリッソス
生涯
 突然ですけど、これまでみてきた哲学者って、住所不定無職みたいな人が多くなかったですか…?
 タレスあたりは「オリーブ搾り機」を使ってレンタルビジネスをやっていましたが、それ以外は、収入源などの生活の基礎にあたる部分が全くわからない得体の知れない人たちでしたよね。
 体にうんこ塗って死んだり、宗教作ったり、哲学がどうこう以前に「働け!!」っていう感じがしますよね。
 そんな人びととは対照的に、このメリッソスは社会人としてものすごくちゃんとした活動をしていた人物です。
 もともと、イタリアのサモスで生まれた人なのですが、その土地でメキメキと頭角を現し、政治家となり市民の人々から高い賞賛を得たそうです。
 そして政治家として賞賛を得た後は、その高い手腕が買われて、サモス艦隊を率いる将軍に選ばれた上、それらの艦隊を率いてペリクレス率いるアテナイ海軍と激戦を演じ、一勝一敗の戦績を上げるという功績を残しました。
 この時点で、ものすごく優れた社会人ですよね。
 それ以前のニート的な哲学者達とは比べ物にならない活躍ぶりです。
 しかし、このメリッソス、社会人としては立派な人物だったんですが、哲学者としてはそれほど大きな成果を挙げていません。
 メリッソスは、哲学史的にはパルメニデスやゼノンと同じエレア派と呼ばれるグループに組み込まれているのですが、ゼノンと同じく、自分自身に独自の学説があったというわけではなく、パルメニデスの学説を補強するという立場で議論を展開した人です。
 また、その議論の補強の仕方もゼノンのようにパラドックスを使うというインパクトのあるやり方ではなく、普通に散文的に主張を展開するだけなので、なんとなく地味なんですよね。
 ニート的であるならば哲学者として優れている。
 この命題は果たして真なのでしょうか?


学説
 社会人としてものすごく立派な人物だったけれども、哲学者としてはいまひとつインパクトに欠ける。
 「生涯」の項目ではそんなことを書きましたが、ここではその「インパクトに欠ける」メリッソスの学説をみていきます。
 メリッソスが具体的にパルメニデスの学説を補強したのは「空虚の否定」「あるものは無限である」「あるものは非物体的なものである」の三つの点についてです。これらはまとめて一緒に扱うよりもそれぞれに対応する資料を見ながら一個ずつみていったほうがわかりやすいと思うので、ここからは問題を一つ一つ取り上げながら解説していきます。

1、「空虚について」
 先ずは、以下にあげる資料を見て下さい。

Fr.7抜粋
また、いかなる空虚もあらぬ。なぜなら空虚はいかなるものでもあらぬから。すると、いかなるものでもあらぬものはまた、ありえないのである。また、それは動くことさえできない。というのも、それはどこにも退去しえず、むしろ充実しているからである。実際、もしそれが空虚なものであれば、それは空虚へと退去していくだろう。ところで、いかなる空虚もあらぬとすれば、それは、退去のためのいかなる場も持たないであろう。

 「空虚」という概念が突然出てきたので面食らった方もおられると思いますが、この「空虚」はパルメニデスの「ある」の反対、即ち、「あらぬ」だと思っていただければけっこうです。
 もちろん、パルメニデスの項目で見たように、パルメニデスの「ある」をどのように解釈するかによって「あらぬ」の意味も変わってきますが、ここでの「あらぬ」はパルメニデスの「ある」を存在の意味で解釈した場合に対応しています。つまり、「存在しない」という意味ですね。
 さてここで、パルメニデスの項目で紹介した資料を思い出していただきたいのですが、パルメニデスはこの「あらぬ」について、それほど深く言及してませんでしたよね。むしろ、その資料はほとんど「ある」に関するもので、「あらぬ」については、「なぜならば汝はあらぬものを知ることもできなければ(それはなしえぬこと)語ることもできないから(Fr.2)」と主張していたぐらいで、それ以外はほとんど触れられずに放置されていました。
 しかし、メリッソスはこの「あらぬ」に着目して、「ある」と「あらぬ」の関係を補強しようとしたんです。
 このFr.7は、このまま見ているとなんとなく呪文みたいでいまいちよくわかりませんが、よくよく見てみると、これは二つの点で「あらぬ」、即ち、「空虚」が存在しないことを主張しているということがわかります。
 一つ目は「また、いかなる空虚もあらぬ。なぜなら空虚はいかなるものでもあらぬから。すると、いかなるものでもあらぬものはまた、ありえないのである」の部分です。ここでは、「いかなるものでもないものは、存在しない」ということが言われています。要は、存在しているというからには「何か」「である」はずなんですね。ところが、この「あらぬ」はなにものでも「あらぬ」からその結果として「あらぬ(存在しない)」ということです。
 二つ目は、パルメニデスが「ある」の性質の一つとしてあげた「不動性」との関係からなされる「あらぬ」の否定です。
 それがなされるのは資料の後半部分ですが、メリッソスの議論はこうです。つまり、「もしも、何も存在しない『あらぬ』があるのならば、『ある』は動こうと思えばその何もないところに向かって動くことができる。しかし、何も存在しない『あらぬ』がなければ『ある』はどこにも動けずに不動である」ということです。
 メリッソスは、パルメニデスの段階では「ある」は物理的な観点で動く余地があると考えたんですね。そこで、「動くためのスペースが存在しなければ、そもそも動くことができない」と主張して、「ある」が動く可能性を物理的な場所移動という意味で完全に封じ込めたんです。
 これが、メリッソスによるパルメニデス補強の一点目、即ち「空虚の否定」です。
 これによって、パルメニデスの「ある」の物理的な不動性は完全に確保されたことになります。


2、「あるものは無限である」
 例によって、以下にあげる資料を見て下さい。

Fr.2
「そこで、それが生成したものでない以上、それはあり、常にあったし、常にあるだろう。そして、それはいかなる始まりも持たず、またいかなる終わりも持たないで、むしろ無限である。なぜなら、もしそれが生成したのであれば、その場合、それは何らかの始まりを持ち(というのも、ある時に生成したとすれば、それは始まったのでなければならないだろうから)、そして何らかの終わりを持つ(というのも、ある時に生成したとすれば、それは終わったのでなければならないだろうから)であろうから。しかしそれは、始まったのでも終わったのでもないがゆえに、常にあったしつねにあるだろう。そしていかなる始まりも持たず、いかなる終わりもまた持たないのである。なぜなら、まったくもってあらぬものがつねにあるなど不可能なことだからである。」

Fr.5抜粋
そして彼は、「もしそれが一でないならば、それは何か別のものに対して限界を形成することになろう」と推論し、無限から一を導出した。

Fr.6抜粋
実際、感覚で捉えうるものは明らかにあるように思われるが、もしあるものが一ならば、それ以外に別なものはありえないだろう。メリッソスは、「なぜならば、もしそれが<無限である>ならば、それは一であろうから。というのも、それが二つのものであれば、それらは無限ではありえず、むしろ互いに対して限界を形成することになろうからである」と言っており、…

 さて、再び、パルメニデスが「ある」の性質について述べていた資料を思い出して欲しいのですが、パルメニデスは「ある」について「なぜならば力つよき必然の女神が限界の縛めの中にそれを保持し、その限界がまわりからこれを閉じ込めているから(Fr.8)」という仕方で主張し、「ある」に「限界」を設けていましたよね。
 ところが、メリッソスはこの「ある」について「無限である」と主張したんです。
 しかも、メリッソスはこの「無限」という点について、「時間的な無限性」と「空間的な無限性」の両方を主張したんです。
 先ずは、メリッソスの「時間的な無限性」に関する議論を見て行きましょう。
 メリッソスの議論を見る前に、例によって、パルメニデスの主張を思い出してもらいたいのですが、パルメニデスは「それはあったことなくあるだろうこともない。今あるのである」と語り、「ある」が時間という概念を越え出たものであることを主張していましたよね。
 ところが、メリッソスは、Fr.2で「それはあり、常にあったし、常にあるだろう」と主張したんです。
 この両者の違いはパッと見にはわかりにくいんですが、仮に、永遠の過去から永劫の未来まで無限に続いている数直線状のものとして時間をイメージしてください。
 その場合、パルメニデスは、「ある」をその時間の数直線の上に位置づけることを拒否して、時間を越えたところにポンッとおいたことになります。
 しかし、メリッソスの場合は、その時間の数直線全体に「ある」をベターッと貼り付けたんです。
 つまり、どの時間を切り取っても「ある」は存在するということです。どんな過去でも、どんな未来でも、時間の数直線全体にベターッと張り付いてますから、どの点で切り取っても金太郎飴のように「ある」は常に「ある」ということです。
 メリッソスはこういう仕方で時間の数直線状に無限に伸びている「ある」を主張したんですね。
 これまで、メリッソスはパルメニデスの補強をしたという観点で見てきましたが、この時間的な無限性という点では、メリッソスがパルメニデスの補強をしたことになるのかどうかはちょっと微妙です。
 時間という意味では、パルメニデスの場合は、それを超越させていましたから、いかに無限とはいえ、見方によってはメリッソスはパルメニデスの「ある」を時間のなかにおとしめたと考えることもできます。
 次に、メリッソスの「空間的な無限性」に関する議論を見ていきましょう。
 この「空間的な無限性」の議論はFr.5とFr.6に書かれています。
 あいかわらず、表現が独特なので資料の文章はいまいちわかりづらいですが、簡潔に要約すると以下のようになります。つまり、

(1)「ある」に限界があるとする。
(2)その場合、限界の外には何があるのか?
(3)「空虚」は存在しないので、限界の外に空虚があるということはない。
(4)また、「空虚」以外の何かが存在するということもない。
(5)なぜなら、「ある」は「一」であるから(パルメニデス参照)。
(6)よって、「ある」が限界付けられることはなく、「ある」は無限である。

 これがメリッソスによる「空間的な無限性」に関する主張です。
 子供のころによく、「宇宙の果てってさぁ…」みたいなことをいったりしますよね。
 そして、もう少し知恵がついてくると、「宇宙の果ての外って…?」という問いを立てるようになり、この問いに現れる「果ての外」というものもの概念的なイメージのしづらさに直面して、最終的に「…?」という状態になるんですよね。
 メリッソスもこういう考え方を利用したんです。
 つまり、「限界があるなら、その外側には何があるんだ?」という話です。
 そういう疑問を出した後に、メリッソスはまず「空虚は存在しないのだから限界の外にあるのは空虚ではない」と考え、それに続いて「パルメニデスは『ある』が『一』であると主張していた、それゆえ、『ある』の限界の外に何かが「ある」のであれば、それは二になってしまう。以上のことから、『ある』の限界の外に何かが「ある」とするのは誤りである」と考えるに到り、最終的に、「『ある』は無限である」という考え方に落ち着いたんですね。
 これが、メリッソスがパルメニデスに施した二つ目の補強、「あるものは無限である」です。


3、「あるものは非物体的なものである」
 最後に見る補強がこの「あるものは非物体的なものである」です。
 再び、例によって、以下の資料を見て下さい。

Fr.9
実際、(メリッソスは)あるものが非物体的であると言わんとしていることを、次のように主張することで明確にしている。「したがって、それが総じてあると仮定すれば、それは一でなければならない。しかしそれが一であるならば、それはいかなる物体も備えていてはならない。しかしもしそれが厚みを備えているならば、それは部分を備えていることになり、もはや一ではないであろう」。

 さて、この資料の中でメリッソスはパルメニデスにおいて「ある」と言われているものが物体ではないということを主張します。
 この議論は「物体であるならばそれは厚みを持っている」ということと「一は部分を持っていない」という二つのことが前提となっていますが、先ずは、この前提の意味を確認してみましょう。
 一つ目の前提である「物体であるならばそれは厚みを持っている」に関しては、それほど詳しく説明する必要もないでしょう。
 要は、もしも物体であるなら、それがどんなに小さなものでも「厚み」、もしくは、「幅」があるということです。
 実際、そうですよね。一切の幅を持たない物体ってちょっと考えづらいですよね。
 次に、二つ目の前提である「一は部分を持っていない」をみてみましょう。
 これも、それほど詳しく説明しなくても大丈夫だと思います。
 もしかしたら、パルメニデスの項目でも説明したかもしれませんが、もしも、あるものが部分Aと部分Bに分けられるとしたら(これは、別にパカッと割ったりできなくても、部分Aと部分Bという二つの部分に区別することができる場合でも同じです)、それはAとBの二つに分けることができた時点で「一」ではなく「二」になりますよね。
 これが「一は部分を持っていない」ということです。
 さて、以上が前提の説明ですが、これら二つの前提を使ってメリッソスは「ある」と言われているものが物体ではないということを証明しようとしたんです。つまり、

(1)「ある」と言われるものが物体であるならば、それは厚みを持っている
(2)なんであれ、厚みを持つものは部分に分けることができる(前提1)
(3)ところで、「ある」と言われるものは一である(パルメニデスによる定義)。
(4)一は部分を持っていない(前提2)
(5)それゆえ、「ある」と言われるものは物体ではない

 このような仕方で、メリッソスはパルメニデスの「ある」の「非物体性」を主張するんですね。
 さて、以上がメリッソスによってなされたパルメニデスの学説の補強です。
 一部、時間的な側面に関する議論では安易に補強と呼べないようなところもありましたが、パルメニデスの「ある」を、パルメニデスの項目でみた「解釈1」のような仕方で解釈した場合、パルメニデスにおいて「ある」と呼ばれていたものは、このメリッソスを経てより完成された概念に近づいたとすることができるでしょう。

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