歩いても歩いても
監督:是枝裕和
出演:阿部寛、樹木希林、原田芳雄、夏川結衣、YOU、高橋和也、他
時間:1h54
近所のミニシアターでみてきました。
予告編動画
ストーリー
夏のある日、阿部寛演じる横山良多は、妻や息子と共に、両親の待つ実家へ里帰りする。そこには良多の姉であるちなみの家族も集まっていて、久しぶりの再会に茶の間ではにぎやかな語らいが始まる。しかし、その日は15年前に事故でなくなった長男の命日であり、集まった家族も、それぞれに様々な問題を抱えていた…
ある夏の、たった一日の出来事を描いた映画なんですが、本当に色んな切り口から観ることのできる多面的な作品ですね。
日本に住むごく普通の家族が経験する夏の日の日常を坦々と描いた映画と観ることもできるでしょうし、表面的な穏やかさの中に一瞬だけ垣間見える人間の恐ろしさをたくみに描き出した映画と観ることもできるでしょう。
ただ、もう一つの観方として、人間関係の中でわれわれが日常的に使っている「建て前」の部分をこの上なく肯定的に描いている映画としてみることも可能でしょう。
よく、「日本は『本音』を隠した『建て前』の社会で、諸外国は『建て前』のない『本音』の社会だ」なんていう紋切り型の何の根拠もない発言を耳にすることがありますが、これって、ありえない話ですよね。
どんな社会であれ、どんな国であれ、そこに人間関係がある以上「建て前」っていうものは必ず存在しますし、その「建て前」的な行いを一度もやったことがない人なんていうのも、いるはずがないですよね。
もしも、「建て前」的なものが全くない社会があったとしたら、そんなもの、社会として成立するはずがありませんし、「建て前」的な行いを一度もやったことがない人がいたとしたらそれはそれで誰とも人間関係を築けないと思うんですよね。
「建て前」って、基本的には「気遣い」の親戚みたいなものですから、人間が生活している以上、それがどこであっても必ず「建て前」的なものは存在しているはずです。
そういった具合に、いたるところに「建て前」的なものは偏在しているわけですが、映画に限らず様々な創作物の中で、この「建て前」的なものを肯定的に描いた作品となると、なかなかお目にかかれないんですよね。
映画に登場するキャラクターって、往々にして、他人を気にせず「本音」で振舞う傍若無人なキャラクターが主人公的な位置を担う場合が多いですよね。
そして、「本音」を見せずに「建て前」的な振る舞いを繰り返すキャラクターはといえば、大体は、悪者的なポジションに位置づけられています。
『ドラゴンボール』の「孫悟空」、『七人の侍』の「菊千代」、教師もののドラマに登場する熱血教師的な主人公、これらの作品と登場人物にみられるように、製作された時代の変化に関係なく、創作物の登場人物においては、おおよそ、「主人公=本音」みたいな図式が成立しています。
そういったわけで、「本音」に対する「建て前」的なものは、どうも肯定的に扱われることが少ないんですよね。
ところが、本作『歩いても歩いても』はその「建て前」的なものをこの上なく肯定的に描いているんです。
ストーリーを紹介した時に、「それぞれの家族がそれぞれにちょっとした問題を抱えていて…」みたいなことを書きましよね。
結論を言ってしまいますが、このそれぞれの家族が抱える「問題」は最後まで何一つ片付かないんです。
その片付かない原因の一つが、この家に集まった人びとが取る「建て前」的な態度であり、この「建て前」的な態度が存在せずに、家族の個々人が徹底的に「本音」でぶつかれば、もしかすると、問題の一つぐらい片付いたかもしれないんです。しかし、それでもなお、本作は、この問題解決を困難にする「建て前」的な態度を肯定的に描くんですね。
実際に映画をみてもらうのが一番手っ取り早いんですが、この家に集まった人は、みんな何かしら心にわだかまりを抱えていて、モヤモヤした状態なんです。でも、モヤモヤした状態のままでありながら、この家族のあり様ってすごく幸せそうなんですね。
例え、その「幸せそう」な雰囲気も所詮は「建て前」的なもので作り上げられた「建て前」的な幸せだったとしても、それでもなおかつ、この家族の「幸せ」って否定できないものだと思うんですよね。
本作に登場する人たちが作り上げる「幸せ」は、決して「本音」でぶつからないからこそ手にすることができた、ある意味で、「かりそめ」のはかない幸せなのかもしれません。
でも、見方を変えれば、これは「本音」でぶつからないからこその「幸せ」であり、誰もが「建て前」的に振舞っているからこそ成立する「幸せ」だと考えることもできるはずです。
「幸せ」の定義は人それぞれでしょうし、本作のような煮え切らない「幸せ」を「幸せ」と認めたくないと思う人もたくさんいると思うんです。
それでも、なおかつ、私は本作に描かれているような、「建て前」的なものに基づく平穏を「幸せ」と認めたいですね。
どこか怪しくて、どこかおぼつかないけれど、「幸せ」って、きっと、そういうものだと思うんです。