パルメニデス(B.C.515?-B.C.450?)
 一般に、ソクラテス以前の哲学者のなかで最も高く評価されているのがこのパルメニデスです。
 この評価の高さは現代に限ったことではなかったようで、プラトンの対話編の中にもこの「パルメニデス」は他の対話相手とは別格扱いで登場します。
 通常、プラトンの対話編の中で、ソクラテスは常に飄々とした態度をとり、対話相手を簡単に言いくるめてしまいますが、このパルメニデスは、唯一(『ソクラテスの弁明』に登場するディオティマもそれっぽいところがありますが……)、議論によって若きソクラテスを言いくるめてしまいます。
 パルメニデスの学説の柱は「ある」という一言です。
 この上なく単純な一言ですが、この単純な一言によって、パルメニデスはそれ以前の哲学者達が示した学説とは明らかに一線を隔した高度に哲学的な議論を展開していきます。
 パルメニデスの学説に関しては、2500年以上たった今でも、固定された解釈が存在しません(固定しかかったことはあるんですけどね…)。
 そんな大問題に、ここで私のようなものが答えを出せるなどとは到底思っておりませんので、このコンテンツでは、パルメニデスの生涯について軽く触れた後で、現在、パルメニデスの学説に対してどのような解釈が存在しているかについて、それぞれの解釈のやりかたを示し、それらに簡単な解説を加えるだけで済ませようと思います。


生涯
 このパルメニデスも、他のソクラテス以前の哲学者同様、生没年も含めてその生涯の詳細な部分はよくわかっていません。
 イタリアのエレア(現在のサレルノ)で生まれ、そこで哲学的な活動をしたということは確からしいのですが、それ以外に関してはよくわかっていません。
 師匠にあたる人に関しても、クセノパネスであるとも、ピュタゴラス派の一人であったとも言われており、はっきりしたことはわかりません。
 弟子に当たるゼノンと同性愛的な関係にあったという推測もなされていますが、実際のところはわかっていません。
 ある意味で不思議なことなんですが、このパルメニデスに関しては、学問的な分野においてものすごく巨大な存在だということは疑いの無い事実として認知されているのに、それと反比例して、生涯に関するエピソードとなると全くといっていいほど資料が残っていないんです。
 学説のインパクトが強すぎて、その生涯にまで目が向かなかったとか色々と原因は考えることができますが、一つの可能性として、ヘラクレイトスのような奇人変人的な人物だったのではなく、当時の哲学者にしては珍しく、ものすごく折り目正しいまじめな人だったのかもしれません。
 パルメニデスの著作は現在の哲学書のように散文形式(現代の場合は「論文形式」というほうが適切のように思いますが…)で書かれているのではなく、詩の形式で書かれています。
 今日まで残っているパルメニデスがらみの資料は、実際にパルメニデスが書いたもともとの詩がバラバラになったもので、それらをつなげて「大方こんな風に考えていたのだろう」という感じで解釈が行われています。
 このパルメニデス、何度も書いているように、学問的には偉大な人ですが、詩人としてはそれほど能力の高い人ではなかったようで、後世の人から「詩の出来具合」という点については酷評されています。
 パルメニデスの生涯についてはおおよそこんな感じです。
 取り立てておもしろいところもありませんが、他に書きようもないですね。


資料集
 パルメニデスの学説に対する具体的な検討に入る前に、ここで学説を検討する際に使う資料を示しておきます。
 ある程度の量になると思いますが、軽く目を通して見て下さい。
 もしくは、ここは一旦読み飛ばしておいて、後々、その資料に言及する箇所が出てきたときに、チラッと見る感じでもけっこうです。
 それぞれの資料にはFr.1、Fr.2といった感じで番号が振ってあります。
 本当はこの「Fr.何々」という番号の振り方にも意味があるのですが、それを書き始めると議論があまりにも瑣末な方向に進んでいくので、とりあえずここは単なる番号付けだと思っておいてください。
 ちなみに、以下にあげるすべての資料は岩波書店から出ている『ソクラテス以前哲学者断片集』からの引用です。

Fr.1
  この身を運ぶ駿馬らはわが心の想いのとどくきわみのはてまで
  私を送った――ダイモーンの名も高き道へと私を導きいかしめてのち
  この道はなべての町々を過ぎて物知る人を連れ行く道。
  その道を私は運ばれていった。馬車ひく賢き駿馬らが
5  この身を運び、道を示し案内するのは乙女子たちであった。
  車軸はこしきの中に灼熱してそうそうのひびきを発した――
  二つの端にめぐりてやまぬ両輪にいやがうえにも急き立てられて。
  日の御子なる乙女子たちは「夜」の館を後ろに残して
  光のかたへ私を送ろうとひたすら急ぎにいそいで
10 その御手は頭から面紗をもどかしげに払いのけた。
  そこに「夜」の道と「昼」の道との門があって、
  まぐさと石のしきみとが上下からそれをいだいている。
  門そのものは空たかく屹立し大いなる扉にふさがれてあった
  それらを開閉する鍵を持つのは報い恐ろしき女神ディケー。
15 乙女子たちはそのディケーに言葉やさしく語りかけて、われらがために
  釘さしてある閂をすみやかに門よりはずしたまえと
  たくみに口説いた。門はすなわちその両翼をひろげ
  ここに扉は大きく開かれた――青銅で飾られた二つの支柱を
  ほぞと止具ではめ込まれた軸受けのなかに相継いで回転させながら。
20 そこをたちまち乙女子たちはひとすじに横切りぬけ
  車と馬たちとを駆り立ててひたぶるに大道を進んだ。
  さてここに女神のいましてねんごろに私を迎え、わが右の手を
  その御手にとって私に言葉をかけて次のように語りたもうた。
  おお、若者よ、手綱とる不死の馭者たちにともなわれ
25 馬たちに運ばれてわが館まで到り着いた汝よ、
  よくぞ来ました。この道を来るように汝を送り出したのは、けっして
  悪い運命ではない――げにこの道は人間の踏み歩く道の届かぬところにある。
  いなそれは掟と正義のなしたこと。汝はここですべてを聞いて学ぶがよい――
  まずはまるい「真理」のゆらぐことのないその心も、
30 そして死すべき人の子らのまことの証なき思わくも。
  それをも汝は学ぶことになろう――いかにして思わくされるすべてのことが
  すべてに行きわたりつつよしと思われてあらねばならなかったかを。

Fr.2
  いざや私は汝に告げよう、汝この言葉を聞いてよく受け入れよ――
  探究の道として考えられるのはいかなるもののみぞ。
  その一つは「ある」そして「あらぬことは不可能」という道、
  これは説得の女神の道である(真理に従うがゆえに)。
5  他の一つは「あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道、
  この道は全く探ねえざる道であることを私は汝に告げる。
  なぜならば汝はあらぬものを知ることもできなければ(それはなしえぬこと)
  語ることもできないから

Fr.3
  なぜならば思惟することとあることとは同じであるから。

Fr.4
  現前してはいないけれども知性には現前しているものをしっかりと見よ。
  あるものがあるものにつながっているのを切りはなすことはしないであろう――
  それが秩序をなしてあらゆるところにあらゆる仕方で散らばっているにせよ、
  集まっているにせよ。

Fr.5
  どこから始めようと私にとっては同じこと。
  そこへ私はいつか再び帰り着くであろう。

Fr.6
  あるもの(のみ)があると語りかつ考えねばならぬ。なぜならそれがあることは可能であるが
  無があることは不可能だから。このことをとくと考えるよう私は汝に命ずる。
  探究の道として私が汝を遠ざけ<禁ずる>のは先ずこの道[無の道]、
  しかし次には死すべき人間どもが何ひとつ知ることなしに頭を二つ持ちながら
5  さまよい歩く道を汝に禁ずる。すなわち彼ら死すべき者どもの胸の中では
  困惑がその迷い心をみちびき、彼らは聾にして盲、
  ただ呆然ともの識り分かちえぬ群衆となってひきまわされる。
  彼らはあるとあらぬが同じでありかつ同じでないとみなす。
  彼らにはあらゆるものについて逆向きの道がある。

Fr.7
  なぜならばこのことあらぬものがあるということはけっして証しされぬであろう。
  いな汝すべからく探究のこの道から想いを遠ざけよ
  また汝が多くの経験に支えられた習慣にしいられてこの道を行きながら
  もの見分けえぬ眼と鳴りさわぐ耳と舌とを働かせることのないように。
5  汝はただ理(ロゴス)によってこそ私によって語られた異論多き論駁を判定せねばならぬ。

Fr.8(抜粋)
  語られるべき道としてなお残されているのはただ一つ――
  すなわち(あるものは)あるということ。この道には
  非常に多くのしるしがある。すなわちいわくあるものは不生にして不滅であること。
  なぜならば、それは姿完全にして揺るがずまた終わりなきものであるから。
5  またそれはあったことなくあるだろうこともない。今あるのである――一挙にすべて、
  一つのもの、つながり合うものとして。それのいかなる生まれを汝は求めるのか?
  どこからどのようにして成長したというのか?あらぬものから、と言うことも
  考えることも私は汝に許さぬであろう。なぜならあらぬということは
  語ることも考えることもできぬゆえ。またそもそも何の必要がそれをかり立てて
10 以前よりもむしろより後に無から出て生じるように促したのか?
  かくしてそれは全くあるか全くあらぬかのどちらかでなければならぬ。
  それにまたあるものどもの他に何かが無から生じて来るなどとは
  確証の力がけっしてこれを許さぬであろう。このゆえに司直の女神ディケーは
  足枷をゆるめてそれが生じたり滅んだりするのを放任することなく、
15 しっかりと保持する。そしてこれらについての判定は一にかかってこのことにある、
  すなわち、あるかあらぬか――。しかるに判定は必然のこととしてこう下された、
  すなわち、一方の道は考ええず言い表しえないものとして放棄し(真実の道ではないから)
  他方の道は実在のもの真実のものとしてこれを選ぶべしと――。
  そもそもどうしてあるものが後になって滅びえようか。どうして生じえようか?
20 もし生じたとしたならば、またあろうとするのであったとしても、常にあるのではない。
  かくて「生成」は消し去られ、「消滅」はその声が聞けないことになった。
  さらにまたあるものは分かつことができない。すべてが一様であるから。
  またそれはいささかも、ここにより多くあったりより少なくあったりすることによって、
  互いに繋がり合うのを妨げられることなく、全体があるもので充ちみちている。
25 このゆえに全体が連続的である。あるものがあるものに密接しているのであるから。
  しかしそれは大いなる縛めに限られて動くことなく
  はじめが無く終わることも無い。なぜならば生成と消滅が
  はるかかなたへとさすらい行き、まことの証がこれを追いやったから。
  それは同じものとして同じところにとどまりつつただ自分だけで横たわり、
30 そしてそのようにしてその場に確固ととどまる。なぜならば力つよき必然の女神が
  限界の縛めの中にそれを保持し、その限界がまわりからこれを閉じ込めているから。
  このゆえにあるものが不完結であることは許されない。
  それは何も必要としないから。もしも不完結ならすべてを必要としたことであろう。
  思惟することと、思惟がそのためにあるところのものとは同じである。
35 なぜならば、思惟がそこにおいて表現を得るところのあるものが無ければ、
  汝は思惟することを見出さないであろうから。まことにあるものの他には何ものも
  現にありもせずこれからあることも無いだろう。運命があるものを縛めて
  それを完全にして不動のものたらしめているのであるから。このゆえに
  死すべき者どもが真実と信じて定めたすべてのものは名目にすぎぬであろう――
40 生じるということも滅びるということも、ありかつあらぬということも、
  場所を変えるということも、明るい色をとりかえるということも。
  しかし窮極の限界があるからには、それはあらゆる方向において
  完結していて、譬えて言えばまんまるい球の塊のようなもの、
  まん中からあらゆる方向に均等を保つ。ここあるいはかしこにおいて
45 より大きくまたより小さいということはあってはならぬことゆえ。
  なぜならばあらぬものが妨げてそれが同質のものへと到り続くのを
  やめさせることもなければ、またあるものがあるものとくらべてここでよりおおく
  ここでより少ないということもないからである――全体が冒されぬものであるからには。
  それはあらゆる方向において自分自身と等しく、限界の中で一様同質の在り方を保つ。
50 ここで私は真理についての信ずべき言葉と考えを
  やめることにしよう。これよりのちは汝すべからく死すべき者どもの
  思わくを学べ、――わが言の葉の虚構を聞きながら。

 これらの資料はパルメニデスが書いたとされる詩がバラバラになったものです。
 一応、最初にあげたFr.1の資料が詩の冒頭にあった箇所であり、それ以降の資料はそれに続くものと考えられていますが、Fr.1が詩の冒頭であるという点についてはほぼ解釈が一致しているものの、それ以外の資料の並び順に関しては研究者によって多少の相違があるというのが現状です。
 ですから、このコンテンツでは岩波から出版されている『ソクラテス以前哲学者断片集』にならって(この断片集はドイツ語で出版されているDie Fragmente der Vorsokratikerという本の邦訳ですから厳密に言うと、そのもともとの原書が示している順番に習ってということになります)、この順番で掲載しておきますが、今後、文献学的な研究が進めば順番が入れ替わる可能性も十分すぎるほどあります。
 また、パルメニデスの詩で今日まで残っているものはここにあげたものが全てではありません。
 もしも、「全部読みたい!!」という奇特な方がいらっしゃるのであれば、直接『ソクラテス以前哲学者断片集』の第U巻にあたることをお勧めします。


学説
 ここから本格的にパルメニデスの学説を検討していくわけですが、前にも書いたように、パルメニデスの解釈は現在でもまだ固定化されておらず、様々な立場で様々なことが言われています。
 それゆえ、その解釈の立場によって、パルメニデスが持っている哲学史的な意義もかわってきます。
 ですから、ここでは解釈の異なる三つの立場を紹介しますが、それらの解釈をまとめてパルメニデスの哲学史的な意義を定めるということはせずに、それぞれの立場ごとにパルメニデスの意義を個別的に示していきます。


解釈1…「丸い真なるもの」が「ある」と読む解釈
 さて、ここでは「ある」に関する一つ目の解釈を紹介しますが、本題に入る前に、そもそも、どうしてパルメニデスの「ある」は解釈を定めるのが困難なのでしょう。
 常識的に考えれば、2500年以上も何らかの形で研究が続けられているわけですから、「いい加減、ここらで手を打とう」という流れになってもいいはずです。
 しかし、現実問題、そうはなっていない。
 なぜなのでしょうか。
 普段日本語を使っている我々には感覚的に若干わかりにくいところがあるのですが、先に引用した資料を見てみると、パルメニデスはこの「ある」を語るときに、「何かがある」とか「何かである」とは語らずに、ただ「ある」とだけ語るんです。
 日本語だと「ある」だけがポンッと出てきても、意外とすんなり流れていってしまうところがあるんですが、ちょっと英語のことを考えて見て下さい。
 パルメニデスの「ある」を英語に訳すとisですが、英語でisが何の前触れもなく単独でisと出てきたら明らかに異様ですよね。
 単独でisがあることの異様さを消しながら、パルメニデスの「ある」を表現する手段として__isなんていう表現をしている英訳版もあるのですが、これはこれでなおのことその異様さが増しています。
 もちろん、「ギリシア語と英語は違う」ということもできるのですが、ギリシア語でもこの「ある」にあたる言葉(「エスティン」という言葉です)が単独で登場する異様さは、日本語のスンナリ感と比べるとはるかに英語に近いので、「ある」がポンッとあることの不自然さを体感するには、英語のisの事例を思い浮かべてもらうのが、一番身近で手っ取り早いですね。
 そして、このパルメニデスに独特の「ある」の使い方こそが、2500年以上経った今でも彼の学説に対する解釈が固定していないことの最大の原因です。
 さて、前置きが済んだところで、一つ目の解釈ですが、この解釈は、パルメニデスの「ある」をある特定の事柄についてそのものが存在することを述べているのだと解釈するやり方です。
 そうなると、当然問題となるのはその「ある特定のもの」とは何かということですよね。
 パルメニデスの「ある」をこのように解釈する人の代表格はバーネット(Burnet)という人なのですが、この人はパルメニデスの「ある」を「何かが存在する」という「存在」の用法で用いられている「ある」であると解釈し、そう解釈した上で、その「何かが存在する」の「何かが」の部分に「丸い真なるもの」を読み込むんです。
 「丸い真なるもの」という不可思議な概念が突然出てきて面食らっている方もいらっしゃると思いますが、、実は、今日まで残っているパルメニデス関係の資料の中に、この「丸い真なるもの」っていうのが出てきている箇所があるんです。
 「資料」のコーナーで示しておいたFr.1を参照してください。
 このFr.1は、パルメニデスが書いた哲学詩『ペリ・ピュセオース』の冒頭部分にあったであろうと考えられている箇所です。
 パルメニデスの詩は若者(パルメニデス本人と考えて差し支えないでしょう)が女神から「ある」に関する学説を学ぶという体で書かれていますが、この箇所にはちょうど、若者が「乙女子たち」に導かれて女神のところへ至るまでの状況が書かれています。
 今検討している一つ目の解釈との関係で注目して欲しいのは29行目(番号をふっておきましたので参考にしてください)です。
 ここに「まるい『真理』のゆらぐことのないその心」という部分がありますよね。
 しかも、この「まるい『真理』のゆらぐことのないその心」は若者がここで学ぶべきことの内実として述べられています。
 それゆえ、この解釈1の立場を取る人たちはこの箇所の記述を重視して、パルメニデスの「ある」はこの「まるい真理」が「ある(存在する)」という主張であると解釈します。
 しかし、ここで当然、「『まるい真理』って何…?」という疑問が出てくるでしょう。
 「資料集」で引用したFr.8を見て下さい。
 このFr.8はパルメニデスの「ある」がどのようなものであるか、その性質を示してある資料なんですが、それらの性質を簡潔にまとめて列挙するとおおよそ以下のようになります。

性質1…非時間性(5行目「あったこともなくあるだろうこともない。今あるのである」)
性質2…一性(6行目「一挙にすべて、一つのもの、つながり合うものとして」)
性質3…不生不滅(6-21行目「この範囲で行われている一連の議論を参照」)
性質4…不可分割(22行目「あるものは分かつことができない」)
性質5…均一性(22-23行目「(不可分割であることの根拠として)すべてが一様である」「ここにより多くあったり、より少なくあったりすることによって互いがつながりあうのを妨げられることなく」)
性質6…充足性(24行目「全体があるもので満ちている」)
性質7…不動性(26行目「大いなる縛めに限られて動くことなく」)
性質8…不変性(39-41行目「名目にすぎぬであろう……明るい色をとりかえることも」)

 問題となっている「まるい真理」とは、Fr.8に示されているこれら8つの性質を持つもののことです。
 「『これら8つの性質を持つもの』って、何なんだ?」という疑問が生まれるかもしれませんが、そのような疑問に対しては、「これら8つの性質を持つものだよ」と答える以外にありません。
 つまり、パルメニデスの「ある」を「『丸い真なるもの』が『ある』」という仕方で解釈する人たちは、パルメニデスが、それ以前の人たちとは違って、ここに上げた8つの性質を持つものが存在するのだと主張したと考えているのです。
 よくわかりませんよね。
 だいたい、こういう8つの性質を持つものが存在すると主張したところで、「だからなんなんだ?」という感じがします。
 ここで、8つの性質の内実を検討してみましょう。
 一つ目は「非時間性」です。
 通常、我々は、何について語るにせよ、それが「あった」とか「ある」とか「(将来的に)あるだろう」といった具合に、過去、現在、未来のどれかの時間の中に位置づけて物事を語りますよね(これら三つの時制以外の時制を用いて語られる言明も、時間軸の中に位置づけて語られているという意味で、ここでは同様のものとして扱います)。
 しかし、パルメニデスは、この「ある」の主語とされるもの、即ち、「まるい真理」について、それを時間的な表現で語ることを拒否したんです。
 つまり、パルメニデスは「あった」でもなければ「あるだろう」でもないと語ってそれが何らかの仕方で時間の中に位置づけられて表されることを拒否したんです。
 「『今ある』って書いてるぞ…」と思われるかもしれませんが、この「今」って、いつの「今」でしょう?
 仮にこの「今」を「五年前のあの日のあの時あの瞬間の今」であるとしたならば、その場合の「今」は「五年前」という過去であり、パルメニデスが「あったでもない」という風に過去を表現するやり方で「まるい真理」を表現することを拒否している点と矛盾します。
 では、「五年後のその日その時その瞬間の今」であるとしてみましょうか。そうすると、その「今」は「五年後」という未来であり、パルメニデスが「あるであろうでもない」という風に未来を表現するやり方で「まるい真理」を表現することを拒否している点と矛盾しますね。
 「まさに、今、この瞬間」と思うかもしれませんが、「今、この瞬間」といった時点でその「今」はすでに過去になっているはずです。
 また仮に、時間のあり方を過去から未来へと続く数直線的なものだと仮定してそこに点を一つポンとおいて、その点を指差して「この今」と主張したとしても、その「今」はどの今かわかりません。
 具体的にいつのことだったかは忘れましたが、たぶん、中学か高校のときに「点」の定義を教わりましたよね。
 そのときの「点の定義」を思い出してみると、「点」とは「大きさや長さや面積といったあらゆる広がりを持たないもの」でした。
 だとすると、数直線的に表した時間の流れの上に点を一つおいて、その点が「今」だと主張しても、その点は数直線状に全く面積を持っていないのですから、そこには実質的な時間は存在しないことになります。
 さらに、「点の定義を無視して、面積を認めてもいいから、この数直線の上についたこの点が今だ!」と主張したとしても、時間を表す数直線状に面積が存在している時点で、そこには過去から未来へと向かう時間の流れがあり、パルメニデスが「あったでもなくあるであろうでもなく」と主張した点と矛盾してしまいます。
 つまり、「今」といっているからといって、それが時間の中に位置づけられるとは限らないのです。
 むしろ、数直線的に表された時間のうちにその位置が取れないとするならば、この「今」は、我々が時間と考えているものとは別の何らかのあり方を指して述べている表現としての「今」なのではないかと考える方が適切でしょう。
 その「『我々が時間と考えているものとは別のなんらかのあり方』とは何か?」といわれると、正直答えようがないのですが、パルメニデスの詩が「若者が女神のところまで出向いて話を聞く」という体裁をとっているということを考えると、何か人間を超越した「女神」などの神々が経験しているような時間と考えることは不可能ではないでしょう。
 もちろん、この考え方はあくまでも一つの考え方であって、このように考えたとしても疑わしい点は残ります。
 ただ、それでも、パルメニデスの使う「今」という表現が、我々が考えている時間の概念と相性が悪いということは事実でしょう(もしも、「あった」や「あるだろう」という言い方を認めていれば、我々が考えている時間の概念との相性もまんざらではなかったのでしょうが……)。
 二つ目は「一性」です。
 これは、「つながりあうものとして」という言われ方をされている点からも明らかなように、「ある」の主語とされているものは複数に分割されたものではなく、ただ一つだけなのだということをあらわしているものです。「一」という言葉は哲学史上非常に重要な意味で用いられる場合が多いですが、ここでいわれる「一」は妙に哲学的な意味を読み込むことなく、単に「一つ」という意味で解釈しておくほうがいいでしょう。
 三つ目は「不生不滅」です。
 クセノパネスの項目で見たように、仮にあるものが生まれるものであるとするならば、当然、生まれる前の状態があることになりますね。
 また、仮にあるものが滅びるものであるとしたとしても、そこには、滅びた後の状態があることになります。
 この「生まれる前」と「滅びた後」という二つの状態はどちらもともに、何でもいいですが、何かが「存在していない」状態を意味します。
 つまり、パルメニデスは、「生まれることも滅びることもない」とすることで、「ある」の主語についてそれが存在しないという状態はありえないということを主張したんです。
 「存在しない状態がありえない」ということは、まさしく「ある」であって、「ない」ということはないということですね。
 それゆえ、この「不生不滅」という性質が付与されることで、「ある」はより強固になるのです。
 四つ目は「不可分割」です。
 これも問題ないですね。単に「分割することができない」という意味です。
 五つ目は「均一性」です。
 これは四つ目の性質である「不可分割」が成立する根拠のひとつとして提出されていますが、要するに、「どこをとってもありとあらゆる面で劣っていたり優越したりしている部分はなく、どこも一定である」といった程度の意味です。
 仮に、A地点がB地点よりも弱かったら、B地点の方がA地点よりも脆いわけですから、B地点ではA地点よりも割れる可能性が高いですよね。「均一性」はこの部分的なもろさによる崩壊の否定を意味しているんですね。
 六つ目は「充足性」です。
 これは五つ目の性質である「均一性」と似ていますが、こちらは、むしろ、その「均一性」の程度を具体的に述べたものと考えるべきでしょう。
 つまり、「均一」といっても「全体が薄く均一」というのではなく、「ぴっちり満たされていて」その上で「均一」ということです。
 七つ目は「不動性」です。
 要するに「動かない」ということなのですが、なぜ、こんな「動かない」ということを主張する必要があるのでしょうか。
 ものは何でもいいんですが、仮に、机の右端に消しゴムが置いてあったとします。
 そして、なんとなく、その消しゴムを左端に動かしたとします。
 そうすると、当然のことながら、その消しゴムは右端には「なくなり」ますよね。
 つまり、ある場所(ここでは「机の右端」ですが…)について、そこに何らかのもの(ここでは「消しゴム」ですね…)が「ある状態」と「ない状態」があることになりますよね。
 これは「ある」という意味では極めて不完全ですよね。
 それゆえパルメニデスは、「動かない」という性質を与えることによって、「ある場所ではなくなるときがある」という状態が生じることを封じたんです。
 これによって、「ある」の完全性はさらにワンランク上がったことになります。
 8つ目は「不変性」です。
 この性質はこれまで述べてきた七つの性質を一言でまとめて述べたような性質ですね。
 要するに、時間的にも、質的にも、場所的にも、ありとあらゆる点で「変わる」ということがないということを主張している性質です。
 さて、以上がパルメニデスの示した8つの性質ですが、パルメニデスの「ある」を「丸い真なるもの」が「ある」と読む人々は、Fr.1の29行目に「若者」が「女神」から学ぶべきものとして示される「丸い真なるもの」を、これら8つの性質を持つものと解釈した上で、そのような性質を持った「丸い真なるもの」が「ある」とパルメニデスは主張したのだと考えたんです。
 ただ、ここまで来ても「だから何なんだ?」という感じは残りますよね。
 実際、なんとなく見ていると、パルメニデス以前とパルメニデスとの主張の違いがいまいちわかりにくいですよね。
 ですが、それでもこのような解釈にはこのような解釈なりに、パルメニデス以前との明確な差はあるんです。
 パルメニデス以前の人々の考え方を思いだしてみると、彼らが主張していたのは「水」や「空気」といったものでした。
 これらのものはその密度の変化などによって自然界のありとあらゆるものを生み出し、最終的に、そこから生じたものは再びそこへと戻っていきました。
 つまり、このような「水」や「空気」といったものは、時間的にも場所的にも「あったり」「なかったり」して変化するし、その質の面でも密度の変化という仕方で違いが生じて「ある」という状態に差がでますよね。
 それゆえ、今問題としている解釈1の立場をとる人の観点からいえば、パルメニデスは自分以前の人たちが主張するような不完全なあり方をしているものに「ある」といわれる資格を与えなかったということなんです。
 すなわち、パルメニデスは存在という意味で本当に完全性をもつものを自ら提示して、そのような完全なものにしか「ある」と呼ばれる資格を認めなかったということです。
 そして、そのような結果として示されたものが、「丸い真なるもの」といわれるボヨンとして全く動かないものであり、そのように存在としての完全性を持つものだけが「ある」といわれるにふさわしいとみなしたということですね。
 このように考えると、パルメニデスとそれ以前の人たちとの違いは「存在」という面での完全性に着目したか否かということだと考えられます。
 つまり、パルメニデスは、「存在」というものを重く見て、そこに一切注目してこなかったそれ以前の人々と全く違う考え方を示したということですね。
 また、ここまでの部分ではFr.1、2、8に基づく解釈としてこの一つ目の解釈を紹介してきましたが、この一つ目の解釈はそれ以外のFr.3やFr.4といった、「ある」と「知性」との関係を示した資料とも相性がいいんです。
 これまでの部分で、この一つ目の解釈について、その解釈が、パルメニデスが存在という意味で完全性を有するものに目を向けて、その完全な存在者に関することを主張したものとみなすものであるということを確認しましたよね。
 ここで完全な存在者とみなされているものは、「ある」の主語と考えられている「丸い真なるもの」のことですが、この「丸い真なるもの」は感覚によって知ることができるものなのでしょうか?
 当然、そんなの無理ですよね。
 我々が普段経験している時間の概念を越え出ていて、途切れることなく連続していて、完全に充足していて、場所的に変化せず、動くことも分割されることもなく、生まれることもなければ滅びることもない。
 こういうものを見たり、聞いたり、臭いを嗅いだり、舌で味わったり、触ったりしたことがある人っていないですよね。
 つまり、この一つ目の解釈をとる立場の人たちが主張するパルメニデス像のなかで示されている「完全な存在者(丸い真なるもの)」は、がんばれば感覚的になんとか知ることができるとかそういった類のものではなく、知性によってのみ知ることができるものだと主張することができるわけです。
 そして、このような意味で、パルメニデスに対するこの一つ目の解釈は、「ある」と「知性」との関係を主張するFr.3やFr.4ともなかなか相性がいいんですね。
 こうやって考えてみると、「丸い真なるもの」が「ある」と読む一つ目の解釈は、残っている資料の全てと基本的には好相性なわけですから、パルメニデスの解釈は、一旦、この解釈1のやり方で落ち着きかけました。
 実際、つい最近まで、パルメニデスの解釈はほぼこのやり方で確定されていたんです。
 ところが、20世紀初頭になって、バートランド・ラッセルという人が「記述の理論」というやつを発表したあたりから少しずつ雲行きが怪しくなってきます。
 そして、それから数年後、フランスのOwenという人によって、この解釈1とは全く異なるパルメニデス解釈が提唱されることになります。
 次は、このOwenという人の解釈を見てみましょう。


解釈2…「あるもの」が「ある」と読む解釈
 ここからは、パルメニデスの新しい解釈として提出されたOwenという人の考え方を見て行きます。
 ただ、Owenの解釈についてああだこうだ言う前に、そもそも、新しい解釈が提出されるきっかけとなった出来事にサラッと触れておきましょう。
 20世紀初頭、後にノーベル賞も受賞するイギリスの哲学者(数学者?)バートランド・ラッセルは、「記述の理論」という考え方を提出します。
 この「記述の理論」は、存在しないものに対して主張された言明の意味や真偽はどう考えるべきなのかという文脈で提出された考え方です。
 仮に、「現在のフランス国王は禿げである」(この文は実際にラッセルが例として用いている文なので、記述の理論関係の議論が行われるときにはしょっちゅう登場します)という文章を考えてみましょう。
 この文章、意味はあるのでしょうか?また、真なのでしょうか偽なのでしょうか?
 「真か偽かは置いておいて、何を言ってるからわかるのだから意味はあるのではないか…」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょうが、よく考えて見て下さい。
 政治体制として王制を採用しておらず、イギリスや日本のようなロイヤルファミリーもいない現在のフランスに王様はいません。
 さて、そうなった場合、「現在のフランス国王は禿げである」は意味があるのでしょうか?
 少し別の例で考えて見ましょう。
 ある日、友人と二人でしゃべっていました。友人は昨日ひょんなことから知り合いになったという武田さんの話を嬉々としてしゃべっています。
 とても楽しそうに話すのでこちらも武田さんに興味が湧いて、その友人に、「武田さんって、知らないんだけどどんな感じの人なの?」と聞いたとします。
 すると、その友人が間髪いれずに、「そんな人いないよ」といってきました。
 「えっ、じゃあ、妄想なの?」と聞き返すと、「妄想っていうか、どんな形でも存在しないよ」と切り替えされました。
 背中に薄ら寒いものを感じながら「今の話って、何なの…?」と再び問いかけると、友人は「何だろうね」といいながらニコニコしています。
 こんな状況下で、武田さんに関する友人の話とは一体なんだったのでしょうか?
 「なんだったのか」というよりも「どうしようもない」というのが正直なところですよね。
 「現在のフランス国王」にしろ、存在しない「武田さん」にしろ、全く存在していないものに対する主張がポンとなされた場合、我々は、「はっ…?」といって固まるしかありません。
 また、そういった存在しないものに関する文は、それが正しいのかも間違っているのかを判別することも困難です。
 仮に、「現在のフランス国王は禿げである」を「正しい」と判断したらそれは正しいのでしょうか?
 また、逆に「間違っている」と判断したらそれは正しいのでしょうか?
 どちらともいえないというのが本音ですよね。
 そもそも存在しないものについて、禿かどうかを聞かれてもどうしようもありません。
 存在しないものに関する言明は、それをどう扱うにしろ、常にこの一種独特な「キョトン感」が付きまといます。
 この「キョトン感」を解消すべく、ラッセルが提出したのが記述の理論です。
 ラッセルは「現在のフランス国王は禿げである」という文を、「すくなくとも一つのものが存在し、それは現在のフランス国王であり、かつ、それは禿げている」という風に読み替えます。
 この文では「現在のフランス国王」が存在しているかどうかは問題になりません。
 「なにか」が存在していればいいのであり、問題なのは、その「何か」が「現在のフランス国王であり、尚且つ、それははげているのか」ということです。
 このように考えるのであれば、もちろん、現在ではいかなる存在者も「現在のフランス国王」であることはないわけですから、この文の意味も理解できますし、どうどうと、「No!!」ということもできます。
 つまり、ラッセルは「現在のフランス国王」を「存在」と「現在のフランス国王」という性質(これを性質といっていいのかどうかは微妙なところがありますが、まぁ、そうしておいたほうがわかりやすいので…)に分けて考えることで「キョトン感」を解消しようとしたんですね(「キョトン感」とかものすごく気楽に書いてますけど、哲学史的にはラッセルの前にいるフレーゲとのカラミとか色々あるんです。でも、まぁ、ここではわかりやすさ優先ということで「キョトン感」で処理します)。
 前置きが長くなりましたが、話をOwenに戻します。
 Owenはラッセルの「記述の理論」を受けて、存在しないものに対して何らかの判断をしようと思ったときに生じる「キョトン感」に着目したんです。
 このOwenという人はずっと古代哲学関係の研究をしてきた人ですから、恐らく、ラッセルの「記述の理論」に触れたときにピンときたんでしょうね。

Fr.3 なぜならば思惟することとあることとは同じであるから。

「これは!!」と…
 勘の良い方はなんとなくおわかりかと思いますが、Owenはパルメニデスの「ある」と人間が考えたり語ったりすることとを結び付けたんです。
 つまり、何らかの対象に対する我々の思考や言明が、意味を持ち判断可能なものとして成り立つためには、そこに「ある」という「存在」の要素が不可欠だということです。
 もしも、その思考や言明の対象が「存在」という要素を持っていなければ(わかりやすい言い方をすると「存在していなければ」)、そこには先ほど見たような「キョトン感」が生まれてしまいます。
 この点に着目して、Owenはパルメニデスの学説を、人間が行う「知る」「考える」「語る」といった事柄の前提に対する主張であると解釈したんです。
 こういうふうに考えると、パルメニデスの学説がそれ以前の人々と全く違うものになりますよね。
 パルメニデス以前の人々が自然というものを探究の対象にしていたのに対して、パルメニデスは「探究」ということが成り立つための「前提」、言い換えるならば、通常の「探究」を一つ超えたレベルの事柄を探究していたんです。
 哲学臭い言い方をすると、この場合のパルメニデスの「探究」は、「探究」の「探究」であってメタ探究論ともいうべきやり方です。
 なんか、突然話が哲学っぽくなって、「越えた」とか「メタ」なんていう言葉を使い始めましたが、この「越えた」や「メタ」(この「メタ」も日本語に訳せば「越えた」ぐらいの意味です…)という言葉で表された考え方って、普段は全くなじみがないので、ちょっとわかりづらいですよね。
 こんな例を考えてみましょう。
 あまりいい例えではないかもしれませんが、普段我々が掛け算をするとき、3+5=8とか6+5=11といった足し算の領域に関することがらは前提として無条件に受け入れた上で掛け算をしていますよね。
 むしろ、正確に言うと、4+3=7みたいな足し算が成立しないとしたら掛け算のやりようがないですよね。
 つまり、我々は掛け算をするときに足し算が成り立っているということは前提として問題とせずに掛け算の領域で掛け算をやっているんです。
 でも、掛け算をやっているときに足し算が問題になるときもありますよね。
 例えば、ある人に「3×4がわかりません」っていわれたとき、我々は「それは、3を4回足すっていうことだから3+3+3+3で、これならわかるでしょ」といった具合に説明します。
 こういう場面では掛け算と足し算が一緒に扱われますが、これは、掛け算と足し算を一緒に扱っているというよりは、掛け算を説明するために、より基本的な足し算の領域まで戻って説明しているということですよね。
 ちょっとひねくった言い方をすると、ある事柄を説明するために、その事柄の前提になっているより基本的な事柄に戻って、本来説明したい事柄を説明しているということです。
 このように、ある事柄に関して何かしら語ろうと思うと、そこにはたいていの場合、何らかの前提が存在しています。
 さらに突っ込んでみましょう。
 さっき、「3×4がわかりません」っていった人が、「それは、3を4回足すっていうことだから3+3+3+3で、これならわかるでしょ」といわれた後で、さらに「3+3+3+3って…?」といってきたらどうでしょう。
 とりあえずは「足し算、わかんないの…?」って聞くでしょうね。ところがその人が、そこから畳み掛けるように「いや、そもそも足すって…?、それに、そもそも3って…?、そもそも、数って…?」と聞いてきたらどうでしょう。
 つまり、掛け算よりも足し算よりも、もっともっと基本的なことについてたずねてきたらどうでしょう。
 こうなったら、掛け算とか足し算とか、一般に「計算」と呼ばれるもの全ての前提となるような事柄について問題にせざるを得ないですよね。
 パルメニデスは、今、掛け算についてみたようなことを、世の中のありとあらゆることについてやろうとしたんです。
 つまり、我々が普段何がしかのことについて語っているその全ての前提となっている部分について「そもそも…?」って問いかけたんです。
 パルメニデス以前の人々は自然というものを探究しながらそこで色々なことを主張していました。
 しかし、彼らの主張がそもそも意味を持つものとして機能するためには、つまり、彼らの探究が足場のしっかりしたものになるためには、それらの探究の前提となっている部分に目を向けなければなりません。
 この「前提」という着想をOwenはラッセルの「記述の理論」から獲得して、それをパルメニデスに読み込んだんですね。
 Owenが提出した新しいパルメニデス像はいかにも哲学っぽくて哲学が好きな人たちにとっては非常に魅力的に見えたようです。
 それゆえ、Owen以後、パルメニデスの学説に対する解釈を提出する人たちは多かれ少なかれ、Owen風に人間の認識の前提部分と結びつけてパルメニデスを解釈する傾向にあります(現代ではこちらの考え方の方が主流でしょうね)。
 確かに、パルメニデスの主張にはそういったいかにも哲学っぽい感じがありますし、実際、そういった点に関する意識もパルメニデスのなかにはあったのではないかと私自身も考えますが、現存している資料との相性という点から言うと、解釈1のほうに若干の分があるかなあという感じがします。
 このOwenが示した解釈は「ある」と「知性」との関連に言及した資料とは相性がいいのですが、Fr.8で言われている様々な性質に関する主張とはあまり相性がよくありません。
 時間を越え出ているとか、不生不滅とか、無理やり何とかしようと思えば、なんとかつながりを持たせることはできるかもしれませんが、やはり、パッと見た感じ明らかに相性が悪いなという感じはしますよね。
 ですから、一つのパルメニデス解釈としてはまだ課題を抱えている解釈ではあると思いますが、それでも、パルメニデスの一つの読み方として非常に有力で、魅力のある考え方であることに違いはありません。


解釈3…結論を述べるときに用いる、なになに「である」という使い方で読む解釈
 これまで見てきた二つの解釈はその考え方という部分では本質的に大きな違いがあったものの、「ある」の使い方という意味では、どちらもともに「存在」の意味で解釈していました。
 しかし、「ある」という言葉には、「何かが存在している」という意味の「ある」の他にも、あるものに対して「それが何かである」という使い方で用いられる、存在とは別の意味の「ある」もありますよね。
 この「である」というときに使われる「ある」の用法は、「存在用法」に対して「述定用法」と呼ばれます。
 ここでみる解釈は、パルメニデスの「ある」をこちらの「述定用法」として解釈するものです。
 このような解釈の先陣を切ったのはMourelatosという人なんですが、このMourelatosはパルメニデスの「ある」に直接取り組む前に、まず、Fr.2で言われている「探究」の概念に目を向けます。
 そして、このパルメニデスが主張している「探究」というのは「何が(真に)存在するのか」という、「存在」を探究する営みにはそぐわないのではないかと疑問を呈します。
 一番最初に見た「丸い真なるもの」が「ある」とする解釈をとるのであれば、パルメニデスの「探究」は、当然のことながら、「何が(真に)存在するのか」ということを問題とした「探究」であることになります。
 そして、そのような探究を行った結果として「丸い真なるもの」という完全な存在者を見出したのだという解釈になるんですね
 しかし、常識的に考えて、何かを探究するといったときに「それが存在するかどうか」を探究するってなんか変な感じですよね。
 普通は何かを探究するっていったら、その対象物が何か存在していて、その探究の対象物に対して「それは一体何なのか?」という仕方で探究しますよね。
 Mourelatosもこの「探究」といわれる営みのあり方という観点から、パルメニデスの「ある」を「存在」の意味だけで解釈するのはおかしいのではないかと主張したんです。
 そして、そのような考え方に基づいて、それまでずっと「存在用法」で解釈されていた「ある」に対して、それを「述定用法」で読む新たな解釈を提出しました。
 ただ、「何々である」という判断は、基本的には世の中のありとあらゆるものに対して行うことができますよね。
 実際、目の前に何かものがあれば、その全てに対し、「それは何々である」と主張することができます。
 そんな当たり前のことをわざわざ詩まで書いて主張するのは明らかにおかしいですし、「資料集」の項目であげた資料に書かれていた様々な主張も、「それは一体何なのか?」という探究と相性が悪すぎます。
 そこで、Mourelatosはパルメニデスの資料を読み込んで、そこから、この「それは一体何なのか?」という探究のやり方と「ある」という用法について、独自の見解をひねり出します。
 結論からいうと、Mourelatosは「それは一体何なのか?」という仕方で行われる探求については、それは探求対象の本質に当たるものを問う探究であるとし、「ある」の使い方に対しては、「何々である」という仕方でその探求対象の本質を言い表すときに用いられるものであるとしたんです。
 こんな状況を考えてみましょう。
 ある夜、何人かで部屋に集まっていたときに、ふと窓の外を見ると何か白い大きなものがフッと横切りました。
 「何あれ!?」「幽霊!??」「洗濯物じゃないの?」「こんな時間に洗濯物?ビニール袋かなんかでしょ…」「それにしてはデカかったって、やっぱり幽霊だって…」
 そんな会話がさんざんなされましたが、結局、みんなが納得するような結論は出ずに終わりました。
 さて、この状況を考えたときに、「部屋に集まっていた人たち」は「窓の外を通った得体の知れない白いもの」という探究対象について、「今のこの時間であれば…」とか「あの大きさであれば…」といった簡単な探求行為(ここで行われているのは厳密には「推論」ですが、「推論」も「探究」の一種と考えて差し支えないでしょう)を行ったうえで、口々に「幽霊である」「洗濯物である」「ビニール袋である」といった判断を下していきます。
 しかし、これらの判断はどれも、「窓の外を通った得体の知れない白いもの」の本質を言い当てたものではありません。
 それゆえ、この状況設定で言われている「幽霊である」「洗濯物である」「ビニール袋である」といった様々な判断は、そこに述定用法の「ある」が使われてわいるけれども、Mourelatosが主張する「ある」とは違います。
 もちろん、「窓の外を通った得体の知れない白いもの」がなんであるかを主張するためになされた「今のこの時間であれば…」や「あの大きさであれば…」といった探究も最終的にはその「白いもの」の本質を特定するためになされた探究でしょうから、ここで行われた「探究」はMoirelatosがパルメニデスの学説の中に見出している「探究」と同種のものであると考えることができます。
 しかし、最終的に提出される諸々の判断は探究対象である「白いもの」の本質を伝えるものではないという点で、Mourelatosが主張する「ある」の用法とは異なっているのです。
 このようにみてみると、Mourelatosがパルメニデスの「ある」に読み込んでいる用法は、そんじょそこいらの「何々である」という述定用法を用いた判断にはとてもじゃないですが当てはまるものではないということわかるでしょう。
 しかし、この場合、当然のことながら「本質を表すっていっても、そもそも本質って何?」という問題が出てきます。
 「本質とは何か?」という問いは人それぞれによって答えは違うでしょうし、答えるだけでも全く持って答えづらい問いですが、Mourelatosはパルメニデスの「ある」によって表されるもの、即ち、探究対象の本質について次のように答えます。
 つまり、ある探究対象について「それは何であるか?」と問われてその問いに答える際に、それ以上問いが成り立たないような答えこそがその探求対象の本質であると主張します。そして、そのようにそれ以上問いが成り立たない最終的な解答をするときに用いられる「ある」こそが、パルメニデスの主張する「ある」だと述べるのです。
 もっと言えば、単なる述定用法の「ある」は何らかのものに対する探究の際にいくらでも用いられます。なんであれ、「何々である」ということを積み重ねていかなければ、「探求」という営みが成立することはありませんよね。しかし、こういった普通の「何々である」という判断を積み重ねていった結果、あるとき、その対象についてそれ以上問題を提出することができないような最終的な結論に行き着きます。
 この「ある」こそがMourelatosがパルメニデスに見出した「ある」です。
 最終的に、Mourelatosは自分が提出したこのような用法について結論述定的用法(Speculative Predicative Use)という名前を与えますが、これはこれで、今日提出されているパルメニデス解釈としては一つの有力な立場です。

 さて、以上のように三つのパルメニデス解釈を見てきましたが、現在、個々の研究者の間で様々に行われている解釈合戦は、おおよそ、これらどれかの立場に属するか、これらの折衷案のような仕方で提出される解釈をぶつけ合いながら行われています。
 パルメニデスはその主張がシンプルであるがゆえに、非常に奥の深い哲学者ですから、ここで言及したことはパルメニデスを語る切り口のひとつに過ぎません。
 本来であれば、もっと色々というべきなのでしょうが、書けば書くほどきりがなくなるので、ここで終わりにすることにします。

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