明日の記憶
監督:堤幸彦
出演:渡辺謙、樋口可南子、吹石一恵、水川あさみ、市川勇
時間:2h02
残酷で重い映画ですね。
でも、その残酷な重さの中に無限大の愛と希望を感じさせてくれる映画でもあります。
人間は人間である限り、常に何かを忘れていきます。
そうでなければとても生きていられないでしょうし、そういった意味では「忘れる」という機能は人間にとって生きるために必須の機能なのでしょう。
でも、その「忘れる」という機能があるとき暴走し始めたら、それはこの上ない恐怖ですよね。
若年性アルツハイマー病を宣告されたとき、渡辺兼が演じる主人公の佐伯は、樋口可南子演じる妻に向かって「俺が俺じゃなくなっても・・・・・・」という台詞を投げかけます。
この台詞を述べたときの佐伯の声がものすごく弱々しいんですけど、その声を表現する一つの比喩表現として、「すべてを失ったかのような」という表現を選択することは決して不自然なことではないでしょう。
しかし、この映画の中で佐伯に起こっている状況は比喩ではありません。彼は、現実のリアルな事実として「すべて」を失う状況にあるんです。
会社も、友人も、子供も、孫も、妻も、誰一人佐伯のそばを離れようとはしません。しかし、そうであるにもかかわらず、「忘れる」という機能の暴走によって、佐伯はすべてを失ってしまうんです。
あくまでも私の個人的な意見ですが、この映画に描かれる「記憶を失う」ということの恐怖の本質は、この「失う」という事実が誰かの意思によって意図的になされる行為として成立するのではなく、人間の意志がまったく介在しない一つの自然現象のレベルで成立してしまうという点にあるのではないでしょうか。
「自然の前で人は無力」。こんな表現はすでにあらゆるところで使い古されて、ちょっと陳腐な雰囲気さえも漂っていますが、実際に、自然現象として成立している「記憶を失う」という事実を前に、この映画の佐伯はただ無力です。
この映画のラストシーンで、佐伯が妻の枝実子のことを忘れてしまったシーンを我々はどう解釈すべきなのでしょうか。
ある人はそこに描かれる枝実子の涙と振る舞いを「強さ」と解釈するでしょうし、より楽観的な人は「永遠の初恋の始まり」と解釈するのでしょう。
でも、この映画のラストは本当に「強さ」や「永遠の初恋」といったどこか甘酸っぱいニュアンスの伴う言葉で片付けてよいものなのでしょうか。
結局、単なる事実なのでしょう。
佐伯が妻を忘れ、妻が涙をながしながらも佐伯の後を静かについていく。この映画のラストは、そういったこの上なく残酷な事実があり得るという一つの可能性をただありのままに映そうとしているのではないでしょうか。
この感想の冒頭に、「無限大の愛と希望を感じさせる」と書きましたが、この映画の中に描かれている状況に愛や希望なんかありません。
描かれているのは、アルツハイマーという現実の前で、ただ意味もなくそれに抗い続ける哀れな人間の姿です。
でも、そんな残酷な状況を見せ付けてなお、この映画はそれを見る人に「愛」や「希望」を抱かせるんです。
その愛や希望の原因はいったい何なのでしょうか。どうにもならない現実の前でも希望を持っていたいという見る側のささやかな欲求なのでしょうか。それとも「愛」というものに対して見る側が持っている、ある意味で無根拠な信頼なのでしょうか。その真偽は定かではありません。
でも、この映画が、事実として生じうる一つの残酷な可能性を写し取っているのと同時に、それを見るものに「愛」や「希望」を感じさせてくれるということは紛れもない事実ですね。