ピュタゴラス(B.C.570-没年不詳)
ピュタゴラスという問題
 う〜〜ん…………。ピュタゴラスはねぇ……、ちょっと、書きづらいんですよね。
 なぜ書きづらいかというと、このピュタゴラス、真っ当な資料がほとんど残ってないんです。
 その上、ピュタゴラス自身が著作を残さなかったこと、自分が作った教団の中でほとんど人と接することなく生活していたこと、ピュタゴラス自身の考えとピュタゴラス教団の考えとが区別されることなく一緒くたにして後世に伝えられたことなど、色々あって、ピュタゴラス自身がどういう人で、ピュタゴラス自身が何を主張したのかというピンポイントでの言及がものすごく難しいんです。
 一応、「哲学史」と銘打ったコンテンツですから、ピュタゴラスについてもちゃんと言及しますけど、ここで私が書いていることは、そういったピュタゴラスに対する言及の難しさを背景にしたものだということをご理解いただいたうえで読んでくださるとありがたいです。


生涯
 先ず、ピュタゴラスの生涯についてですが、これは、もう、完全に謎です。
 当時ギリシアの植民地であったイタリアのサモス島というところで生まれ育ち、その後、ある種の宗教結社のような教団を作ってそのなかで暮らしていたということは確からしいんですが、それ以外の史実ということになると全くもって不明確です。
 川がピュタゴラスに話しかけてきたとか、太ももが黄金でできてるとか、離れている二つの場所に同時に現れたとか、伝えられているエピソードもどうも胡散臭いものばかりです。
 唯一、子犬がいじめられているのを見たときに、「ちょっとまて、それは私の友人の魂だ。声を聞いてそれとわかった」と言ったということだけは、ピュタゴラスが輪廻転生の思想を持っていたということとの関連から確かなようです。
 どうも、ピュタゴラスの項目に来たとたん、今まで以上に「資料がない」と連呼していますが、実は、このピュタゴラスという人は、ある種の宗教結社である自分の教団を作った後は、教団外部との接触をほとんど断ち、尚且つ、その教団内部でもごくごく限られた人としか接触せずに暮らしていたらしいんですね。
 ですから、ピュタゴラスについて「わからない」と言っているのは、時代の下った現代の私だけでなく、ピュタゴラスと同時代を生きていた人々もピュタゴラス自身についてはほとんど何も知らなかったんです。
 教団内には特定の教義があって、教団の人々はそれに従って暮らしていたと伝えられていますが、肝心の教義の内容は伝えられていないので彼らがどのような生活をしていたのかもほとんどわかっていません。
 有名な「豆を食べてはいけない(ここで言われている「豆」というのは「ソラ豆」であるという説が有力)」という教義がありますが、これも実際のところはどうだったのか、私自身はその真偽のほどを疑っています。
 というのも、ピュタゴラスの教団はとりわけ秘密主義的な色合いが強かったようで、内部の教義が安易に外に漏れるというのはいまいち信用できないのです。
 実際、ピュタゴラス教団の中にメタポンティオンのヒッパソスという人がいたのですが、この人は教団の秘儀である正12角形の書き方を外部に漏らしたため破門されてしまったそうです(ちなみに、破門になった後どうなったかは知りません……)。
 また、我々が子供のころに「ピュタゴラスの定理」という名前で習った、いわゆる、「三平方の定理」もどうやらピュタゴラスが考えたものではなく、後にピュタゴラス派と呼ばれるピュタゴラス教団の人々が考えたもののようです。
 このように、ピュタゴラスの生涯については確かなことはほとんどわかりません。
 ここから先は、ピュタゴラスの学説を検討していくことになりますが、むしろ、そういった作業の方が、ピュタゴラスの人物像を直接たどるよりも、ピュタゴラス個人のあり方をより明確に示してくれるかもしれません。


学説
 ここからはピュタゴラスの学説を検討していきたいと思います。
 ただ、何度も書いているようにピュタゴラス自身の学説とピュタゴラス派(ピュタゴラスが作った教団に属していた人々を一般にこう呼びます)の学説とを完全に峻別するのは、私のようなものにとっては不可能なので、一応、ここではピュタゴラスとピュタゴラス派を分けてかきますが、このわけ方が「正しい」というわけではありません。
 あくまでも、私が「そうだと思う」という程度のことです。

1、ピュタゴラス
1-1、ピュタゴラスの実像
 前置きが終わったところで、具体的な内容に入りましょう。
 今日まで残っているピュタゴラスがらみの資料を、ピュタゴラス個人に関するものと、ピュタゴラス派に関するものとに分けることは困難なのですが、しかし、以下にあげる四つの資料は「恐らく」これはピュタゴラス個人に関するものなのではないかと考えられています。

(1)輪廻転生
DK21B7
(ピュタゴラスが)別の時に別の人になって生まれたことについて、クセノパネスは『エレゲイアイ』のなかで証言している。その冒頭部は――
さていまや私はさらに別の話へと向かい、道を指し示そう。
そして、彼がピュタゴラスについていっていることは、こうである。
あるとき彼は仔犬が打たれているところに通りかかり、
これをあわれんで次のように言ったという。
「よせ、ぶつな。確かにこれは私の友人の魂だ。
声を聞いて私はそれとわかったのだ。」

(2)知識人としての人物像
DK31B129
彼らの中に並はずれた知識を持つ一人の男がいた。
その人は知恵の最も豊かな富をわがものとして、
ありとあらゆる賢い業に比類なく通じていた。
まことに彼がひとたびその全精神をあげて自分を差しのべるときは、
彼はおよそ存在するすべてのものの一つひとつをやすやすとみてとった――
十たびも二十たびも繰り返された人間の生涯において。

(3)宗教活動
DK14A4
(28)サモスのピュタゴラスは、……エジプトに赴いて、かの地の人びとの弟子となり、哲学をギリシアにもたらした最初の人であったが、とりわけほかの人々よりも目立って、供犠や神殿における儀式について熱心に研究した。それはたとえそのことで神々から自分に何の利益が与えられなくても、少なくとも人びとの間ではこれによって大いに名声をえるであろうと考えたためである。(29)そして、実際にピュタゴラスはそのようになった。ピュタゴラスは名声の上で他の人びとをはるかに凌駕し、そのために、若者たちはこぞって彼の弟子になることを望んだし、年長の者たちも自分たちの子供らが私事に心を配っているよりは、彼と交流しているところを見ることを喜んだのである。そして、こうした話を信じないわけにはいかない。なぜなら、今日においても、弁論によって大いに名をえている者たちよりも、ピュタゴラスの弟子を自称する者たちを、彼らが沈黙しているにもかかわらず、人びとは敬っているからである。

(4)デモクリトスとのつながり
DK14A6
トラシュロスは次のように言っている。「(デモクリトスは)ピュタゴラス派の人たちの崇拝者であったようである。そればかりでなく、同名の著作の中で、ピュタゴラス自身に言及しながら、彼を称揚している。そして、彼は自分の学説のすべてをこの人からもらい受けたようであり、さらにもしも年代上のことで矛盾がなければ、この人の弟子であったであろう」と。しかしいずれにしても、デモクリトスがピュタゴラス派のうちのある人から教えを受けたことは間違いないと、彼と同時代の人であったレギオンのグラウコスが言っている。

 一つずつ検討してみましょう。
 まず、(1)についてです。この資料は「生涯」の項目でも軽く触れた資料です。つまり、いじめられている子犬を見て、「それは私の友人の魂だ」という現代的にみればちょっと危ない感じの発言をしたということを伝える資料です。
 この資料が伝えていることからすると、ピュタゴラスの友人の魂は、その友人の死後も滅びることなく、友人の体から今度は子犬の体に入って活動しているということになります。このような考え方は我々が普段言う意味での「輪廻転生」と同じものですから馴染み深いでしょう。
 次に、(2)についてです。この資料は、エンペドクレスが自らの著作の中でピュタゴラス(であろうと思われる人)に言及しているものなのですが、この資料によるとピュタゴラスは当時の人たちの中でもずば抜けて知識を持つ人であり、「ありとあらゆる賢い業に通じ」「存在する全てのものをやすやすと見て取った」とされています。
 実際にピュタゴラス自身がそれほどまでに優れていた人物だったのかどうかは定かではありませんが、すくなくとも、当時の人たちがピュタゴラスに対してそのような「人並みはずれて優れた人物」という評価を与えていたということは事実のようです。
 また、この引用文の最後に、ピュタゴラスが知識人として高い評価を得ていたということと、彼の輪廻転生の思想とを結び付けているかのような記述がありますが、この点に関しては、資料も少ないですし、明らかな証拠も無いので、詳しい言及は避けておきます。
 つづいて、(3)についてです。この資料によると、ピュタゴラスはエジプトに行って宗教的な儀式に関する事柄を学び、サモスに戻った後、サモスの人々を集めて人々に自らが修めた知識を教えていたそうです。
 ピュタゴラスが実際にエジプトに行ったかどうかは定かではありませんが、ピュタゴラスが何らかの宗教的な知識に通じていて、当時の人々がその知識を教わるために彼のもとに集まっていたということは、ピュタゴラスが後々自分の教団を開いたということからも確かなようです。
 最後に(4)についてです。この資料によると、ピュタゴラスから少し時代の下った原子論者のデモクリトスは、自らの著作の中でピュタゴラスを賞賛し、ピュタゴラスの学説を受け継いだか、もしくは、ピュタゴラス自身でなくてもピュタゴラス派の学説に触れて強い影響を受けたということになります。
 デモクリトスが自らの自然学の柱としている原子論をピュタゴラス、もしくは、ピュタゴラス派から受け取ったという点については明確に「NO!!!!」と主張することができるでしょう。
 原子論はピュタゴラスではなく、おそらく、レウキッポスという人物から受け継いだものでしょうし、ピュタゴラスやピュタゴラス派との直接的な接点についてもかなり疑わしいです。
 しかし、今日まで伝わってはいませんがデモクリトスが『ピュタゴラス』というタイトルの著作を記していたことは事実のようです。
 そして、仮に、その著作の中でピュタゴラスを賞賛していたとするのであれば、自然学的な側面に関しては両者の間にそれほど相通じるところはないので、恐らく、その賞賛は何らかの倫理的な事柄に関する賞賛であったと考えることができます。
 デモクリトスという人は今日では「原子論」という考え方と抱き合わせにされていますが、実は、今日まで残っている資料の量は原子論関係のものよりも倫理に関するものの法が圧倒的に多いんですね。
 ですから、デモクリトスが倫理というものに人一倍の関心を示していたことは確かですし、ピュタゴラスに言及していたとすれば、その言及は自然学的な関心から為されたものではなく、何らかの倫理的な関心から為されたと考えるのが妥当でしょう。
 そして、そのように考えた場合、当時のピュタゴラスが自らの教団の中で何らかの倫理的な教義を伝えていたと考えるのはおおよそ妥当といえるでしょう。
 さて、このように見てくると、ピュタゴラスは当時の人から「人並みはずれた優れた人で、宗教的、倫理的な事柄に精通している人」とみなされていたと考えることができるでしょう。
 つまり、ピュタゴラス自身の活動はあくまでも倫理的かつ宗教的なもので、これまで私達が見てきた自然学者たちが行っていたような自然学的探求は行っていなかったと考える方が無難です。
 もっといえば、ピュタゴラスが主張したとされる自然学的な事柄(ピュタゴラスの定義なども含む)は、ピュタゴラス自身の手によるものではなく、ピュタゴラスが開いた教団に属する人々が教団内での研究によって生み出したものと考えるべきだということです。
 話を先取りすることになりますが、実際に、ピュタゴラスの教団内部は、ピュタゴラスの学説をできる限りそのまま引き継ごうとする「聴従派」と、ピュタゴラスの学説から派生的に生じてきた分野を純粋に学問的な観点から探究しようとする「学実派」の二つに分かれており、自然学的な研究は後者の学実派が一手に担っていたそうです。
 それゆえ、この教団内部の事情を見ても、自然学的な事柄というのはあくまでもピュタゴラス自身の主張から派生的に生じたものであって、ピュタゴラス自身が直接的に述べたものではないと考えるのが妥当です。
 以上のことから、ピュタゴラス当人は純粋に宗教的な、もしくは、倫理的な主張のみを展開していた人だと考えるべきでしょう。
 さて、ピュタゴラスがどのような分野について自説を展開したのかはこれで明らかになりましたが、では、その主張の具体的な内実はどのようなものだったのでしょうか。次はその点について検討してみましょう。


1-2、輪廻転生
 ピュタゴラス自身は倫理的な事柄について語っていたということを確認しましたが、その具体的な内容としてわかっていることは「輪廻転生」のみです。
 ここでは、ピュタゴラスが考える「輪廻転生」の概念についてみていきましょう。
 そもそも、この当時、ギリシアでは死というものに対して「不死なるもの」と「死すべきもの」という二項対立の考え方が主流でした。
 日本語で「死すべき」というとかなりダークな香りが漂ってきますが、古代ギリシアで言うところの「死すべきもの」とは、「死ぬ運命にあるもの」といった意味で、有限な「生」を生きる人間のことを指します。英語でいうところのmortalですね。
 他方、これに対する「不死なるもの」とは、永遠の「生」を持つ神々のことで、当時の人々はこの「生」の有限無限という観点から、自分達自身に対してその「有限性」を強く意識していました。
 しかし、当時のこのような考え方に対してピュタゴラスは人間が持つ魂の「不死」を主張したんです。
 当然のことながら、輪廻転生するためには魂が消滅してしまったらどうしようもないですよね。
 生まれ変わろうにも、魂が滅んでいたら、「生まれ変わる」というよりもまた新たに「はじめから」になってしまいますから、「生まれ変わる」ということが成立するためには必然的に魂は不死でなければならないんです。
 つまり、ピュタゴラスにとって、「魂」というものは決して滅ぶことなく、それが入っている肉体が滅んだら、次から次へと他の肉体に乗り換えていくものと考えられていたんですね。
 そして、滅び行く肉体と不死なる魂を併せ持っている人間は、魂のないものたちよりもより「不死なるもの(神々)」に近いと考えたんです。
 当然のことながら、当時の一般的な人々もピュタゴラス自身も、人間よりも神々の方がよりハイレベルなものと考えていたわけですが、ピュタゴラスのように魂の不死を主張した場合、人間が神々との対比の上で劣っているのは「肉体」ということになります。
 このように考えてみると、ピュタゴラスにとって、人間が神々よりも劣っている理由は「肉体」であり、肉体が人間にとっての大きなマイナス要素であるとみなされていたと考えるのが自然です。
 実際、ピュタゴラスがこのような考え方をしていたことを示す「ソーマはセーマである」という発言が残されています。
 ギリシア語でソーマとは「肉体」のことであり、セーマとは「お墓」のことです。
 つまり、「ソーマはセーマである」とは「肉体は墓場である」といった意味の言葉なんですね。
 それゆえ、仮に、この言葉が実際にピュタゴラスが語ったものであるとするならば、ピュタゴラスにとって、魂が何らかの肉体に入っている状態、すなわち、我々がある個体について「生きている」とみなす状態は、その魂にとっては、あたかも墓に入っているような不自由な状態ということになります。
 ただ、確かに、魂が不死であるとすると、人間にとってのマイナス要素は肉体だけですから、肉体に対して悪い評価を与えていたと考えることはできます。しかし、実際に、ピュタゴラス自身がそのような評価を下していたかどうかという点についてはいささか疑問の余地があります。
 「ソーマはセーマである」というフレーズもいかにもとってつけたようなキャッチーなフレーズですし、ピュタゴラス自身がこの言葉を語ったということの明確な証拠も不十分です。
 また、この「ソーマはセーマである」という言葉以外に、ピュタゴラスが肉体を低く評価していたことを裏付けるようなフレーズは残っていません。
 ですから、この「ソーマはセーマである」という発言一つを根拠にして、ピュタゴラスは肉体を低く評価していたと断定してしまうのはちょっと勇み足の感があります。
 結局、すごく当たり障りのない結論になってしまいますが、ピュタゴラスの肉体に対する評価という点に関しては、早急に結論を出すのではなく、今後の研究動向を注意深く見守っていくというのが一番無難でしょう。
 最後に、この輪廻転生に関してもう一つだけ言及しておきましょう。
 子犬を見て、「あれは私の友人の魂だ!!!」と叫んだというエピソードはここでもすでに二回も紹介していますが、このエピソードから、ピュタゴラスは人間が犬に生まれ変わるということを認めていたと考えることができます。
 木、草、石といったものになるとどうだか定かではありませんが、すくなくとも、ピュタゴラスにとって人間と動物は「不死なる魂が特定の肉体に入っている」という共通の仕組みを持つものと認識されていたようです。
 そして、その意味で、ピュタゴラスは、「不死なるもの」と人間との間ではレベル的に明確な区別をしていましたが、人間と動物との間にはそれほど大きなレベルの差は認めていなかったと考えることができます。
 この人間と動物との差に関して、そこには「全く差がない」のか、それとも、「極わずかな差」があるのかははっきりとしたことはわかりませんが、すくなくとも、この人間と動物の間に、人間と神々との間にあるような明確な区別を設けてはいなかったということは事実と考えてよいでしょう。


2、ピュタゴラス派
 ピュタゴラス個人の主張を確認したところで、今度は一般にピュタゴラス派と呼ばれるピュタゴラス教団内に所属している人々の考え方を見てみましょう。
 このピュタゴラス派は、時代的なことを言うと、ここで言及するにはいささか早いんですが、ピュタゴラスに言及したついでがありますから、ここでまとめて一気に見てしまうことにします。


2-1、教団の仕組み
 ここでは、謎に包まれているピュタゴラス教団内の仕組みについて触れます。
 ピュタゴラスが教団を創設したのは、ピュタゴラスがサモスからクロトン(南イタリア)に移住した後のことで、年代的には、恐らくB.C.500年ごろのことだと推定できます。
 その後、この教団がいつまで続いたのかは定かではありませんが、B.C.350頃まで生きたアルキュタスという人がピュタゴラス教団の学頭を勤めていたらしいので、その頃まで教団が存続していたのは確かなようです。
 続いて、教団の内部構造についてですが、秘密主義的な色が非常に濃い組織なので、具体的なことはほとんどわかっていません。
 しかし、ピュタゴラスの学説に言及しているときにチラッと名前を出した聴従派と学実派という二つの学派が教団内に存在していたことは確かなようです。
 これら二つの学派のうち、聴従派はピュタゴラス個人が示した倫理的な主張(教義?)をそのまま引き継ぐことを意図している派閥であり、学実派はそのピュタゴラスの教義から派生的に生じる分野(自然学や数学)を熱心に研究した派閥です。
 それゆえ、「ピュタゴラスの定理」をはじめとして、現代の我々がピュタゴラスの考えたものとして受け入れているもののほとんどは、ピュタゴラス自身ではなく、恐らくは、この学実派に由来するものと考えることができます
 これら両派の人々を含め、教団に属する人々は、アクースマタ(訓戒)と呼ばれる生活規範のようなものに従って共同生活を営みながら暮らしていました。
 その訓戒の一部として伝えられるのが有名な「豆を食べてはならない」ですが、この一節が本当に訓戒として言われていたことなのかは定かではありません。


2-2、学説
 ここでは、ピュタゴラス派が伝えている学説を紹介していきます。

2-2-1、クロトンのピロラオス
 このクロトンのピロラオスという人物は、ピュタゴラス教団のなかでも学実派に属する人物であり、主に自然学的な面で功績を残したと考えられています。
 ピロラオスはこの自然界に存在するあらゆるものをつかさどっているのは二つの原理だと考えました。
 一つは「無限定なもの」と呼ばれるもので、自分自身のうちにいかなる限定も持たない連続体(この「連続体」というのは「ずっとつながっているもの」ぐらいに考えておけばよいでしょう)であるとされていました。ミレトス派のアナクシマンドロスが同じ「無限定なもの」という概念を主張しましたが、性質的に考えて、両者はほぼ同じものと考えて差し支えないでしょう。もちろん、このピロラオスがアナクサゴラスのことを知っていたかどうかは定かではありませんし(まず間違いなく知っていたと思いますが…)、アナクサゴラスの「無限定なもの」とピロラオスが主張する「無限定なもの」を直接的に結びつけるものはありません。
 ですから、両者が主張する「無限定なもの」の間に何らかの関連性があるのか否かは定かではありませんが、概念としてはほぼ同質のものと考えて間違いないでしょう。
 もう一つの原理は「限定するもの」と呼ばれるもので、もう一方の原理である「無限定なもの」を何らかの仕方で限定することによって、その「無限定なもの」に形態や構造、質といった要素を与えるものです(この「限定するもの」はプラトン的な言い方をすれば「イデア」、アリストテレス的な言い方をすれば「形相」ということになるのでしょうが、それはまた別のお話……)。
 そして、ピロラオスはこれら二つの原理を用意した上で、これらの原理は特定のハルモニア(調和)によって結合すると考えました


2-2-2、ハルモニア(調和)
 ピロラオスの項目で二つの原理がハルモニアに従って結びつくと書きましたが、このハルモニアとは一体何なのでしょうか。
 以前、どこかのテレビ局で、『ハルモニア』という名前の音楽ドラマが放送されていたことがありましたが(ちなみに私は見てません)、ピュタゴラス派に関する文脈で言われる「ハルモニア」も音楽と無関係ではありません。
 ピュタゴラス派の人々はオクターブ、五度、四度の音程を作り出す比率が、それぞれ、12:6=2:1、12:8=3:2、12:9=4:3であるという点に着目して、これらの音階によって音楽が作られるのと同じ仕方で、世界が秩序付けられると考えたんです。
 そして、特定の調和をなす数的な比率によって、世界のもととなる二つの原理が統合され、その結果として、世界が今あるような仕方で秩序付けられると考えました。
 この音階と世界を秩序付けることを結びつけるという点には論理性がありません。
 恐らく、ピュタゴラス自身が(もしくはピュタゴラス派の人々が)直感的に抱いた着想なのでしょうが、この論理性のなさは、ピュタゴラス教団が学問を探究する研究所的なものではなく、宗教団体とみなされる原因の一つだと考えられます。
 以上がピュタゴラスとピュタゴラス派の概略です。
 ピュタゴラスやピュタゴラス派が主張した学説には、個々の要素をつなぎ合わせる論理性がなく、直感的に抱いたのであろう考えを断片的につなぎ合わせているので、それを「説明する」ということは極めて困難です。
 実際、私がここに書いたことのほかにも、テトラクテュスやアリストテレスの残した資料に見られる「万物は数である」という考え方があります。
 しかし、これらの考え方が、ここで私が示したピュタゴラス派の主張とどのように結びついていたのかは一切不明ですし、先にも書いた論理性のなさゆえに、論理の糸をたどってつながりを特定するという方法も使えません。
 それゆえ、このコンテンツでは、最後に、このテトラクテュスと「万物は数である」という主張について、離れ小島的に一言だけ添えて、ピュタゴラス派の説明を終わりたいと思います。


3、テトラクテュス
 10を完全数であると考えていたピュタゴラス派の人々は、下から4:3:2:1で構成される正三角形をテトラクテュスとよんで珍重していました。しかし、このテトラクテュスがピュタゴラス教団の学説においてどのような位置を占めるのか、また、どのようなものとして機能していたのか、そういったことに関してはよくわかっていません。


4、「万物は数である」
 これはアリストテレスがピュタゴラス派の主張を解釈して述べた言葉です。恐らく、アリストテレスはこの言葉を言うことによって、「ピュタゴラス派にとってアルケーとは数であった」ということを主張しようとしたのだと考えられますが、実際に、ピュタゴラスおよび彼の学派の人々が数に物理的な意味での実体性を認めて、それをアルケーとしていたという証拠はありません。
 むしろ、これは、ヘラクレイトスのときと同様に、アリストテレスによって捻じ曲げられたピュタゴラス派の解釈と考えるべきでしょう。

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