ゼノン
生涯
 パルメニデスが開いたといわれるエレア派という学派に属し、パルメニデスの学説を有名なパラドックスを用いて補強しようとしたのがこのゼノンです。
 もともとはテレウタゴラスという人の息子だったらしいのですが、後に、パルメニデスの養子になりました。
 養子になったとは、師弟関係であると同時に、同性愛的な関係でもあったようです。
 プラトンが残した対話編にもパルメニデスとゼノンは師弟として登場しますが、対話編中に描かれているゼノンは、パルメニデスがロマンスグレーな雰囲気漂うダンディーな老人として描かれているのとは対照的に、背の高いりっぱな青年として描かれています。
 学説的にはそのパラドックスで後世まで名前を残しているゼノンですが、生涯のエピソードとして一番印象的なのは、やはりその死に様でしょう。
 ゼノンは、その当時、僭主として君臨していたネアルコスを仲間とともに打ち倒すべく、クーデターを計画していましたが、途中でネアルコスにそのことがばれて囚われの身になってしまいます。
 仲間の情報を吐くよう強制されたゼノンは、「ネアルコスに直接耳打ちして話す」と言って、ネアルコスに近づき、耳打ちする不利をしてそのままネアルコスの耳に噛み付きます。
 当然のことながら、ゼノンはその場でネアルコスの部下達にボコボコにされ、最終的には刺し殺されてしまうのですが、ゼノンは死ぬときまでネアルコスの耳に噛み付いたままだったそうです。
 師匠であるパルメニデスとは対照的に、かなり壮絶な最期を遂げたゼノンですが、学説的な評価はその当時からかなり高く、アリストテレスはゼノンをその独特の論法ゆえに「弁証法の祖」と位置づけています。


学説
 ゼノンといえばパラドックス、パラドックスといえばゼノンというぐらい、ゼノンの名前はパラドックスという言葉と一緒に使われることが多いです。
 一般にゼノンが提出したといわれているパラドックスは「二分割」「アキレウスと亀」「飛ばない矢」「運動場」の四つのことなのですが(たぶん、「アキレウスと亀」が一番有名なんじゃないでしょうか…)、これら四つのパラドックスを説明する前に、そもそも、なんでゼノンはこれらのパラドックスをあらわしたのかということにコメントしておきましょう。
 パルメニデスの項目で確認したように、ゼノンの学問における師匠であるパルメニデスは「ある」ということを主張しました。
 ゼノンはパルメニデスのこの「ある」を存在の意味で解釈し、さらにはパルメニデスのFr.8で言われている8つの性質のうち、「一性」と「不動性」に着目します。
 ゼノンのパルメニデス解釈は、パルメニデスの項目で示した解釈1の解釈と同じであろうと考えて差し支えないと思いますが、ゼノンは「一」と「不動」を「真」と主張するパルメニデスの学説を補強するべく、一ひねり加えた議論を展開します。
 パルメニデスは「一である」「不動である」と直接的に主張するだけでしたが、ゼノンは「一」と「不動」とは逆のこと、即ち、「多」と「動」を一旦は「真」と認め、それらのものが「真であったとすると…」と仮定して議論を展開するとパラドックスが生じるということを主張します。そして、「多」と「動」が真だとするとパラドックスが生じてしまうということを理由に、「多」と「動」を「真」とは認めずに、「多」や「動」とは逆のもの、すなわち、「一」と「不動」が真であると主張するんです。
 つまり、「多と動が真だとしましょう、でもそれに基づいて議論を展開するとパラドックスに陥りますね、だから、多と動は偽で一と不動が真なんです」という主張ですね。
 あることがらAが「真」であるということを主張したいときに、Aとは逆のnot Aを一旦「真」と仮定しておいて、そのnot Aに基づいて議論を展開すると矛盾が生じるからやっぱりAが正しいんだとする、この手の議論のやり方は今日では帰謬法と呼ばれています。
 この帰謬法は背理法とも呼ばれますが、アリストテレスはそれ以前まで見られなかった新しい議論の方法を表立って主張したという点でゼノンを「弁証法の祖」と呼んでいるんです。
 さて、ここまでが前置き。ここからがゼノンの本番です。
 ゼノンが使った帰謬法は「Aが真であるということを主張したいときに、Aとは逆のnot Aを一旦真と仮定しておいて、そのnot Aに基づいて議論を展開すると矛盾が生じるからやっぱりAが正しいんだ」とするやり方であることを説明しましたが、ゼノンの学説を検討する際に注目すべきなのは、この「矛盾が生じる」とう箇所です。
 「多」と「動」を仮定した際に生じる「矛盾」、それこそが、ゼノンが提出した4つのパラドックスなんです。
 つまり、一般に言われるゼノンのパラドックスとは、ゼノンが行っていた論証の途中にあらわれるものなんですね。
 では、ここからはゼノンが主張した4つのパラドックスがどのようなものなのか、一つ一つ具体的に見ていくことにしましょう。


ゼノンのパラドックス(「動」の否定)
パラドックス1…「二分割」
 一つ目のパラドックスがこの「二分割」です。

 「動」があると仮定する。
 その場合、以下のような状況が想定できる。
 ある人が地点Aから目的地Bまで「動く」とする。その場合、その人は地点Aと地点Bの半分の地点Cを通過しなければならない。しかし、地点Aから地点Cに行く際には、地点Aと地点Cの中間地点である地点Dを通過しなければならない。しかし、地点Aから地点Dに行くためにはその中間地点である地点Eを……。これは無限に続く。それゆえ、ある地点から他の地点まで移動する際には、無限の点を通過しなければならない。
 無限の点を通過することは不可能なので、このある人はいつまでたってもA地点からB地点に辿り着けない。
 しかし、これはおかしなことである。
 「動」があると仮定すると、このようなおかしなことが帰結する。
 よって、「『動』がある」というもともとの前提が間違っている。
 それゆえ、「動」は存在しない。

 これがゼノンの一つ目のパラドックスです。
 「動」を真だと仮定すると、「動かない」という結論が生じてしまう。このパラドックスのゆえに、ゼノンはおおもとの前提である「動」を否定して、「不動」を真とするんですね。
 ゼノンは、このような手順でパルメニデスの「不動」を補強します。


パラドックス2…「アキレウスと亀」
 二つ目のパラドックスがこの「アキレウスと亀」です。

 「動」があると仮定する
 その場合、以下のような状況が想定できる。
 アキレウスと亀が競走する。亀にハンデを与えて亀に若干リードさせ、アキレウスは少し遅れてスタートする。その場合、アキレウスも亀もゴールに向かって動いているのだから、アキレウスが亀に追いつくためには亀がいた地点Aに到達しなければならない。しかし、アキレウスが亀のいた地点Aに到着するときには、亀はさらに少し先の地点Bに進んでいる。それゆえ、アキレウスが亀に追いつくためには、亀がさらに進んだ地点Bに到達する必要がある。しかし、アキレウスが亀のいた地点Bに到着するときには、亀はさらに少しだけ先に進んだ地点Cに進んでいる。それゆえ、アキレウスが亀に追いつくためには、亀がさらに進んだ地点Cに到達する必要がある。しかし、……。これは無限に続く。
 つまり、アキレウスが亀に追いつくためには無限の地点を通過しなければならない。
 無限の点を通過することは不可能である。
 それゆえ、アキレウスは亀に追いつけない。
 しかし、これはおかしなことである。
 「動」があると仮定すると、このようなおかしなことが帰結する。
 よって、「『動』がある」というもともとの前提が間違っている。
 それゆえ、「動」は存在しない。

 これがゼノンの二つ目のパラドックスです。
 このパラドックスは一つ目の「二分割」のパラドックスと内容的には一緒ですから、一つ目の別アレンジ版と考えることができるでしょう。


パラドックス3…「飛ばない矢」
 三つ目のパラドックスがこの「飛ばない矢」です。このパラドックスはこれまで見てきた二つのものと若干毛色が違います。

 「動」があると仮定する。
 その場合、以下のような状況が想定できる。
 なんであれ、あらゆるものはそのもの自身の大きさと同じ大きさの空間を占有しているときに止まっているとみなされる。
 時間は無限に分割できる瞬間瞬間の積み重ねである。
 飛んでいる矢は瞬間瞬間をみてみると、常に矢それ自身と同じ大きさの空間を占有している。
 矢が飛ぶということは、矢が静止している状態の積み重ねである。
 よって、矢は飛ばない。
 しかし、これはおかしなことである。
 「動」があると仮定すると、このようなおかしなことが帰結する。
 よって、「『動』がある」というもともとの前提が間違っている。
 それゆえ、「動」は存在しない。

 これがゼノンの三つ目のパラドックスです。
 「二分割」と「アキレウスと亀」は空間が無限に分割可能であるということが前提とされ、空間を無限に分割した際に生じる無限の点を全て通過しきることは不可能であるという観点からパラドックスが生じていました。
 しかし、この「飛ばない矢」は空間の無限分割だけでなく、時間の無限分割も前提とし。その結果として生じたパラドックスだと考えられます。


パラドックス4…「運動場」
 最後のパラドックスがこの「運動場」です。
 これは文字だけで説明するとものすごくわかりづらいので、以下の図を参照しながら考えて見て下さい。

図1



図2

前提1…時間と空間はそれ以上分割できない最小構成単位の積み重ねでできている。
前提2…図の中にあるA1〜4、B1〜4、C1〜4の四角形は空間の最小構成単位を表す。
前提3…A、B、Cの各列は一こまずつ動いていくが、一こまあたり動くのにかかる時間は、時間を構成する最小構成単位に等しい。
前提4…A、B、Cの各列はそれぞれ等速で動く。

 さて、以上の図と前提1〜4を踏まえたうえで、以下のような状況を考えてみましょう。

 「動」があると仮定する。
 その場合、以下のような状況が想定できる。
 A列は動かないまま、B列が右に、そして、C列が左に動いて図1から図2の状態に変化する。
 すると、このとき、A列の先頭であるA1はB列のB1とB2の二つとすれ違う。
 しかし、C列の先頭であるC1はB列の四つ全てとすれ違う。
 一こまあたり動くのにかかる時間が時間を構成する最小構成単位に等しく(前提3)、尚且つ、各列が等速で動く(前提4)のであれば、A1が二つのものとすれ違う時間とC1が四つのものとすれ違う時間が同じになってしまう。
 これはおかしなことである。
 「動」があると仮定すると、このようなおかしなことが帰結する。
 よって、「『動』がある」というもともとの前提が間違っている。
 それゆえ、「動」は存在しない。

 これが、ゼノンの示した四つ目のパラドックスです。
 ゼノンは「動」が真であると仮定すると、このようなパラドックスが生じてしまうため、「動」は偽であるとして、師匠であるパルメニデスの「ある」の概念を補強しようとしたんですね。


「多」の否定
 ここまでみてきて、注意深くこのコンテンツを読んできた方々の中には「『学説』の冒頭で、ゼノンは『多』も否定するっていってなかったか?『動』ばっかり問題にしてるけど…」と思われている方もいらっしゃるでしょう。
 確かに、有名なゼノンの四つのパラドックスは、どれも皆、「動」を肯定した場合に生じる不都合を表したものでした。
 じゃあ、「多」は?という話になりますが、ここで、あまり知られていないのですが、ゼノンが「多」を否定する際に用いた議論を紹介しておきましょう。
 ただ、その前に、ここでゼノンが「多」を否定する際に用いた「二律背反」という議論のやり方を解説しておきます。
 「二律背反」とは、簡潔に言うと、本来矛盾するはずの二つの命題が同時に成り立ってしまうことです。
 命題という言葉がいまいちわかりづらければ「命題」を「事柄」ぐらいの表現に言い換えてもけっこうです。
 矛盾する命題が動氏に成り立っているという事例は極めて特殊なので、なかなか具体例が見つけづらいのですが、例えば、三度の飯より甘いものが好きだというAさんがものすごく固い決意でダイエットをしていたとしますよね。甘いものは絶対に禁止!!甘いものが少しでも口に入ったら切腹するというぐらいのものすごく固い決意でダイエットをしています。
 ところがある日、そんなAさんのところに、友人のBさんが、とてつもなく美味いと全国的にも評判になるぐらいのおいしそうなケーキを買ってきたとします。
 BさんはAさんがダイエット中だという事実を知りませんから、何の悪気もなく「ケーキ食べない?」とフレンドリーに聞いてきます。
 このとき、Aさんの心の中では「ダイエット中だからそんなもの食べたくない!!」という考えと「ダイエット中だけど、そのケーキは食べたい!!」という考えの二つが同時に成り立っています。
 Aさんの頭の中に浮かんでいる二つの考えは矛盾する願いです。
 しかし、Aさんのなかではその矛盾する考えが成り立ってしまっています。
 このAさんの頭の中の状況が二律背反のわかりやすい例えです。
 あんまりいい例えじゃないかもしれないですけど、二律背反は本当に具体例が難しいのでご容赦ください。
 さて、二律背反はだいたいご理解いただけたと思うので、ここから具体的にゼノンによる「多」の論駁をみてみましょう。

1、もしも「多」が真であるなら、それぞれの存在者は無限に「大」でありかつ無限に「小」である
 ゼノンは「多」を否定する際に二種類の二律背反を用いますが、そのうちの一つがここの表題にもなっている「もしも『多』が真であるなら、それぞれの存在者は無限に『大』でありかつ無限に『小』である」というものです。
 この二律背反は、以下に示す資料の中にかかれています。

Fr.1
大きさにおいて(無限であること)は、その前に、同じ論法によって彼は論じている。すなわち、まず「あるものが大きさをもたなければ、それはそもそも存在しえないであろう」ということを示したうえで、こう論を進めている。「存在するからには、そのもののいずれの部分も何らかの大きさを持ち、厚みとそれぞれの部分同士の隔たりを持っていなければならない。そして、この同じ議論は、そこに現れた各部分についても成立する。すなわち、それらの各部分もまた大きさを持ち、したがって、それらの何らかの部分が現れることになろう。そして、これと同様のことは、一度言われれば絶えず何度でも語られうる。なぜなら、こうしたものの最終の部分をなすべきものありえないだろうし、別の諸部分へのつながりが次々と生ずることになるからである。このようにして、多があるとすれば、それらのものは小にしてかつ大でなければならない。すなわち、大きさを持たぬまでに小さいとともに、無際限なまでに大きくなければならない」。

 一応、この資料で、「もしも『多』が真であるなら、それぞれの存在者は無限に『大』でありかつ無限に『小』である」という二律背反が示されているということになっているのですが、正直、ちょっとわかりづらいですよね。
 それというのも、そもそも、この資料、互いに反する二つの命題のうち、「もしも『多』が真であるならそれぞれの存在者は無限に小さい」という命題を論証する部分が欠落してしまっているんです。
 ですから、実質的に、現代まで残っている命題は片方の「もしも『多』が真であるならそれぞれの存在者は無限に大きい」を論証するものだけなんです。
 ただでさえ、表現がわかりづらいのに、半分なくなっているとなるとわかりにくいのも当然です。
 ですから、ここでは、残っている方から失われている方を推測し、なおかつ、それを簡潔に言い換えることで解説していこうと思います。
 先ずは、失われていない「もしも『多』が真であるならそれぞれの存在者は無限に大きい」という命題を検討してみましょう。

(1)もしも「多」が真であるならそれぞれの存在者は無限に大きい
T 大きさをもたないものは存在しない
U それゆえ、あるものが存在するならばそれは大きさをもたなければならない。
V 大きさをもつものは、互いに大きさをもつ二つの部分を持つ(これ、別に二つの部分にパカッと分けることができなくても、二つの部分を持っているというふうにみなせればそれでいいです。つまり、おにぎりが一個あったとして、別にそのおにぎりを二つに分けなくても、おにぎりの右側と左側みたいに二つの部分を見出せればそれでOKです)。
W 二つの部分がそれぞれに大きさをもつならば、それら二つの部分は、それぞれに大きさをもったさらなる二つの部分を持つ(ここの段階で、最初から見れば四分の一になってますね)。そして、それぞれに大きさをもつ更なる二つの部分は、それが大きさをもっているのだから、それぞれに大きさをもつ更なる二つの部分をもつ。そして……
X これは無限に続く(つまり、もとの大きさからみて、八分の一、十六分の一、三十二分の一…という具合に無限に部分を見出せるということです)。
Y よって、大きさをもつものは、それぞれに大きさをもつ無限に多くの部分を持っていることになる。
Z 大きさをもつものが無限にあるのだから、もともとのものは無限に大きい。
 このように、「多」が真であることを仮定すると、それぞれの存在者が無限に大きいという帰結が生じます。

(2)もしも「多」が真であるならそれぞれの存在者は無限に小さい
T 大きさをもたないものは存在しない
U それゆえ、あるものが存在するならばそれは大きさをもたなければならない。
V 大きさをもつものには、それぞれに大きさをもつ無限に多くの部分を見出すことができる(このことは括弧1で論証されていますね)。
W それゆえ、大きさをもつものの最小の部分の大きさは無限に小さいことになる。
X このことから、無限に小さいものが集まっているもとのものは無限に小さいことになる。
 このように、「多」が真であることを仮定すると、それぞれの存在者が無限に小さいという帰結が生じます。

 こんな感じで、「多」が真であることを仮定すると、「それぞれの存在者は無限に大きい」と「それぞれの存在者は無限に小さい」という二つの相反する命題が両方成立してしまいます。
 そして、このことから、ゼノンは「『多』が真である」という前提が間違っていると結論付けて、「多」を否定するんです。


2、もしも「多」が真であるなら、存在者の数は有限でありかつ無限である
 ゼノンが「多」を否定する際に用いたもう一つの二律背反が、この「もしも『多』が真であるなら、存在者の数は有限でありかつ無限である」です。
 この二律背反は、以下に示す資料の中に書かれています。

Fr.3
どうして多言を要しようか、ゼノンの著作そのもののうちに述べられているではないか。すなわち、もう一度彼は、もし多があるならば、同じそれらのものは有限であるとともに無限である、ということを示しているのであり、ゼノンはそれを次のような言葉で書き記している。
「もし多があるならば、それらは必ず現にあるそれだけの数あり、それ以上に多くもなければ少なくもない。しかるに、現にあるそれだけの数あるとすれば、それらは有限となろう。
もし多があるならば、あるものは(数的に)無限である。なぜならば、あるもの同士の間にいつも別のものがあり、そしてさらに、その別のものの間にまた別のものがあるからである。かくして、あるものは(数的に)無限である」。
このようにして、彼は、数的に無限であることを二分割にもとづいて示したのである。

 こちらの資料は、二律背反の相対する二つの命題が両方とも論証されていますし、さっきの資料よりも表現がわかりやすいので、さっきのやつよりはいくらか理解しやすいと思います。
 でも、まあ、一応、さっきと同じように二つの命題に分けてそれぞれの論証を見てみましょう。

(1)もしも「多」が真であるなら、存在者の数は有限である。
T 「多」は真である
U その場合、存在者はいま存在している分だけ存在しており、その数は今存在しているのよりも多くもなければ少なくもない。
V それゆえ、存在者の数は有限である。
 このように、「多」が真であることを仮定すると、存在者の数は有限であるということが帰結します。

(2)もしも「多」が真であるなら、存在者の数は無限である。
T 「多」は真である
U その場合、何らかの仕方で区別することができる二つの存在者AとBの間には、それらのものを区切る第三のものCが存在していなければならない。
V さらに、CとBの間にはそれらを区切る第四のものDが存在していなければならない。さらにCとDの間にはそれらを区切る第五のものEが……
W これは無限に続く。
X それゆえ、存在者の数は無限である。
 このように、「多」が真であることを仮定すると、存在者の数は無限であるということが帰結します。

 こういう具合に、ゼノンは「多」が真であるという前提から、「存在者は有限である」と「存在者は無限である」という相反する二つの命題が帰結することを導きます。

 さて、以上で、パラドックスによる「動」の否定と、二律背反による「多」の否定という二つのやり方によって、「動」と「多」という二つを退けて、師匠であるパルメニデスが主張した「不動」と「一」を補強するんですね。
 こうやってみてくると、ゼノンはパルメニデスの学説を補強しているばかりで自分独自の学説を表していないじゃないかと思うかもしれませんが、実際、今日まで残っている資料の中にはゼノンに独自の学説といえるようなものは見出せません。
 一応、自然学的な部分で「多宇宙論」のような学説を主張していたような痕跡はあるのですが、そちらの方はあまり資料も残っていませんし、なんともいえません。
 ですから、ゼノンに関しては、もうスパッと、「パルメニデスを強化した人物」と考えておくのが無難でしょう。

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